もしも戦国時代にインターネットがあったら、織田信長はSNSをこう駆使していた!?

もしも戦国時代にインターネットがあったら、織田信長はSNSをこう駆使していた!?

権謀術数うずまく戦国時代。通信技術が未発達で、じかに会うか手紙くらいしかコミュニケーションの手段がなかった時代は、誰もが疑心暗鬼と不安にとらわれていたことでしょう。

でも、もしこの時代にインターネットが整備されていたら、どうなっていたでしょうか?

そんな妄想を1冊の書籍にまで昇華させたのが、大手ネットメディアで働くスエヒロさんです。

スエヒロさんは、自身のTwitterで、歴史上の人物・出来事と現代のメディアをミックスさせたパロディ画像を作成・投稿して人気を呼び、フォロワー数は10万人を超える方。それらを元にした著書に『【至急】塩を止められて困っています【信玄】』(飛鳥新社)、『豊臣秀吉を名乗る人物から刀狩りの連絡が来ました。詐欺でしょうか?』(幻冬舎)などがあります。 

今回取り上げるのは、最新の著作となる『インスタ映えする戦国時代』(大和書房)です。戦国武将が、インターネットを使いこなせる環境にあったら、どんな情報が仮想空間を飛び交っていたか、史実解説とともに面白く描写されています。当然ながら、全部は紹介しきれないので、織田信長ネタに限定して幾つか見てみましょう。例えば―

信長が火縄銃を食べログ風にレビュー

もし、「食べログ」に似たレビューサイトの「戦国ログ」というものがあったら?

火縄銃の食べログ風レビュー(本書16pより)

新しいもの好きの信長が、火縄銃を初めて使用して、4.5点(5点満点)という得点をつけています。高評価の理由は「射程距離と威力が飛び抜けてすごい」こと。ただし、「コスパと雨の日の使い勝手を鑑みて-0.5」と評しています。

「弓矢に戻れない」と絶賛するとおり、史実でも3千丁(諸説あり)の火縄銃を装備していたという信長。でも、こんなサイトがあれば、敵将もこぞって火縄銃を求め、拮抗する合戦が増えていたかもしれません。

ちなみに、信長が火縄銃を大活用した合戦で有名なものに長篠の戦があります。このときは、弾丸の発射速度が低いという難点を補うため、三人一組となって次々に撃つ「三段撃ち戦法」を採用したことが有名ですが、近年の研究では実在は疑問視されているそうです。

信長が延暦寺焼き討ちをツイート

もし、信長がTwitterのアカウントを持っていて、自分の活動を都度ツイートしていたら?

信長の延暦寺の焼き討ち炎上ツイート(本書54pより)

ツイートでは、延暦寺が「浅井・朝倉勢に味方」していたこと、「これも天下統一の為」とエクスキューズがありますが、宗教的・伝統的権威を象徴する延暦寺を焼き討ちすることには、周囲から反対の声がありました。そして、焼き討ちの実行は、宮中や周辺の戦国大名からも非難されます。

このツイートでも、よく見ると「名無しの仏僧」から「凄い罰当たりハッケーン。通報すました」とレスポンスがあり、10326件もの「罰当たるね」が押されていることから、さすがの信長も逡巡したのではないでしょうか。

この点について、著者のスエヒロさんは、史料『信長公記』にある記述「天道のおそれも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」という「通例なディス」を引用し、信長サイドにも言い分があったことを指摘。きっと、このツイートは双方の主張が激突し、延暦寺同様に炎上したにちがいありません。

Yahoo!知恵袋で悩み事を打ち明ける明智光秀

戦国時代にYahoo!知恵袋があったら、多くの武将は自分では結論の出せない問題のヒントを求めて、こぞって書き込んだに違いありません。そして、この人も…

Yahoo!知恵袋(SENGOKU JAPAN!知恵袋)に相談する明智光秀

おそらく初投稿と思われる明智光秀が打ち明けた悩みとは、「上司の武将が横暴」であること。下戸なのに飲酒を強要されたり、薄毛をバカにされたりと、今でいうパワハラを受けての相談です。立身出世のためとはいえ、我慢の限界に近いことが察せられます。

それに対する、owari_monkeyさんによる「ベストアンサーに選ばれた回答」には「『立身出世のため』とありましたので、少し発想を変えてみてはいかがでしょうか? たとえば、雪の日に上司のぞうりを懐で温めてみたりするとか」などとアドバイスがあります。

明智光秀は、このウェブサービスがよほど気にいったのか、この後も、「【緩募】つい上司を謀反で討ち取ってしまいました。どうすればよいでしょうか?」と投稿。本能寺の変の後始末に悩んでいる様子がうかがえます。そして、最後の投稿が「【急募】【至急】落ち武者狩りに遭っています。どうすればいいでしょうか?」という悲壮感あふれるもの。ほんの束の間の天下を取った後、山崎の戦いでowari_monkeyこと羽柴秀吉に敗れ、落ち延びてどうにもならない苦境が記されています。

ところで、光秀は本当にパワハラに怒って、本能寺の変を起こしたのでしょうか? この点は諸説紛々ですが、スエヒロさんは「安土城で家康をもてなした際、光秀が鮒寿司を出したことに信長が激怒した」説を挙げています。なぜ激怒したかについては、家康は鮒寿司が嫌いだった、当時鮒寿司は上客に出すものであったなど、これも諸説ありですが、やはり上司の理不尽さ加減に愛想をつかしたのが、一因にあるのは確かかもしれません。

本能寺の変の日の信長のスマホ画面

1582(天正10)年6月21日早朝、本能寺の変が起き、信長は斃れます。この日の信長のスマホの画面はどんなものだったでしょう?

信長の南蛮スマートフォンの画面(本書82pより)

まず、信長の近習の森蘭丸からのLINEメッセージで「外が騒がしいようなので見て参ります」とあります。史実では、不審な騒がしさに蘭丸や信長が気づいたときには、本能寺の周辺は明智軍に隙間なく包囲されていました。

謀反を知ると、信長は「是非に及ばす(仕方がない)」と観念し、焼け落ちんとする本能寺の中で「敦盛」を舞うのですが、スマホから「敦盛A.TSU.MO.RI」をダウンロードしています。一方の明智光秀は「KYOSTAGRAM」で謀反ライブを開始、通販の「楽天楽座」はスーパーセールで、「座廃止のチャンス到来!自由取引セールまもなく開始!!」と、早くも信長亡き後の商機をあおっている始末。

信長だけでなく戦国時代の多士済々が登場

『インスタ映えする戦国時代』では、信長だけでなく、徳川家康、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、天正遣欧少年使節など多士済々が登場。戦国時代から関ヶ原合戦を経て、しばらく後の世までの事柄が、パロディ画面と交えて説明され、ちゃんと歴史の勉強にもなります。大河ドラマ「麒麟がくる」の予習も兼ね、一読してみてはいかがでしょうか。

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