説話集には、かつて日本の日常生活に息づいていた〈神〉や〈仏〉への恐れや、願いにまつわるお話が多く見られます。
そうした説話の種類のひとつが、仏教説話。
これは悪行を避けて善行を積むようにという考えを人びとに教え、導くもので、仏教を布教するために、誰にでも分かりやすいようにと編纂されたふしぎで霊妙な話のことです。
今回は仏教説話集『日本霊異記』から思わず背筋が凍るような、ちょっと怖くてふしぎなお話を紹介。話から見えてくる日本人の宗教観や信仰心について解説します。
『日本霊異記』とは?
『日本霊異記』の最大の魅力は、神話的な世界との共通点が見いだせることでしょう。
『日本霊異記』とか『霊異記』とか呼ばれるこの書物の正式名称はちょっと長くて、『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき)』といいます。
タイトルから分かるように、「日本の国」で伝えられている「善」と「悪」の行為についての「現報」を語る話を集めたものです。
仏教の教えを実践すれば良いことがあり、仏法や僧を信じなければ恐ろしい目にあいますよ、というのが基本的な内容となっています。しかもそれは「現法」という形で現世で被ることになるのです。
『日本霊異記』は現存する最古の仏教説話集として、自度僧(あるは私度僧とも。自ら出家して修行する僧で公認されていない僧のこと)を経て薬師寺の僧となった景戒という修行僧により9世紀初頭に編まれました。景戒については、生没年をはじめ詳しいことは何もわかっていません。
この書物は、上・中・下の3巻で構成されており、全部で116もの説話が収められています。その中から、仏教の教えを伝える3つのお話を紹介しましょう。
説話1 あまりにも悲惨すぎる因果応報!「蟻に食われた夫」
「人はいかに生きるべきか」を説く仏教説話集『日本霊異記』には、因果応報の話が多く収められています。次に紹介する「蟻に食われた夫」もまた、因果応報を教える話のひとつです。
子どもの頃から寺や僧が嫌いな男がいました。
ある夜、男が家に帰ると妻の姿が見えません。妻は仏を信じない夫の罪を許してもらおうと寺へ懺悔しに行っていました。夫は寺に乗り込み、妻を引きずりだします。僧がとりなすと、夫は僧を口汚くののしりました。その晩、夫は妻を抱こうとします。
しかし妻は、今は願掛けの最中だから身を清らかにしておかなければならないのだと夫を拒絶します。夫は嫌がる妻を無理矢理に犯してしまいました。
事後、眠気を催した夫のまわりに、どこからともなく蟻が集まりだしました。その数は10匹、100匹、数100匹と増してゆき、夫の陽根(陰部)を目指してたかりはじめ、そしていっせいに噛みつきだしました。
あまりの痛さに跳ね起きた夫の陽根は見るも無残に腫れあがっていました。蟻はいくら払っても食いついて離れません、ほどなくして、夫はその傷がもとで死んでしまいました。
説話2 法華経のふしぎな呪力「朽ちない舌」
「朽ちない舌」は、山中で修行にはげんでいた僧が死んでも経を唱え続け、白骨化してもなお舌だけは腐らなかったというちょっと気持ち悪いお話です。
1人の若い僧が修行をしたいと寺にやってきたのは6年ほど前のことでした。
その寺には、禅師永興(ぜんじえいごう)という名の高僧が修行していました。病気を癒すのを得意とし、京より南に棲んでいることから、人びとは彼を南の菩薩と呼んでいました。若い僧の持ち物は、法華経と白銅の水瓶が1つ、縄で編んだ椅子だけでした。毎日熱心に修行して1年が過ぎたころ、自分はこの地を去って伊勢の国を超え山に入るつもりだと言いだしました。
永興はもち米の干飯を粉にしたものを持たせ、国境まで寺男を付き添わせました。しかし国境が近づくと、若い僧は寺男に自分の持ち物をほとんど与え、麻の縄と水瓶1つだけを持って去ったのです。2年後、川の上流の山で舟を作っていた村人が法華経を読む声を耳にします。
その声は何ヶ月経っても絶えることがありません。不思議に思った村人の知らせで永興が山に入ると、たしかに経を読む声がします。さらに山奥へ進むと、声のするところに人の死骸がありました。麻縄を両足に繋ぎ、岩に吊りかかっていたのです。そばには水瓶が転がっています。まぐれもなく、あの若い僧でした。それから3年後。村人はふたたび山中で経を読む声を聞きます。山へふたたび出かけて行った永興は驚きました。なんと白骨化した遺体にはまだ舌がついていて、それは腐ってすらいなかったのです。これはきっと法華経の力にちがいないと、永興は若い僧の髑髏となった体を丁重に葬りました。
仏の呪力が災禍から人びとを守ってくれる?
「朽ちない舌」は、法華経のもつ不思議な呪力を物語るお話です。
またこの話は、死者の肉体が腐らないうちに霊魂が舞いもどれば、再生するという考え方を仏の側から語ったお話でもあります。
〈仏〉の教えが仏像とともに日本に流入したのは6世紀半ばです。それ以前はというと、日本の原始古代社会では人びとは〈神〉を祀り、崇めていました。
流入してきた仏は、外国から来た神の一種類と理解されるようになります。それにより、仏像を拝み経典を読めばその不思議な呪力の恩恵を授かることができると考えられました。もちろん、仏は抵抗なく受け入れられたわけではありません。古来の神々の怒りをかうと恐れた者もいました。
仏教が入ってきた後も変わらなかったことがあります。
それは、神様は不浄を嫌うという〈ケガレ〉の意識です。そうした宗教観のなかで人びとが執着したのは遺体よりも〈霊魂〉です。死ねば肉体から霊魂が離れていく。しかし完全に死んでしまうまえに霊魂を肉体に呼びもどすことができれば、死者は復活すると信じられていたのです。
説話3 怨みは何度でも繰りかえされる「狐と赤犬」
「狐と赤犬」は、惨殺した狐の霊に取り憑かれて死んだ男が赤犬に生まれかわって復讐に現れるというお話。
永興のいる寺に病にかかった男が担ぎこまれました。永興は災厄を除き、功徳を授けるという陀羅尼(だらに)を唱えます。男の容態は一度は治ったようにみえましたが、ふたたび悪化しました。祈祷の効果はいっこうにあらわれません。
ある日、いつものように永興が呪文を唱えていると病の男の体が動きました。そして永興は狐の声を聞きます。「わたしは絶対に退散しない。呪文を唱えるのを止めよ」男には狐が取り憑いていました。狐は、この男には前世でひどい殺され方をした、報復しなければならないと言います。
永興は狐に言います。怨みに怨みをもってすれば、いつまでも怨みはなくならない。忍耐の心が大切なのだ。よく耐え忍ぶ心を養えば、敵でも自分の恩師になる。しかし狐は永興の言葉を聞かずに、男を殺してしまいました。それから1年後。病にかかった弟子が、かつて狐に取り殺された男と同じ場所に寝込んでいます。すると突然、赤犬が飛び込んできて祈祷場で病に伏せている若い弟子に噛みつきました。
すべてを理解した永興が陀羅尼を唱えると、一年前の狐が現れました。狐は、弟子にふたたび取り憑いていたのです。赤犬は、1年前に取り殺された男の生まれ変わりで、復讐しようと現れたのでした。
ついに赤犬は狐を追い詰め、喉笛を噛み切りました。永興は倒れた狐の傍らでこういいます。
「愚かなことを。怨みに怨みをもってすれば、こういうことになるのだ」
怨霊は神さまだった?
8世紀になると、日本では怨みをもって死んだ人間の霊〈怨霊〉の恐怖が人びとを襲うようになります。
「狐と赤犬」で病に伏せた男が復讐のために生まれ変わったように、怨霊の復讐心には計り知れない恐ろしさがあります。
たとえば、怨霊をことのほか恐れていた桓武天皇は、政敵だった同母弟の早良親王の墓を整備し、仏教僧に経を読ませて謝罪までしています。これほどまで死者の霊に配慮したその努力もむなしく、天皇は病に伏せ、死を迎えることになります。
やがて一般の人びとのあいだに、桓武天皇は怨霊に苛まれながら死んだのだという噂が広まります。自分たちを襲う疫病や天変地異も怨霊の祟りなのだと信じるようになり、ついには桓武天皇の政敵だった霊を鎮魂しようとの動きまで出てきました。
人びとがこれほど怨霊を恐れた理由は、彼らが怨霊を神とおなじものとみなしたからだと言えます。
仏と神のあいまいな領域が生んだ『日本霊異記』
平安時代初期になると、全国の八幡宮に菩薩号が与えられるようになります。仏や菩薩が神の姿をしてあらわれる〈権現〉と神は称されるようになり、どんどん神と仏の境界はあいまいになっていきます。
こうして因果応報をもたらす呪力があるとされてきた仏、怨霊でもある神という構図ができあがってくるのです。
そんな時代に編纂された『日本霊異記』には、仏の力やその優位性を示すお話をいくつも収めています。
人びとが時代や社会をどのように生きてきたか、『日本霊異記』の説話は確かなリアリティをもってわたしたちに語りかけてくれます。
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