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2020.02.09

斎藤道三は二人いた!親子で成した新説「国盗り物語」

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下位の者が上位の者を倒す下剋上(げこくじょう)が、頻繁に行われた戦国時代。その中でも後世、とりわけ「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれる男たちがいる。梟雄の梟とはフクロウのこと。かつてフクロウの雛(ひな)は、親鳥を食い殺して成長すると信じられていた。つまり梟雄とは、上位の者を倒す下剋上を、次々に平然とやってのける危険な人物という意味合いである。

美濃(みの、現、岐阜県)の斎藤道三(さいとうどうさん)は、その梟雄を代表する一人といっていい。

司馬遼太郎の小説『国盗(くにと)り物語』にも描かれたように、道三は一介の油商人から、財力と持ち前の才覚で美濃守護(しゅご)の土岐(とき)家に食い込み、ついには守護を追放して、美濃国主の座についたことで知られる。まさに下剋上の典型というべきだが、近年、新たな説が定着した。

すなわち道三の美濃乗っ取りは、道三一代で行ったものではなく、道三の父と、道三の二代で成し遂げた、というものだ。では、どこまでが父で、どこからが道三の下剋上なのか。本記事では、これまで道三の前半生と誤解されてきた、道三の父親の足跡を追ってみよう。

六角承禎が家臣に言い聞かせた道三の悪行

法蓮房(ほうれんぼう)、松波庄五郎(まつなみしょうごろう、庄九郎とも)、奈良屋庄五郎、西村勘九郎(にしむらかんくろう)、長井新九郎(ながいしんくろう)、斎藤利政(さいとうとしまさ)、そして道三。

以上が斎藤道三という下剋上を繰り返した人物の、名乗りの主な変遷である、と従来考えられてきた。ところが近年、これは道三一人のものではなく、道三の父と道三の二人の名乗りが、道三一人のものと誤解されてきたらしいことが判明する。『岐阜県史』編纂の過程で見つかった永禄3年(1560)7月21日付の「六角承禎(ろっかくじょうてい)条書」の一節に、およそ次のように記されていたからだ。

斎藤治部大夫(じぶのたいふ)義龍(よしたつ、道三の息子)の出自(しゅつじ)をいえば、その祖父である新左衛門尉(しんざえもんのじょう)は、京都妙覚寺(みょうかくじ)の法華宗(ほっけしゅう)の坊主で、西村という者だ。これが長井弥二郎(やじろう)に仕え、美濃が混乱した際、才覚を働かせて引き立てられ、長井の一族となった。

また義龍の父である左近大夫(さこんのたいふ、道三のこと)は、代々の長井氏の当主を殺し、長井氏の諸職を奪い取って、(守護代〈しゅごだい、守護の代理人〉)斎藤氏の一族に成り上がった。さらに(守護家の一族)土岐(とき)次郎殿(頼充〈よりみつ〉)を婿(むこ)にとり、次郎殿が早世すると、土岐八郎殿(頼香〈よりたか〉)を井口(いのくち、稲葉山城のこと)に呼び寄せて、理屈をつけて自害に追い込んだ。さらにその他の土岐氏の兄弟も、毒殺や暗殺でことごとく殺した。このような悪行を働けば、悪い因果がめぐってくるのは当然である。

この「六角承禎条書」は、承禎こと近江(現、滋賀県)の大名六角義賢(よしかた)が、自分が知らぬうちに息子と斎藤義龍の娘との縁談が進んでいることに反対し、斎藤氏がいかに悪逆非道であるかを家臣らに言い聞かせる目的で記したものである。従って、ことさらに新左衛門尉の素性が知れないことや、道三の悪辣(あくらつ)さが強調されているきらいはあるだろう。が、それを割り引いても、道三とその父の下剋上は、他国にまで知れわたっていたようだ。

いずれにせよ、「六角承禎条書」からは、妙覚寺の僧が還俗(げんぞく)して、美濃の長井氏の一族に連なるまでが道三の父、そこから守護代斎藤氏の一族となり、さらに守護土岐家の国主の座を奪ったのが道三本人であると読み取れるのだが、実際はどうであったのか。以下、新左衛門尉の実像を探ってみよう。

修行僧から油商人、そして武士へ

西ノ岡と3人の梟雄

奇妙な伝承がある。北条早雲(ほうじょうそううん)、斎藤道三、松永久秀(まつながひさひで)。いずれも氏素性(うじすじょう)の知れぬ身分から大名にまで成り上がった、代表的な梟雄として知られる男たちだが、彼らの出身地が同じだというのだ。すなわち京都の西郊・西ノ岡(現、向日市付近)。室町時代には、幕府に仕える36人衆と呼ばれる小領主たちがいた地である。

西ノ岡は竹林でも知られる

近年の研究で、北条早雲は備中(現、岡山県)の出身であることが判明した。斎藤道三は、従来の伝承が父子二代のものだとすれば、西ノ岡に関わる可能性があるのは父親の方だろう。松永久秀は西ノ岡の他に、近江、阿波(現、徳島県)出身説などもある。いずれも俗説の域を出ないものではあるが、なぜ西ノ岡にそうした伝承があるのか不思議であり、興味深い。

妙覚寺の修行僧・法蓮房

さて、道三の父の名を、本記事では松波庄五郎としておく。庄五郎の生年はわからないが、息子の道三が明応3年(1494)に美濃で生まれた可能性が高いこと、庄五郎が修行僧や油問屋の商人を経てから美濃に仕官したことを思えば、道三が生まれたのは庄五郎が30歳の頃だろうか。だとすると庄五郎は、寛正5年(1464)頃の生まれとなる。

庄五郎の父親は、松波左近将監藤原基宗(さこんしょうげんふじわらのもとむね)という名の北面(ほくめん)の武士であったという(『美濃国雑事記』)。北面の武士とは、平安の昔は上皇が住まう院御所の北の部屋に詰め、上皇の身辺警護などを行う直属軍を指したが、室町時代の頃には、単なる御所の警備隊に過ぎず、基宗も下級武士であったろう。西ノ岡あたりに暮らしていたのだろうか。

妙覚寺

庄五郎に兄弟がいたのかはわからないが、12歳の頃、父親によって京都の日蓮宗(にちれんしゅう)妙覚寺(みょうかくじ)に入れられた。法蓮房(ほうれんぼう)と称した庄五郎は、弟(おとうと)弟子の南陽房(なんようぼう)と親しくなる。南陽房は美濃土岐(とき)家の小守護代(守護代の家老)・長井利隆(ながいとしたか)の弟で、この縁が後に庄五郎を美濃に向かわせることになる。

一文銭の穴を通して注ぐ

20歳になった頃、法蓮房は修行をやめて寺を出た。仏門にも俗世の身分がついて回り、良家出身の南陽房と違って、下級武士の息子の法蓮房では出世は望めないことに失望したとも、世間を相手に己の才覚を試してみたくなったのだ、ともいう。還俗(げんぞく)した法蓮房は松波庄五郎と名乗り、やがて京都にあった畿内でも有数の油問屋「奈良屋」に出入りして、娘婿(むこ)となった。

一文銭

庄五郎には商才と特技があった。油の行商で庄五郎は多くの客を集める。

「これより油を注ぎまするが、手前は漏斗(ろうと)を用いませぬ。代わりに、ここな一文銭の、穴を通して注ぎまする。油が僅かでも穴のふちを濡らせば、手前の負け。お代は頂きませぬぞ。ささ、もそっと寄って、とくとご覧(ろう)じられませ」

庄五郎の技術は確かで、一文銭の小さな穴(約6mm四方)を濡らすことなく油を注ぎ、観衆は感嘆の声をあげたという。庄五郎の行商は評判を呼んで、奈良屋の油は京都周辺で大いに売れた。一説に、それをねたんだ油座の元締めである大山崎八幡宮の神人(じにん)たちが、奈良屋に押しかけて店先を打ち壊す騒ぎとなり、その結果、奈良屋は山崎屋に屋号を変えることになったともいう。

長井氏家臣・西村勘九郎

その後、庄五郎は油の販路を広げるべく、京都から美濃に通い始める。妙覚寺で親しかった南陽房改め日運(にちうん)上人が、美濃の常在寺(じょうざいじ、現、岐阜市)の住職となっていたからだ。

常在寺

当時の美濃守護土岐家は、十数年前に終息した応仁(おうにん)の乱の影響で、京都の足利(あしかが)将軍と疎遠になっており、京都との交流は限定的だった。そうした中で日運の常在寺を拠点にする庄五郎が、油の行商の合間に伝える京都内外の情報は、土岐家にとって得難いものであったろう。また土岐家が庄五郎を重宝することで、彼も美濃の油市場を半ば独占することができ、莫大な利益を上げたことが考えられるという。あるいはすべて、庄五郎の計算だったのだろうか。

やがて日運の推挙もあり、庄五郎は長井藤左衛門秀弘(とうざえもんひでひろ)の家臣となった。秀弘は小守護代と呼ばれ、守護代斎藤妙純(みょうじゅん、利国〈としくに〉)の家老である。秀弘は、庄五郎が伝える上方の情報とともに、「歌舞音曲」に堪能であるのを気に入ったという。さらには庄五郎のバックにある油問屋「山崎屋」の豊かな財力も、大いにものをいったはずである。

なお庄五郎は守護土岐氏にとって、家臣斎藤氏の家臣長井氏のそのまた家臣であり、到底、土岐氏に拝謁(はいえつ)できるような身分ではない。主君の長井秀弘は、断絶していた西村(にしむら)家の名跡を継ぐよう命じ、庄五郎は西村勘九郎正利(かんくろうまさとし)と名乗る武士になった。

混乱に乗じて守護代の重臣へ

船田の乱での活躍

庄五郎が長井氏に仕えたのは、明応4年(1495)頃だという。息子の道三が生まれた翌年にあたる。だとすると、道三の母親は奈良屋の娘だろうか。『美濃国雑事記』は、奈良屋の娘の法名(ほうみょう)は袋宝(たいほう)であったとする。庄五郎は仕官より前に女房を美濃に呼び寄せ、道三は美濃で生まれた可能性が高いともいわれるが、詳しいことはわからない。

船田の乱の舞台となった城田寺城跡

長井氏に仕える庄五郎の最初の活躍は、明応4年の船田(ふなだ)の乱であったらしい。船田の乱とは守護土岐成頼(しげより)の後継者争いで、嫡男政房(まさふさ)を支持する斎藤妙純らと、末子(ばっし)元頼(もとより)をかつぐ一派らの衝突だった。斎藤妙純の家老である長井秀弘はもちろん嫡男政房を支持し、庄五郎もこれに従う。戦いは城田寺(きだいじ)城(現、岐阜市)を落とした斎藤妙純方の勝利となり、庄五郎も一定の戦功をあげて、長井家の中で存在感を示したことだろう。

同名衆・長井新左衛門尉

ところが翌明応5年(1496)、思わぬ事態となる。船田の乱において、敵の元頼方を近江の六角氏が支援したため、斎藤妙純は六角氏に威(い)を示すべく近江に攻め込んだ。斎藤勢は破竹の進撃を続けるが、突如、六角軍ではなく、一揆勢に襲われて大敗を喫したのである。史料は「郷民等蜂起」と記すのみだが、あるいは甲賀者(こうかもの)たちも関わっていたのだろうか。混乱の中、なんと守護代斎藤妙純、小守護代長井秀弘がともに討死。庄五郎は辛くも美濃に逃げ帰った。

琵琶湖

当主を失った小守護代長井家では、秀弘の嫡男・長弘(ながひろ)が跡を継ぎ、庄五郎の新たな主君となる。一方、守護代斎藤家は妙純の息子も討死したため、混乱が続き、次第に力を失っていった。庄五郎は以後も長井長弘のもとで着実に功績を積み上げ、20年余りのちの永正14年(1517)、長井姓を拝領。長井氏の「同名衆(どうみょうしゅう)」となり、西村勘九郎から長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と名を改めた。主君の長弘とほぼ同格の、守護代斎藤氏の重臣となったのである。

油売りから美濃のナンバー2となった庄五郎

繰り返される政頼と頼芸の戦い

同じ永正14年、またしても守護土岐家の後継者争いが起こる。土岐政房の嫡男政頼(まさより、頼武とも)と次男頼芸(よりのり)の対立だった。この時、政頼を守護代斎藤利良(としなが、妙純の孫)が推したのに対し、小守護代長井長弘及び庄五郎は、弟の頼芸につく。つまり長井長弘と庄五郎は主家と敵対したわけで、長井氏が、守護代斎藤氏に対抗できる実力を蓄えていたことがわかる。

朝倉氏の越前一乗谷館跡

同年に両者は合戦に及び、いったん政頼方が勝利した。が、翌永正15年(1518)、頼芸方が逆襲に転じて、政頼と斎藤利良を越前(現、福井県)へと追い払う。しかしさらに翌永正16年(1519)、越前朝倉(あさくら)氏の支援を得た政頼方が美濃に侵攻し、頼芸方を圧倒した。美濃の北半分を手中にした政頼は新たな美濃守護となり、これで決着がついたかに思われたのだが……。

長弘と肩を並べる長井豊後守

長井長弘と庄五郎は、巻き返しを図る。大永5年(1525)6月、挙兵した長井長弘と庄五郎は、守護所の福光館(ふくみつやかた、岐阜市)を陥落させると、さらに斎藤氏の居城・稲葉山(いなばやま)城(のちの岐阜城)も攻略。内乱がしばらく続いた末、享禄3年(1530)に政頼が再び越前に逃れ、頼芸が「濃州太守(のうしゅうたいしゅ)」と呼ばれる立場(実質的な守護)となって、一応の決着を見た(なお、頼芸が正式に守護に就任するのは天文5年〈1536〉である)。

稲葉山城跡(現、岐阜城跡)

そしてこの頃、庄五郎は長井豊後守(ぶんごのかみ)と称するようになったという。『江濃記(こうのうき)』は、次のように記す。

「(前略)豊後守は山城国(現、京都府)西ノ岡より牢人して斎藤家に来(きた)り、藤左衛門(長井長弘)が与力(よりき)と成(なり)て、度々合戦に労巧をつみ、永井豊後守と号して、彼(かの)家の家僕となる。斎藤の家督断絶のとき、彼(か)の家領を両人(長広と庄五郎)して知行(ちぎょう)す」

庄五郎は主君の長弘と肩を並べるほどの存在となり、弱体化した守護代斎藤氏の領地を山分けするまでになっていたことがうかがえる。土岐頼芸を支える長井氏は当時、実質的な守護代であったと見る向きもあり、だとすると庄五郎は、ナンバー2に準ずる立場にまで上ったといえるだろう。

下剋上ではなかった庄五郎の出世

天文2年(1533)4月1日、長井豊後守こと庄五郎は病没した。寛正5年頃の生まれだとすれば、享年70ということになる。庄五郎の波乱の生涯を振り返れば、一介の油売りから守護土岐家を支える要職にまで駆け上ったわけだが、それはあくまで長井家中での立身出世であり、下剋上にはあたらない。後継者争いを繰り返す守護土岐家の乱れがあればこそ、長井氏が力を伸ばし、庄五郎の活躍の場が生まれたのだろう。

40歳で家督を継ぐことになる息子の道三は、庄五郎が長井家中で昇ったポジションから立身をスタートできたわけで、それが国盗りの実現に大いに寄与したことはいうまでもない。美濃国主・斎藤道三の誕生は、父・庄五郎の活躍があればこそ、なのである。父子でまんまと一国を奪った下剋上は、戦国においても稀有(けう)な例であり、今後、庄五郎の足跡が一層明らかになることを期待したい。

※なお斎藤道三については、本記事の続編にあたる「『美濃のマムシ』と呼ばれた男・斎藤道三!まんまと国主の座を奪った恐るべき下剋上の真実とは」もぜひお読みください。

参考文献:横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上』、桑田忠親『斎藤道三』、太田牛一『原本現代訳 信長公記(上)』、司馬遼太郎『国盗り物語』 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。