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Culture
2020.02.09

戦国時代のレオン⁈信長を魅了し、秀吉を恐れさせた男・蒲生氏郷の素顔

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「レオン」って誰?

これまた、いきなり直球で。先に断っておくが、映画の「孤独な暗殺者」とは激しく違う。「レオン」は、歴史上に実在した人物だ。じゃあ、誰なのよ?となるのだが、そうまあ、焦らずに。皆々様が最初に聞きたいのは、もちろんのこと。ただ、モノには順番ってものがあるワケで。

まずは、最初の画像の説明から。ご立派なお城は、福島県の会津若松(あいづわかまつ)城。別名、鶴ヶ城(つるがじょう)とも呼ばれている。この「会津若松」城、命名される前の名前は「会津黒川」城。どうして、「黒川」が「若松」になったのか。これに関係してくるのが、「レオン」だ。

「レオン」こと、戦国大名としての名は「蒲生氏郷(がもううじさと)」。
あの織田信長が大絶賛し、自分の娘まで嫁がせたという戦国きっての名将だ。際立った兵の統率力に定評があり、凄腕の猛将としても有名。一方で和歌をたしなみ、茶道は千利休の高弟子である「利休七哲」にも数えられるほどの腕前だとか。多くの顔を持つ蒲生氏郷だが、さらに意外な事実が。じつは、氏郷はキリスト教に入信し、洗礼まで済ませていたという。その洗礼名が、先刻より皆々様の疑問の的となっていた「レオン」なのだ。

蒲生氏郷銅像(日野観光協会提供)

こんなにも個性の強い武将でありながら、「蒲生氏郷」の名前はあまり知られていない。その理由はただ一つ。百万石近くを拝領する大名としてのぼりつめたものの、氏郷の一生は短かったからだ。享年40歳。残念ながら、これからというときに、戦国時代の表舞台から姿を消すしかなかったのだ。生きていれば、間違いなく戦国時代を変えていたともいわれている。

今回は、そんな蒲生氏郷にスポットを当てる。彼の残したエピソードをたどりながら「会津若松」が誕生する理由まで。しばらくお付き合い頂こう。

娘を嫁がせるなんて…あの信長も大絶賛!

蒲生(がもう)氏のルーツは定かではない。藤原秀郷(ひでさと)の末裔である藤原惟賢(これかた)が、近江国蒲生郡(滋賀県)に住み蒲生姓を名乗ったという説、古代から続く蒲生稲置(いなぎ)の末裔とする説もあるのだとか。

弘治二年(1556年)、蒲生賢秀(かたひで)の三男(長男との説もあり)として氏郷が生まれる。幼名は鶴千代(つるちよ)。父の賢秀は近江守護である六角氏の重臣であった。しかし、織田信長の近江国侵攻に際して、優秀な人材として信長が目をつけたようだ。親戚筋を通して説得され、結果的に六角氏から離れ信長へと臣従することとなる。そのときに人質として出されたのが、氏郷であった。当時13歳だったという。

織田信長像

信長の下には多くの名だたる武将の人質がいた。イエズス会宣教師のルイス・フロイスが記した『日本史』では、その数、約100名以上。しかし、人質とはいっても監禁されることなく、美濃岐阜城で滞在しながら多くのことを学ぶ機会を得た。氏郷も同様に、儒教や仏教のみならず、和歌、連歌、茶の湯、作庭などをたしなんだという。もともと蒲生家は歌人の家としても有名な家柄だ。文化人としての素養はあったようだが、ことのほか信長は、この文武両道を地で行く若者を大事にした。

永禄十二年(1569年)5月、氏郷は14歳で元服する。名は「忠三郎賦秀(ますひで)」。この「忠」は、信長の官途弾正忠から一字を授かったのだとか。8月には信長に付き従い、大河内城(三重県松阪市)の戦いにて初陣を飾っている。ただ一人抜け駆けして敵勢へ攻め込み、武将の首を取って周囲を驚かせた。このとき、信長も大絶賛したとされている。

同年、信長は娘の冬姫を氏郷に娶らせる。また、人質としての氏郷を、故郷の日野(滋賀県)へ帰城させた。これは破格の待遇だ。よほど、氏郷を将来有望と見込んでいたということか。もちろん、氏郷自身も、岳父である信長を手本とし、忠義を誓っていたのだろう。だからこそ、本能寺の変が起こった際の氏郷の動きは速かった。自身の身を顧みず安土城から信長の一族を日野城へと移し、父・賢秀とともに明智勢に備えたのだ。このとき、明智光秀からは味方となるよう使者が遣わされたが、罵り返したといわれている。

秀吉の決定に男泣きの理由とは?

なしえなかった天下統一の実現は、織田信長から、その弔い合戦で明智光秀を破った豊臣秀吉へ。賤ケ岳の戦いでは柴田勝家を破り、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康軍と戦い、講和に持ち込んだ。一方、蒲生氏郷はというと、小牧・長久手の戦いの武功により、天正十二年(1584年)に伊勢松ヶ島(三重県)に転封。もともと小牧・長久手の戦いで同地を任せられていたため、そのまま残留となったようだ。こうして氏郷は、滋賀県から三重県へと居城が変わり、秀吉の天下統一事業へと巻き込まれていくことになる。

その後、秀吉は九州を含む西日本を手中に収め、天下統一への最後の難所に取り掛かろうとしていた。それが関東の北条氏や奥羽の伊達氏などの独立勢力である。しかし、秀吉の勢いは止まらず、天正十八年(1590年)7月には小田原城攻めも決着。残す場所は奥州のみとなる。

同年、続けて秀吉は、奥州の諸大名を出頭させ「奥州仕置(おうしゅうしおき)」を行った。奥州仕置とは、簡単にいえば、奥州におけるこれまでの領地をリセットして、新たな領地割を行うことである。そのまま継続して認められる場合もあれば、領地を没収される場合もある。こうして、奥州仕置の要(かなめ)として、会津90万石(石高には諸説あり)を新しく拝領したのが、蒲生氏郷だった。

豊臣秀吉像

さて、奥州仕置について一つのエピソードが伝えられている。じつは秀吉には解決せねばならない問題があった。この奥州の地を任せる「人選」である。というのも、奥州には最上義光(もがみよしあき)や伊達政宗などの名だたる武将がおり、越後の上杉景勝の監視、徳川家康を牽制する上でも、奥州は重要な場所であったからだ。また、極限の寒さの中、不慣れな土地で、没収された大名たちの反勢力にさらされることが容易に想像できる。なかなか並大抵の人物では難しいであろう。

そこで秀吉が、諸将たちを集め、誰が「会津」の地に適材かと聞いたのだとか。ほぼ全員が細川忠興(ほそかわただおき)という名前を出す中で、秀吉は「任せられるのは氏郷以外にはいない」と断言したという。拝領した蒲生氏郷は、広間の柱に寄りかかりむせび泣いたとか。これを見た武将が、会津90万石という大きな領地を拝領したことに感激していると思い、「ありがたいのはごもっとも」と声をかけた。すると、氏郷はこう答えたという。

「たとえ小身であっても都の近くにいれば、天下に望みを持つこともできる。いくら大身となったとしても、雲を隔て海山をも超えた遠国に行ってしまっては、天下への望みもかなうことはないだろう。もはや、わしの時代は終わったかと思うと、不覚にも涙がこぼれたのだ」
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』から一部抜粋

やはり口には出さぬが、天下統一への思いはあったのだろう。しかし、戦国の世で秀吉の命には逆らえず。無念の思いを封じて、故郷から遠い会津へ向かうこととなる。氏郷35歳のときであった。

その後、氏郷は、会津黒川にて周辺の一揆などを制圧し、ようやく文禄元年(1592年)、城郭と城下町の建設に着手する。これに際して「会津黒川」の名前を、故郷の日野(滋賀県)の若松の森にちなんで「若松」と改名。こうして福島県に「会津若松」という地名が誕生したのであった。

じつは織田信長に似ていた?

蒲生氏郷は、織田信長に早くから目をかけられ、将来も有望視されていた。それは、自ら率先して何事も行うところを買われていたのかもしれない。

というのも、氏郷は、新しく家臣となる者に対して、いつも同じことを教える。「我が家中には、銀の鯰尾(なまずお)の兜をつけて奮戦する者がいるから、劣らぬ働きをするよう励め」。こうして、家臣は戦場に出て、教えられた通りの人物を目撃する。先陣を切って敵勢に切り込み奮戦している武将。銀の鯰尾の兜の猛者とは、なんと主君の氏郷、その人だったという。なんとも信長が好きそうなエピソードだ。

さて、会津へ出向く際に、氏郷は一つだけ秀吉に認めさせたことがある。それが「奉公構(ほうこうかまい)」の浪人たちを召し抱える許可であった。「奉公構い」とは、主君の怒りを買い、他の大名でも召し抱えられないように回状を回されたアウトローの腕利きたちのこと。氏郷は、そんな問題のある彼らを召し抱えたいというのだ。このような考え方も織田信長に通じるものがある。絶対的な実力主義を貫いていた信長であれば、氏郷のこのような行動も理解できたかもしれない。実際に、氏郷の下で活躍した浪人も多かったとか。ただ、氏郷が亡くなった際には、次々と蒲生家を去っていったといわれている。はみ出し者の彼らも、氏郷だから主君と認めたといえるだろう。

会津若松城

そんな蒲生氏郷の人生はとても短い。享年40歳。
辞世の句も、その短さを強調している。

限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風

死因は「毒殺説」もあるようだが、実際に診察をした曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の『医学天正記』を参考にすれば、「癌説」が有力であろう。多くの大名に惜しまれながら、文禄四年(1595年)2月7日にこの世を去った。

会津若松城の天守は、備前名護屋城(佐賀県唐津市)を手本にし、織田信長の安土城のように豪奢だったといわれている。『氏郷記』には「七重の殿守、月見矢倉二太鼓門、其外ノ殿二金銀オ鏤(ちりば)メタリ」と記されている。金箔瓦などの遺物も出土しているとか。

岳父である信長を手本にし、城や城下町を築いた氏郷。だからこそ、信長がなしえなかった天下統一を、あの信長には似ても似つかない秀吉が行ったことが我慢ならなかったのだろう。秀吉への嫌悪感は相当だったと想像できる。一説には、自分の名の「賦秀(ますひで)」に秀吉の「秀」という文字が入っていたため、「氏郷(うじさと)」に変えたとか。それほどまでに目障りな秀吉の天下統一をどうして支えたのか。それは、自身の個人的な感情よりも、信長が目指した「戦いをなくして平和な世にすること」を優先したからだろう。

織田信長を追い続け、結果的に早世までも手本としてしまった蒲生氏郷。多くの点で似ていると思ったのは私だけではないだろう。

えっ?いや、あんまり似てないって?
それでは、とっておきの蒲生氏郷の名文句をお教えしよう。

小牧・長久手の戦いで、局地戦で負けた豊臣秀吉に対して、氏郷が放った強烈な一言だ。

「猿メ、死二場所ヲ失ウテ狂ウタカ」

ね?織田信長が生きていれば、きっと同じことを言ったに違いない。

参考文献
『病気日本史 普及版』 中島陽一郎著 雄山閣 2018年4月
『蒲生氏郷』 藤田達生著 ミネルヴァ書房 2012年12月
『検証 もう一つの武将列伝』 井沢元彦著 有楽出版社 2005年6月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。