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2020.04.29

賤ケ岳の戦いで板挟みになった前田利家! 究極の選択の結果は?

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「アタシと仕事とどっちが大事?」
このフレーズを口にした途端、男は愛想を尽かす。いや、共働き全盛期の現代では、男ばかりでなく、女も愛が一気に冷めるかもしれない。

なにも「恋人と仕事」の話だからではない。その取り合わせは千差万別。「友人と恋人」「嫁と姑」「部下と上司」……。ああ、数え出したらキリがない。なんと、2つの間で板挟みとなる状況の多いコトか。こうしてみると、私たちは常に2つの選択肢を突き付けられて生きている。そんな単純な事実に、今更ながら驚くばかりだ。

その上、余計に事態を複雑化させているのは、「正解がない」というコト。どちらを選んだとて、選ばれなかった方は大いに傷つくワケである。そう考えれば、京都人が愛する「うやむやにする」方法、いわゆる煙に巻くスタイルが、場合によっては有効なのかもしれない。

では、下克上の世ではどうだったのか。「忠義」と「守るべき一族や民」の間で揺れ動く戦国大名たち。彼らの苦悩はいかばかりか。その深さは計り知れない。その最たる例として今回取り上げるのが、加賀百万石の礎を築いた前田利家。傾奇者(かぶきもの)として名高い喧嘩好きの御仁である。

主君である織田信長に仕えながら、利家は多くの同輩と共に戦ってきた。しかし、天正10(1582)年6月の本能寺の変で、信長自刃。その後の権力争いに、利家は不本意ながらも巻き込まれていく。対立したのは、友人である「豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)」と先輩である「柴田勝家」。両者の板挟みの中で、天正11(1583)年4月、賤ケ岳(しずがたけ)の戦いが始まるのであった。

前田利家に迫る究極の選択。
果たして、利家は、一体どちらを選んだのか。
(※この記事では、当時の名前である「羽柴秀吉」ではなく「豊臣秀吉」と表現しています)

「親父」と呼んでいた大先輩・柴田勝家

前田利家と柴田勝家。
2人は共に主君である織田信長に仕える同輩者。とはいっても、立場は大きく異なる。勝家は北陸方面の総司令官であり、利家はその与力(よりき)である。つまり、両者の関係は、主従関係とまではいかないが、勝家の配下に利家が置かれていたことになる。

柴田勝家は、もともと尾張国(愛知県)出身の武将。根っからの織田家家臣である。だが、家督争いの際には、信長ではなく、その弟の信行(信勝)を支持。幸いにも、家督を継いだ信長に許され、その後は信長への忠誠を固く誓う。実際、信行の謀反を信長に伝えたのも勝家だ。その忠節にこたえる形で、信長はのちに勝家に越前国(福井県)を与えている。

歌川国芳「太平記英勇伝-千場田修理進辰家-柴田勝家」

天正3(1575)年以来、前田利家と柴田勝家は、越前で苦楽を共にする仲だ。天正9(1581)年の北陸平定の折には、利家は能登(石川県)、勝家は越前(福井県)の領国を、信長より与えられている。この2つは、位置的にも境界が接しており、緊密な連携が必要となる場所である。また、北陸は未だ安定した支配が行えていない地域でもあった。一向一揆勢の残党のみならず、越中(富山県)も不透明。さらに、越後(新潟県)には上杉勢の脅威もあった。そのため、利家と勝家は共に北陸の守りを固める同志でもあった。

ただ、前田利家からすれば、柴田勝家は織田家家老の地位を持つ大先輩。戦では勇猛果敢に攻め込み、実直な性格で尊敬する人物だ。17歳もの年の差があったせいか、日頃から利家は、勝家のことを「親父(おやじ)様」と呼んでいたのだとか。2人の間には強固な信頼関係が築かれていたようだ。

家族ぐるみでつきあう親友・豊臣秀吉

一方で、前田利家と豊臣秀吉の仲もじつに親密なものであった。彼らもまた、同じ主君である織田信長に仕える家臣である。年齢の差も2歳とあまり違わず、信長からは「お犬(利家のこと)」「猿(秀吉のこと)」と呼ばれ、共に可愛がられていたようだ。

ただ、織田信長に家臣として召し抱えられた順番を考えると、豊臣秀吉の方が後輩だ。にもかかわらず、秀吉はあっという間に出世する。「人たらし」といわれる類まれなる才能、そして、圧倒的なスピードで確実に処理する実行力が買われてのこと。こうして秀吉は、信長より中国方面の司令官を任されるのである。

特別に彼らの仲が良かった理由、それは、主君である織田信長の「人格」によるところが大きい。

ワンマンな上司がいれば、部下たちは必ず結束する。不平不満を口にしながら、彼らは共に支え合い、協力し合い、上司に対する苦難を乗り越えるからだ。この視点でみれば、信長という主君は非常に強権で個性的であった。仕えていた年数など関係なく、完全な「実力主義」を採用。目をかけている家臣でも、結果を出さなければ皆の前で平気でなじる。そんな信長の下で、実力を持つ彼らは期待をされていたのだろう。互いに夢を語りながら、切磋琢磨した間柄だったといえる。

また、前田利家の妻である「まつ(芳春院)」と、豊臣秀吉の正室である「おね(北政所)」。この2人も非常に仲が良かったという。これも大きなポイントだ。妻同士も親交があり、家族ぐるみの付き合いを長年続けていた2人。彼らにも強固な友情の絆があったようだ。

利家が選択した究極の一手とは?

前田利家の人生には、じつは辛い浪人生活を余儀なくされた時期がある。利家23歳(数え)のときのこと。主君である織田信長の同朋衆(どうぼうしゅう、雑役や諸芸能に従事した僧体の者)が、利家の刀の笄(こうがい)を盗んだことがきっかけだった。一向に反省もせずつけ上がる同朋衆。これに我慢できず、利家は信長の許可なく斬り殺してしまう。もちろん、信長は激怒。柴田勝家らのとりなしで死罪は逃れたが、利家には出仕停止との厳しい処分が下る。つまりは、事実上の浪人となったのだ。

以降、利家は自ら戦いに参加するも、帰参は許されず。桶狭間の戦いでも馳せ参じたが、信長は認めなかった。のちの永禄4(1561)年5月、斎藤龍興(さいとうたつおき)らと戦った「森辺の合戦」にて、ようやく赦免。『信長公記』には、このように記録されている。

「前田利家は、以前、信長から譴責(けんせき)処分を受けて、この時はまだ出仕を許されていなかった。今川義元との合戦でも、朝の戦いで首一つ、敵方総崩れの際にも首二つを取って提出したが、それでも出仕を許されなかった。このたびの手柄によって、前田利家は赦免された」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

利家の浪人生活は短いものだったが、仲間たちが離れていくのは辛かったようだ。主君である信長に気を遣ったのか、はたまた、自分の利益に繋がらないと判断したのか。急に手のひらを返すような仲間の態度が、余計に孤独を感じさせる。「苦境は、友を敵に変える」とはカエサルの言葉。辛い立場に置かれた時にこそ、友の真価が分かるというものだ。

それでは、先輩の柴田勝家、そして親友の豊臣秀吉はどうであったのか。利家の回想がコチラ。

「浪人時代は、いつもは懇意にしていた仲間たちも冷たいもので、励ましてくれたのは森可成(よしなり)と柴田勝家など数人ほどしかいなかった。そういう非運がなければ、人の心は分からぬものだ」
(左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』より一部抜粋)

浪人時代の前田利家を、柴田勝家と豊臣秀吉のどちらかが冷遇していれば、板挟みにもならなかったはず。しかし、彼らは「励ます側」の数少ない武将であったようだ。だからこそ、利家は、のちに2人が対立する「賤ケ岳の戦い」で、悩み続けることになるのである。

さて、「本能寺の変」にて織田信長亡きあとの話。
ポスト信長の座を誰が射止めるか。その第一弾として、織田家家臣の中で戦われたのが、「賤ケ岳の戦い」である。

まず、名乗りをあげたのが、いち早く「中国大返し」で謀反人の明智光秀を討った豊臣秀吉。一方、実直な性格と織田家筆頭家老を自認していた柴田勝家もひかない。利家からすれば、共に懇意にしている人たちである。どちらの軍勢として参戦すればよいのか。苦慮したところで双方に都合の良い結論など出るわけもない。しかし、前田利家はひたすら頭を抱えて考えた。

悩みに悩んだ挙句、前田利家が出した結論。
それは、思いもかけぬ「中途半端なモノ」であった。

天正11(1583)年3月12日。
賤ケ岳の戦いの前哨戦ともいえる戦。前田利家は、別所山(滋賀県)に陣を置く。もちろん、柴田勝家の軍勢としての参戦であった。そもそも、利家は勝家の与力であるから、当然といえば当然だ。迷いに迷った挙句、まずは「親父様」と呼んでいた勝家側で着陣する。

大将である柴田勝家は柳ヶ瀬(滋賀県)に、豊臣秀吉は木之本(滋賀県)に陣を構える。戦線はしばらく膠着状態であったため、秀吉が織田信孝のいる岐阜城攻めに出陣。その隙に勝家の重臣である佐久間盛政が、秀吉側の大岩山を攻撃。守っていた中川清秀は戦死、大きく勝家側へと戦況が動いたかに見えた。

しかし、その知らせを聞いた豊臣秀吉は、急遽、木之本へと軍を引き戻す。中国大返しならぬ「美濃大返し」である。約52キロもの距離をたった5時間で走破。一説には、この5時間の間に、秀吉は3度も馬を替えたのだとか。それほどまでに過酷な行軍をしながら、そのまま佐久間盛政軍を攻撃。同年4月21日午前頃に賤ケ岳付近で両軍が衝突。3日はかかると踏んでいた佐久間軍は大混乱の末、敗走。壊滅状態に陥ったのである。

ただ、資料によっては、柴田勝家の軍勢は内側から崩れたとの記録もある。厳密にいえば「裏崩れ」。つまり、後方を守っていた前田利家が勝手に戦線を離脱し、後ろから隊が崩れたというのだ。どちらにせよ、勝家の軍勢が戦意喪失したのは明らかだろう。他の与力たちも撤退をはじめ、終わってみれば柴田勝家の大敗北。その後、北ノ庄城(福井県)に戻るも秀吉軍に包囲され、燃えさかる天守で勝家はお市の方と共に自刃した。

織田信長の妹、お市の方。柴田勝家に嫁いで2度目の結婚となる

この前田利家の一連の動きをどうみるか。
柴田勝家の軍勢としてまずは参戦。その後、突然の戦線離脱。いったん、中立的な立場を経て、勝機を掴んだ豊臣秀吉の軍勢へと落ち着く。こうみれば、のちに「裏切り」や「日和見(ひよりみ)」などと非難されるのも頷ける。ただ、利家は事前に秀吉と通じていたとの説もある。そもそも、前年に柴田勝家側の使者として、利家は秀吉と面会。講和を結ぶのだが、その際に両者の間で密約が交わされたとの疑いも。これは、賤ケ岳の戦い後に、秀吉から「加賀」を加増された事実にも符合する。前田家の安泰を考えれば、確かに、これが究極の一手だったのかもしれない。

結果的には、「親父様」である柴田勝家を裏切った前田利家。様々な思惑が働いた上での決断だったに違いない。しかし、私には、全く異なる利家の「思い」を感じてしまう。

それは、裏切ることこそ「究極の信頼の形」との甘えだ。

豊臣秀吉は親友だが、裏切れば絶対に許してもらえることはない。そう、利家は考えていたのではないだろうか。あの性格である。秀吉を裏切るのは、ある種の賭けのようなもの。一方で、「親父様」と慕っていた柴田勝家は、何があっても事情を話せば分かってくれる。そんな親子のような信頼関係があったのではないだろうか。だから、その信頼に甘えてしまったように感じる。

何が最善の選択だったのか。
加賀百万石を築いた結果からみれば、前田利家の選択は正しかったのかもしれない。

しかし、だ。
賤ケ岳の戦いから敗走する途中、柴田勝家はある場所に立ち寄っている。それが、越前府中城(福井県)である。この城には、戦線離脱し謹慎している前田利家がいた。そんな利家に、勝家は湯漬けと替えの馬を所望するのである。

そして、去り際。
勝家は利家に対して盟約を破棄し、「秀吉側につくように」と言い残したという(諸説あり)。なお、養女という名目で、勝家側に人質に出されていた利家の三女は、無事に落城前に返された。

つい、柴田勝家が勝てば、どうなったのだろうかと考える。天下人にはなれなかったかもしれない。けれど、朝鮮出兵などの愚策は絶対に実現されなかっただろう。

柴田勝家の治世を見てみたい。
前田利家も、そう後悔しただろうか。

参考文献
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国武将の明暗』 本郷和人著 新潮社 2015年3月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『加賀藩百万石の知恵』 中村彰彦 日本放送出版協会 2001年12月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月