日本文化の入り口マガジン和樂web
9月28日(火)
曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く(伊達政宗)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
9月27日(月)

曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く(伊達政宗)

読み物
Culture
2020.04.13

爆死も足利義輝殺害もしていない?戦国武将・松永久秀3つの悪行の実像に迫る

この記事を書いた人

乱世あるところに奸雄(かんゆう:悪知恵のはたらく英雄)あり……。古来より、私たちはそう考えてきました。日本における乱世として有名なのは、言うまでもなく戦国時代。ゆえに、この時代にも多くの奸雄がいたとされています。

その代表例として、三好長慶や織田信長に仕えたことで知られる戦国武将・松永久秀(まつながひさひで)の名前が挙げられます。彼は、
・主君、三好長慶(みよしながよし)とその子を死に追い込む
・将軍、足利義輝を暗殺する
・大仏を焼き払う
などの凶行におよぶ人物で、中でも最期は織田信長を2度も裏切った挙句、名物の茶器・平蜘蛛とともに爆死するという強烈な最期で知られています。

良くも悪くも強烈な彼の生き様は後世に語り継がれ、現代でも株式会社コーエーテクモホールディングスが発売するゲーム『信長の野望』シリーズにおいて、武将の忠誠度を示すパラメータ「義理」が、全武将中最低値の「1」に設定されたことは語り草になりました。このエピソードから「ギリワン」というあだ名でも親しまれる久秀。

ところが、近年は彼に関する研究が進み、私たちの知っている久秀像が必ずしも正確なものではないことが分かってきました。ここからは、これまで誤解されてきたポイントを中心に、「爆死でもギリワンでもない義の武将」としての久秀の姿を追ってみます。

三好長慶を死に追い込んだどころか、実に忠実な家臣として仕えていた

第一の「ギリワン」ポイントとして、低い身分から自分を取りたててくれた恩人であり主君・三好長慶とその子を死に追い込み、下剋上を果たした点がしばしば指摘されます。

確かに、「低い身分から取りたてられた」ということ自体は正しいと思います。近年では彼の出自も見直され摂津国五百住(よすみ:現在の大阪府高槻市付近)の土豪(土地の有力者)であると分かってきましたが、その規模は決して大きなものではなかったとされています。そのため、三好長慶に取りたてられたことで歴史の表舞台に登場したことは間違いないでしょう。

が、肝心かなめの「三好長慶を裏切り、死に追い込んだ」という部分に関しては、有力な証拠が全く残されていないのです。むしろ、長慶と久秀を知れば知るほど、2人の結びつきがどれほど強かったかを悟らされます。長慶は三好氏の故郷・阿波ではなく京に近い家臣団を構築するにあたり、久秀らを抜擢。彼ははじめ事務方として、後には軍人としての才覚も認められ、長慶の立身出世とともに地位を向上させていきました。

とはいえ、久秀や松永家そのものに古くからの権威があったわけではなく、彼の立場はあくまで「三好長慶の力があってのもの」であったと考えられています。そのため、久秀は良くも悪くも長慶に絶対服従するほかなく、私たちがよく知るような謀反を起こす動機も皆無でした。

久秀は長慶に弟たちの悪口を吹き込んだばかりか、彼の長男・三好義興(みよしよしおき)を毒殺し、長慶を心労から死に至らしめたともされますが、これも確たる証拠はありません。むしろ、当時の書状からは彼が義興の病状をたいそう嘆き、より一層三好家への忠誠を誓った様子が確認できるだけ。

以上のことから、現代で判明している証拠を整理すると「長慶を死に追い込んだというのは大ウソ」であり、久秀はトンデモな罪を着せられていることになります。

足利義輝殺害には全く関与していなかった?

第二の「ギリワン」ポイントとして、剣豪将軍の異名で有名な足利義輝を暗殺したことがよく知られています。

足利義輝(国立国会図書館蔵『魁題百撰相』)

実際のところ、久秀は本当に将軍の暗殺という暴挙に出たのでしょうか?

結論から言えば、少なくとも直接的に義輝暗殺に関わったというのは大きな誤りといえます。永禄8(1565)年に義輝を暗殺したのは彼の息子である松永久通と、長慶の後継者・三好義継を中心とする軍勢で、久秀は加わっていませんでした。

しかし、「息子が殺したんなら、オヤジが殺したも同然じゃない? 裏で手を引いてたかもしれないんだし」とも考えられます。子の罪は親の罪、という考え方からいけば、それも一理あるかもしれません。が、足利将軍家の処遇をめぐって松永親子は必ずしも意見を同じくしていなかったと知れば、見方は大きく変わってきます。

久通や義継が義輝を暗殺した動機は「幕府権力の否定」、つまり「もうオマエら将軍なんていらねェ!」という態度の表れであったとされ、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を討つ計画もあったと言われます。ところが、彼らの方針とは異なって久秀は独自に覚慶の命を保証しており、将軍家をめぐる考え方に食い違いがあったと考えても不思議はありません。すでに都で栄華を誇っていた自分たちの姿だけを見てきた新世代の久通・義継は将軍の力を軽んじ、対する久秀はたとえ実体はなくとも権威だけはある将軍を重んじたことになります。

もちろん、彼らに「義輝暗殺をどう思いますか?」なんてインタビューすることはできませんから、実際のところは分かりません。ただ、ひとまず久秀が将軍の力を重視したとすれば、彼は既存の権力を否定する革命家どころか、良くも悪くも先例を重視する保守的な人物であったと考えることもできます。私たちの抱いている久秀像からは信じられないようなことですが、これもまた一つの可能性として指摘できるでしょう。

大仏殿への放火は戦争中の事故だった

久秀は足利義昭を守る方向で動いていたのですが、これが結果的に反三好勢力の勢いに火をつけてしまいました。彼の失態を責める形で三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)が台頭し、両者の対立は決定的なものとなります。当初久秀は家中で孤立し失脚を余儀なくされましたが、義継が久秀支持を表明したことで劇的に復活。政争で優位に立ちます。

こうした状況下で勃発したのが「大仏殿の戦い」。文字通り東大寺の大仏殿付近で行われた戦いで、その途中に久秀が三人衆を討ち取るべくお堂に火をかけたと伝わります。

これが、第三の「ギリワン」ポイントです。当時の仏教は極めて大切なものでしたから、「仏をも恐れぬ男」として良くも悪くも伝説化していったのです。

しかしながら、実際には戦いで誰が火をかけたのかはよく分かっていません。「久秀が燃やしたんだ!」という人もいれば、「イヤ、三好三人衆が逃げるときに燃やした!」という人もおり、犯人は謎に包まれているのです。そもそも、当時は現代のように「戦争の記録」を中立的な視点から残すという文化はありませんでしたし、仮に文書が残っていたとしても、ペンやカメラもない時代に戦場の動向を正確に伝えることは困難でした。ゆえに、京都の貴族たちであっても、戦争の様子は「風のウワサ」程度でしか知ることは叶わなかったのです。

とはいえ、積極的に燃やしてはいなくとも「まあ燃えちゃったら仕方ないよね~(ニッコリ)」と、久秀が内心でほくそえんでいたら同罪でしょう。仏をも恐れぬ男という風評には当てはまるわけですからね。ただ、実際は戦後に自分たちで燃やしたはずの大仏殿の復興に尽力した清玉上人(せいぎょくしょうにん)を激賞しています。自分たちで戦場にしたところを直そうとする人物を称賛するのにはものすごいムジュンを感じますが、ここから久秀が「東大寺の破壊」を目的に戦っていたわけではないことがよく分かります。

そもそも、元はといえば三好三人衆も久秀も東大寺に陣取って戦争をおっぱじめる時点で宗教的には「論外」であり、その意味でいえば両者とも同罪といえましょう。つまり、この放火は「戦争中の事故」ともいうべきもので、決して織田信長のように「比叡山延暦寺を焼くことを目的に戦いを仕掛けた」というわけではないのです。

爆死を含めた一連の「ギリワン」イメージはなぜ形成されたか

ここまで見てきたように、久秀の「奸雄ぶり」を示すエピソードはほとんどが事実無根、あるいは恣意的な解釈に基づくものです。他にも、信長を2度裏切ったことも当時の複雑な情勢を鑑みれば特異な判断とは言えませんし、死に際して平蜘蛛が失われたという話も真偽は不明。最期を「爆死」とするのも、近年になって生まれた俗説だと言われています。

しかし、「こんなに事実無根のレッテルを張られるということは、久秀に恨みでもある人がいたのか?」と言いたくなってしまいます。この「なぜ久秀がこれほどまでに貶められたか」という点については、江戸時代中期のとある風潮を打破するために意図して作り上げられたと考えられています。

この頃には、従来軽んじられてきたはずの柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、間部詮房(まなべあきふさ)といった身分の低い人物たちが次々に幕府の重臣に取りたてられ、幕政に深く関与するようになりました。しかし、これを面白くないと感じたのは、それまで幕政を担ってきた譜代(長く徳川家に仕えてきた)大名たち。

そこで、幕府が重視していた学問・儒学を研究していた湯浅常山(ゆわさじょうざん)という人物が、「これはけしからん……。そうだ! これまで歴史上でいきなり下剋上してきたヤツがどんだけ悪さをしたか書けば、従来通り家柄に準ずる秩序を取り戻せるかも」と考え、『常山紀談』という歴史書で冒頭に紹介した「久秀3つの悪事」をまとめたといいます。

他にもいくつかの出展元があるものの、このように特定の意図をもって書かれた「歴史創作」が広がり、やがて久秀イメージを形成していったと考えられているのです。

明治12(1879)年刊行の『常山紀談』(国立国会図書館蔵)
明治に入っても多数の版元から刊行されており、時代を超えて読み継がれる様子がうかがえる

ちなみに、彼らの目論見通り柳沢吉保や間部詮房の評価も地に落ちたため、現代の時代劇でも彼らが頻繁に悪者として描かれるのはこのためでもあります。

私たちの知っている「歴史イメージ」というものが、どれほどいい加減に形成されてきたものかを物語る良いエピソードだと思います。

【参考文献】
今谷明『戦国三好一族』新人物往来社 1985年
天野忠幸『三好長慶』ミネルヴァ書房 2014年
天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』平凡社 2018年

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?