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2020.05.18

片倉小十郎景綱とは?伊達政宗の家臣で秀吉や家康にスカウトされたスゴ腕男に迫る!

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「私に免じて無事に育ててくれ」
「いや、そういうワケには…」
「お願いだから、私に免じて子を助けてやってくれ」
「そんな…不忠はできませぬ」

一体、誰の会話か。なんとなく、子を宿した女と、子を産ませたい男のやりとりにも思えてくる。

しかし、意外にも、登場人物の2人は「男」。それも、主君と家臣の2人である。どういう状況なら、このような会話となるのか。いやはや、全く理解できないのは、私だけではないだろう。

産ませて無事に育てたいのは、当時18歳の伊達政宗(だてまさむね)。対して、拒んでいるのは、当時28歳の片倉景綱(かたくらかげつな)。政宗の家臣である。

そして、この方が、今回の主役。片倉小十郎景綱、通称、「小十郎」である。「智」と「武」を兼ね備えた、伊達政宗の右腕といわれた補佐役。父のようでもあり、兄のようでもあり、時に諫め、時に盾となって守る。一生涯、伊達政宗に忠誠を誓った熱き武将である。

そんな固い絆で結ばれている彼らが、なぜもめているのか。

原因は、片倉景綱の妻が懐妊したことにある。本来ならば、かくもめでたい話。一方で、主君である伊達政宗には未だ子がおらず。景綱からすれば、主君よりも先に子ができるのは不忠と、自分を許せずにいた。そのため、生まれてくる我が子を手にかけようと考えたのだ。それを知った政宗は、慌てて景綱に手紙を送り、必死で懇願。景綱の子を助けてほしいと説得したという。こうして、景綱は主君である政宗の意向に従い、我が子を殺すことをやめたのだとか。

こんな苛烈な忠義を抱く片倉景綱とは、どのような人物なのか。
豊臣秀吉にヘッドハンティングされ、徳川家康にも熱い視線を注がれた景綱。そんな彼の驚くべき逸話を、早速、ご紹介しよう。
(※この記事では、伊達政宗の幼名である「梵天丸」を使わず、「政宗」と表記しています)

伊達政宗の右目をくり抜く器のデカさ

片倉小十郎景綱は、伊達政宗よりも10歳年上だ。
もとは神官の息子。米沢八幡宮の神職・片倉景重(かげしげ)の次男として生まれ、一時は養子に出されたことも。その後、政宗の父である輝宗(てるむね)にその能力を見出され、徒小姓(かちこしょう)に召し出される。小姓とは主君の傍で身の回りの世話をする者をいうが、そのうち、主君が外出するときに徒歩で付き添う小姓を「徒小姓」という。

幼い頃から聡明で兵書なども親しんだという景綱。異父姉の喜多(きた)が政宗の乳母として養育係であったこと、また輝宗の重臣である遠藤基信(もとのぶ)からの推挙もあって、景綱は政宗(幼名は「梵天丸」、ぼんてんまる)の傅役(もりやく)に抜擢される。禄(ろく、給与のこと)はそのままだったが、異例の大出世となった。

当時、まだ幼かった政宗は「伊達者(だてもの)」のイメージとはほど遠い性格であった。内気で引っ込み思案。あの豪胆な政宗とは180度異なる「ジメジメしたタイプ」であったという。これには、政宗が患った疱瘡(天然痘のこと)が少なからず関係している。というのも、疱瘡の後遺症として、右目が完全に飛び出していたからである。活発だった面影は消え去り、醜い自分の姿に耐え切れず、引きこもりがちになったのだとか。

伊達政宗像

『片倉代々記』には、伊達政宗の右目を片倉景綱が勢いよく、えぐり取るシーンが書かれている。伊達家の『性山公治家記録』にも、以下のように記録されている。

「(右目が)其醜シトシ玉ヒテ近侍ノ輩ニ衝潰スヘキ旨命セラル。恐テ従フ者ナシ。時ニ片倉小十郎景綱小刀を以て衝潰シ奉ル」

どうやら、幼い政宗が、年上の家臣たちに対して、眼窩に飛び出した右目をえぐり出すようにと迫ったらしい。そんな無理な要求など通るはずもなく。もちろん、逃げ惑う家臣たち。

確かにそうだろう。主君を傷つけるなど、滅相もない。たとえ主君自らが望んだとしても、刃を向けるなど即アウト。誰だって、自己の保身を考えるもの。しかし、景綱は自らの処遇など考えもせず、政宗の苦痛を和らげることだけを最優先させる。

他の家臣が避ける中で、景綱ただ一人。小刀を片手に、政宗の右目を突いてえぐり出したという。

それだけではない。
是非とも特筆したいのは、その後である。右目から血が噴き出し、あまりの激痛に幼い政宗は卒倒する。そんな政宗に対して、景綱は諫言するのである。

「これくらいの痛みで武士が卒倒するなど情けない」

これから伊達家を統率する大切な主君には、これを機に必ずや強くなってほしい。そんな強い気持ちが、十分すぎるほどわかる景綱であった。

秀吉も家康も狙ってた?小田原攻めを進言した軍師・景綱

さて、片倉景綱の逸話は「右目えぐり出し」だけではない。伊達政宗への熱き忠誠はとどまることを知らず。

有名なのは、天正13(1585)年の人取橋(ひととりばし)の戦い。政宗が家督を継いでからの初めての大きな戦いとなる。反伊達連合軍は3万、一方の伊達軍は7000と、その兵力差は非常に大きかった。残念ながら伊達軍は劣勢となり、政宗は反連合軍の標的に。多数の兵が政宗めがけて殺到する。そんな状況で、危機に陥る政宗を救ったのは、やはり景綱であった。

「景綱、退くな!政宗がここにおるぞ!」
戦場で響いたのは、なんと、景綱の大声。
政宗に対して、景綱はあたかも自分が政宗のように振る舞い、そう呼びかけたのだという。これで、政宗に殺到していた敵軍は、一斉に景綱の元へ。自分を盾にして政宗の危機を救ったのである。

こうして多くの合戦に参陣して武勇をあげた景綱。
しかし、世に景綱の存在を知らしめたのは、そのあとのこと。対豊臣秀吉の外交での活躍だろう。

豊臣秀吉像

伊達政宗といえば、豊臣秀吉の小田原攻めの際に「遅参」したことが有名である。コトを収めるために、水引で髪を結び、白の直垂(ひたたれ)を身に着け、死装束で秀吉に謁見。杖で首をつつかれながら、許してもらったエピソードは政宗らしさの象徴にもなった。じつは小田原参陣での伊達家の舞台裏はドタバタ。改易を回避できたのは、ひとえに、片倉景綱の軍師としての先見の明があったからこそなのだ。

一体、伊達家では、何が起こっていたのか。

天正13(1585)年に関白となった豊臣秀吉は、翌年には太政大臣に。九州を平定し、あの島津家も圧倒的な兵力で押さえつけ、近畿より以西を手中に収める。残すところは、関東と奥州(東北)のみの状況であった。こうして、天正18(1590)年、豊臣秀吉は北条氏のいる小田原攻めを決行。諸大名へ小田原参陣を促し、圧倒的な権勢で関東の平定を目論んだ。

秀吉から出された小田原攻めの命令は、もちろん、伊達家にも届く。しかし、伊達家家中の意見は割れに割れていた。じつはこの光景、九州島津家でも見られたもの。未だ秀吉の権力の実態を正確に認知できない、遠く離れた九州や奥州などでは当然の議論。成り上がりの秀吉に対して、臣従しようという気が起きないのである。まさに、これで失敗したのが島津家である。

そして、奥州の伊達家でも同じような失敗が起きようとしていた。もともと、伊達氏は、関東の北条氏と手を結び、対佐竹氏の共同戦線を張ろうと考えていたのだから。共に、秀吉からの上洛をかわし続け、進物の献上で逃げ切っていた伊達家であったが、これ以上は無理と判断。ここで徹底抗戦して秀吉と敵対するか、小田原攻めに参陣して臣従するか。ここで腹を決める必要があったのだ。

伊達家の命運がかかる選択。だからこそ、家臣の意見は未だまとまらず。決断できずにいた政宗は、最も信頼を寄せる景綱の屋敷を訪れる。二人だけで交わされる密談。

そこで、景綱が指摘したコト。
それは、「蠅(はえ)」であった。

『片倉代々記』ではこのように記録されている。

「関白・秀吉の勢いは、夏に生じる蠅のようなものでございます。一度に二百、三百を叩きつぶしても二、三度は防ぐことができるかもしれませんが、それにも増して生じて来て、ついには抗うことができなくなってしまいます」
(皆木和義著『1人で100人分の成果を出す軍師の戦略』より一部抜粋)

この言葉で、政宗は小田原参陣を決意するのである。秀吉に臣従すると決めた瞬間であった。ただ、小田原参陣は出発が遅れ、景綱と100騎ほどでようやく到着したのは6月5日のこと。落城寸前であったという。結果的には遅参したが、なんとか帳尻を合わせて、伊達家最大の危機を乗り切った。ひとえに、片倉景綱の名言が、伊達家を救ったといえる。

こうして、一目置かれる存在となった片倉景綱。
有能な人物であることは誰の目にも明らか。もちろん、放っておくワケにはいかないと、出てきたのが豊臣秀吉である。文禄2(1593)年には、秀吉から伊達家を離れて直臣になるようスカウトが。なんでも、小田原攻めでは5万石で釣ろうと画策され、朝鮮出兵では軍船・小鷹丸(こだかまる)を下賜(かし)されている。こうみれば、秀吉の本気のアプローチだったのだろう。たが、景綱は固辞。伊達政宗の傍を離れることはなかった。

秀吉だけではない。もう一人の天下人、徳川家康もまた、景綱を気に入っていた。慶長6(1601)年、今度は家康より江戸屋敷を賜ることに。しかし、やはりこれも返上。政宗への忠節を貫いた形となった。

こうして、天下人の二人から熱い視線を送られた景綱だったが、芯はブレず。政宗への忠義は、揺らぐことはなかった。

景綱の最期、そして今…

じつは、片倉景綱は白石城(宮城県白石市)の城主である。
城主となったのは、慶長7(1602)年のこと。そして、驚くべきことに「一国一城令」が出されたあとも、景綱は城主であり続けた。これは異例中の異例。非常に珍しい特例の扱いなのだとか。

白石城

というのも、江戸幕府が出した「一国一城令」とは、諸大名に対して、居城以外の城を全て破却することを命じた法令だ。つまり、同じ領国内に、2つの城があってはいけないというモノ。仙台藩主である伊達政宗の居城はもちろん仙台城。その支城が、景綱が城主である白石城であった。

本来であれば、白石城は破却しなければならないはず。しかし、徳川幕府は特例として片倉景綱の白石城を認めることに。これまでの政宗への忠義が、ここにきて世間に認められる形となった。

元和元(1615)年10月14日、片倉景綱はこの世を去る。前年に病に倒れて治らず。静かな最期であった。御年59歳。

景綱が埋葬されたのは、宮城県白石市、臨済宗妙心寺派の傑山寺(けっさんじ)。埋葬地には、遺言通りに一本の杉が植えられ、景綱の墓標にされたという。この「片倉の一本杉」は、現在も立派な姿で立っている。

一番奥にあるのが「片倉の一本杉」

この傑山寺には、片倉景綱の銅像がある。その手には、一つの笛が握られている。文武両道を地で行く景綱は、篠笛(しのぶえ)が得意だったとか。文化人としても名高かったようだ。陣中でも愛用の篠笛「潮風(しおかぜ)」を手放さず、戦場で吹いては人々の傷ついた心を癒したという。その人格に惚れて、景綱が亡くなった時には6名もの家臣が殉死。伊達政宗自身も、葬礼に際して自らの愛馬を下賜し、棺を引かせて別れを惜しんだという。

戦国時代での忠臣は、よくある話。
片倉景綱でなくとも、多くの戦国大名には忠臣がいた。主君と共に戦乱の世を駆け抜け、多くの逸話も残る。これは別に珍しいことではない。

しかし、片倉景綱は最後まで私たちを驚かせる。
仙台市にある「青葉神社」。こちらは、伊達政宗公を御祭神としてお祀りしている神社である。

じつは、この青葉神社で宮司をされているのは、片倉景綱の子孫の方だとか。400年経った今もなお、片倉家は宮司として政宗公をお守りされている。

主君・伊達政宗への忠義。
消えることない片倉景綱の思い。
形は違えど、間違いなく今も脈々と受け継がれている。

参考文献
『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 晋遊舎 2013年12月
『1人で100人分の成果を出す軍師の戦略』 皆木和義著 クロスメディア・パブリッシング  2014年4月
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月
『戦国の城と59人の姫たち』 濱口和久著 並木書房 2016年12月
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。