Gourmet
2020.05.13

「とりあえずビール」の習慣は江戸時代から?酒場もバカ騒ぎも大好き大江戸酒飲み事情

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手の込んだ料理や収納名人を真似た断捨離などの「おうち時間」の過ごし方に飽きると、早々と家飲みをはじめてしまうご同輩たちよ。外ならば一杯二杯で済むものを、家の気安さから杯を重ねて後悔する東京・酒飲みクラブのみなさん。どうぞご安心ください、ついついお酒を飲むのはあなただけのせいじゃない(かどうかはわかりませんが)、土地の記憶がそうさせているのです。200年以上前から「江戸の呑みだをれ」と言われ、江戸の町や人びとは酒道楽の呑み助認定をされていました。そんな呑み助たちがせっせと通った大江戸居酒屋事情から庶民が狂喜した馬鹿馬鹿しい大酒合戦まで、江戸の上戸にまつわるエトセトラをとくとお飲み、ではなく、ご覧あれ。

酒での失敗はいつの時代も武勇伝!

江戸は寛政7(1795)年、大坂の狂歌師・筆彦が編纂した『軽口筆彦咄(かるくちふでひこばなし)』。そこには「江戸の呑みだをれ、京の着だをれ、大坂のくひだをれ」なる三都比較が記されています。江戸中期の大坂人は、江戸っ子は酒道楽の呑み助と思っていたようですね。着物にお金をかける着道楽の京都人、おいしいものが多くて食道楽な大阪人、は今でもよく耳にします。居酒屋や酒場の数はもちろん多いのですが、さほど酒道楽で呑み助だらけとは思えぬ気も……。いやいやコロナ以前の新橋や新宿の終電車を考えるとまあ呑みだおれなのかもしれませんね。

江戸時代に流行した飲みくらべの様子。右上には酒ノ上の久だ巻(さけのうえのくだまき)なんて名もみえる。歌川国芳『大酒の大会』(二枚もの左)/都立中央図書館特別文庫室所蔵

しかし信長や秀吉とも親交のあった宣教師ルイス・フロイスの目には、日本人自体が飲んだくれに映っていたようです。フロイスが天正13(1585)年に著した『日欧文化比較』には、「しつこく酒をすすめ合って酔っ払い、前後不覚に陥ってもそれを誇りとしている」と記されています。布教活動にやってきた宣教師ゆえになかなか手厳しいお言葉。しかしながらフロイスの言うように酒の失敗を武勇伝のように豪語する奴いるいる、結構いますね。人は昔からちっとも変わらないものなのです。

ヘタウマタッチの作風がより酔っ払いの雰囲気を高めてくれる。このとき国芳は中風を患っていたとか。歌川国芳『大酒の大会』(二枚もの左)冒頭画像にも使用/都立中央図書館特別文庫室所蔵

清酒から焼酎までいろいろな酒をグイグイと

江戸では、上方からの下り酒が絶大な人気を誇っていました。時期によって変動するものの、安永・天明期(1772~89年)には年間90万樽は入荷していたようです。当時の江戸の人口は、武家と町方あわせておおよそ100万人。もちろん子どもや飲めないひとも含んだ人口と考えると、ひとり年間1樽程度(三斗五升*約63リットル)は飲んでいた計算に。

飲んだくれのくだをまき亭主。歌川芳虎「百品噺の内」「亭主の酒呑ばなし」/都立中央図書館特別文庫室所蔵

一日に慣らしてみると176ml、ということは一合(180ml)程度となります。それって少ないんじゃない? と思うでしょう。しかしこれは清酒に限ってのこと。当時は、価格も安い濁り酒(どぶろく)がかなり出回っていました。清酒に濁り酒、また焼酎を製すものもあったと江戸の風俗史『守貞謾稿』にもあり、さまざまな酒で飲んだくれていたようです。

居酒とは酒屋で飲むことを指す言葉

仕事帰りにちょっと一杯と足が向くのは居酒屋ですが、江戸の人たちも同じだったようです。この“居酒(いざけ)”という言葉は、そもそも酒屋で酒を飲むことでした。文政13(1830)年刊、江戸の百科事典『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』にも「…居酒といふ事、古くもあり。酒屋へ飲にゆく也」とあります。量り売りしてくれる酒屋で飲ませたのが居酒のはじまり。今でいう角打(かくうち)のようなものですね。

酒屋の店先や店内で気軽に飲める店はついつい足が向く。仕事帰りの気分転換は今も昔も同じです。

現在、神保町に社屋を構える白酒で有名な「豊島屋」は、居酒をおこなう店でもありました。城そばの鎌倉河岸で下り酒や豆腐田楽を安く売り、城下を整備する男衆でたいそう賑わっていたことを豊島屋・当代からもお聞きしたことがあります。豊島屋では空き酒樽を商うことで利益を得ていたというから、飛ぶようにどんどんお酒が売れていたのでしょうね。

神保町に店を構える豊島屋。現在も江戸時代のままの製法にて白酒を醸造。また明治より清酒づくりもスタート。銘酒「金婚」は江戸総鎮守の神田明神や山王日枝神社、明治神宮に奉納されている。東京は八王子の食米や村山市にある酒造内井戸水をつかい、江戸酵母で醸した純米酒「江戸酒王子」。東京生まれの日本酒は、ワインのような爽やかでスパイシーな飲み口。

江戸から受け継がれてきた「とりあえずビール」

そんな酒屋の居酒から発展して、飲食店として居酒屋が登場します。幕末期には、安さを売りにした店から料理屋なみの店まで多様化。とはいえ庶民が出向いたのは濁り酒を飲ませる「中汲(なかくみ)」や「一寸一盃(ちょっといっぱい)」と呼ばれるお手ごろ居酒屋。一寸一盃なんて言葉は、今でも居酒屋の赤ちょうちんに書かれていたりしますよね。ほかにも芋の煮物(煮っころばしと言ったそうで)を売り物にした「芋酒屋(いもさけや)」は人気があったとか。

さまざまな酔っ払いがでてくる式亭三馬の『一盃綺言』。裸、鉢巻、踊り、と酔っ払いのふるまいは同じですね。国会図書館デジタルコレクション

ちなみに早朝から営業をはじめる店や、「夜明かし」といって遊郭帰りの客を狙い終夜営業していた店もあるようで、大江戸は朝から晩までどこかしらで飲める酒飲み天国でした。店に入るやいなや「おやじ、こなから(二合半)」や「四文を三合」など酒の値段と量を言って注文するのが常。まずは酒という注文様式は、現代の「とりあえずビール」スタイルへとしっかり受け継がれているのですね。

大ベストセラーになるほど盛り上がった酒合戦

庶民は居酒屋でほどほどに楽しみ、金と時間に余裕のある町人は「呑みだをれ」の名に恥じぬ(?)酒合戦を繰り広げます。寛文7(1667)年に刊行された酒合戦記『水鳥記(すいちょうき)』があります。菱川師宣が挿絵を描いた飲みくらべ記は当時大ベストセラーになり、タイトルを変えて何度も刊行されました。ちなみに水鳥とは、酒の字をふたつにわけたもの(さんずいは水、酉は鳥のこと)。元となったのは慶安2(1649)年に行われた、小石川の酒豪・地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ*茨木春朔)と多摩川の大師に暮らす酒仙・大蛇丸底深(おろちまるそこぶか*池上太郎右衛門)の飲みくらべでした。

江戸市中にて大ベストセラーになった酒合戦記『水鳥記』。泰平の世ここに極めな戦記物ですね。/国会図書館デジタルコレクション

酒合戦にはふたりの門人も参加して賑やかに行われたようで、盃にはなんと七合入りの大盃が使われました。そこには蒔絵で、蜂と竜と蟹の絵が描かれていて「させのもう肴をはさむ(さしつさされつ肴をつまみ酒を飲み干す)」という意味だったとか。シャレの効いた豪華な盃で互いにぐいぐいと酒を飲み、勝利したのは地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ)だったとか。『水鳥記』は勝者・樽次による記録ですが、実は飲み勝ったのは大蛇丸だったという説もあるそう。また驚くことに、樽次こと茨木春朔はある藩のお抱え医者でした。酒が百薬の長になったのでしょうか。当時としては、そこそこ長命で67歳の天寿を全うしたと言われています。彼の墓には「南無三ぽうのあまたの樽をのみほして身はあき樽にかへるふるさと」との狂歌が刻まれています。

大盃をぐいっと飲み干す。『水鳥記』にでてくる樽次の蜂竜盃(はちりゅうはい)は大蛇丸こと池上太郎右衛門に贈られたとか。/国会図書館デジタルコレクション

その後も活況に催された大酒大会。稀代の文人・太田南畝が『続水鳥記』として記録した、文化2(1815)年の千住宿・大酒の会。こちらは中屋六右衛門の還暦祝いとして開催されました。参加者はなんと100名!? 用意された盃はすべて蒔絵細工、料理も贅沢このうえない肴がずらりと並ぶ豪華絢爛な酒宴だったようです。千住の松勘(まつかん)が九升二合を飲み干し、女性でも一升五合の杯を空にしたとの記録が残されています。話を聞いているだけで、悪酔いしそうですね。

しかし江戸の大酒大会では飲みすぎてぶっ倒れたなんてことはあっても、度を越して命を落とす人がいないのは唯一いいところかもしれません。明治中頃の食べ飲みくらべでは命を落とす方もいたようで、そうなってしまうと遊びとはいえなくなってしまいます。無茶苦茶に見えても(無茶ではありますが)遊びとしての流儀をわかっているのが、江戸の上戸だったのですね。

酒は飲んでも飲まれるな、無理だと思えば杯をおこう。この標語をつぶやきながら、本日もまた家飲みをはじめます。

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和樂江戸部部長(部員数ゼロ?)。江戸な老舗と道具で現代とつなぐ「江戸な日用品」(平凡社)を出版したことがきっかけとなり、老舗や職人、東京の手仕事や道具や菓子などを追求中。相撲、寄席、和菓子、酒場がご贔屓。茶道初心者。著書の台湾版が出たため台湾に留学をしたものの、中国語で江戸愛を語るにはまだ遠い。