伊藤若冲とは? 代表的な作品と人生の解説、展覧会情報まとめ

伊藤若冲とは? 代表的な作品と人生の解説、展覧会情報まとめ

目次

奇想の絵師・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)。その代表作と人生、展示にまつわる情報をまとめてご紹介します。

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)とは?

「動植綵絵」などで平成になって人気が爆発したレアな絵師、伊藤若冲。絵師となる者は専門教育を受けるのがほとんどであった中で、若冲は独学で道を開き、85歳で亡くなるまで筆は衰えませんでした。

若冲代表作久保田米僊「伊藤若冲像」一幅 絹本着色 明治18(1885)年 55.0×34.9cm 相国寺

伊藤若冲の絵師人生

江戸時代中期、京都にある青物問屋の長男として生まれる

江戸時代も中期に入った正徳6(1716)年、伊藤若冲は京都・錦市場(にしきいちば)の青物問屋「桝源(ますげん)」の長男として生まれました。時はあたかも、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が享保の改革で幕府財政の再建に成功し、町衆が文化の担い手となり、江戸や京で様々な文化が花開こうとしていたころでした。

10代半ばから狩野派の絵師に弟子入り

そんな世にあって、若冲は幼少期から優れた画才を発揮。10代半ばを過ぎたころに狩野派(かのうは)の流れを汲む大岡春卜(しゅんぼく)に師事したとされます。しかし狩野派の厳しい教えにはなじめなかったようで、中国からもたらされた宋元画(そうげんが)に惹かれ、熱心に模写して技術を習得しました。

身近な動植物を写生し、稀有な画才に磨きをかける

生家が商う野菜や錦市場に並ぶ魚、自宅の庭で飼っていた鶏など、身の回りのものをつぶさに観察し、写生することによって腕を磨いていきます。こうして若冲は、動植物の姿を生き生きと躍動的に、ありのままに細やかに描くという画風と技術の素地を養ったのです。

若冲代表作左/伊藤若冲「鸚鵡図」一幅 絹本着色 宝暦5〜6(1755〜1756)年ごろ 107.6×49.1cm 千葉市美術館 右/伊藤若冲「糸瓜群虫図」一幅 絹本着色 江戸時代中期・18世紀 111.6×48.4cm 細見美術館

20代、絵画道まっしぐら

若冲が23歳になったころ、不幸にも父が急逝。長男であることから「桝源」4代目を継いだのですが、絵を描くことが楽しくて仕方がないといった有り様で、家業そっちのけで写生を行っていたと伝わります。

そんな日々の中、学芸全般に秀でた博識の大典禅師(だいてんぜんじ)と出会い、画才を認められたことで、若冲は禅に帰依(きえ)していきます。そして、40歳になったころ、次第に家督(かとく)を譲って、大典禅師が住持(じゅうじ)であった相国寺へ移り住み、絵師として身を立てることを目ざすようになりました。

日本美術史上に輝く最高傑作「動植綵絵」を完成

若冲はほどなくして、独自に磨いてきた画才をいかんなく発揮。最高級の岩絵具をふんだんに用いて動植物を丹念に描いた花鳥画「動植綵絵(どうしょくさいえ)」に取り組みます。

若冲代表作伊藤若冲「動植綵絵 薔薇小禽図」一幅 絹本着色 宝暦11〜明和2(1761〜1765)年ごろ 142.6×79.7cm 宮内庁三の丸尚蔵館

50歳、「動植綵絵」の一部を相国寺へ寄進

50歳になった若冲は「動植綵絵」のうち24幅と「釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)」3幅を相国寺に寄進(きしん)し、翌年の父の三十三回忌にはさらに6幅を寄進。こうして、若冲畢生(ひっせい)の名作「動植綵絵」30幅は完成したのですが、それは両親と早逝の末弟、そして自分自身の永代供養(えいたいくよう)を願ってのことでもあったのです。

それから間もなく、相国寺で公開された「動植綵絵」は京の人々の度肝を抜き、絵師・若冲の名は広く知れ渡るようになります。さらに、相国寺に寄進したことによって、「動植綵絵」は大切に守られ、現在まで伝えられてきたという側面も見逃せません。

50代から60代、彩色画から水墨画へ

50代になった若冲は江戸で盛んになっていた版画や、水墨画に才を発揮していますが、50〜60代の作品数はそれまでとくらべて激減しています。

若冲代表作伊藤若冲「玄圃瑤華 大根・蔓茘枝」一帖(48図)紙本拓版 明和5(1768)年 各28.2×17.8cm メトロポリタン美術館

その理由は、錦市場の町年寄(まちどしより)という要職についていたから。ちょうど錦市場では存続の危機に瀕する事件が発生しており、解決に向けた若冲の奮闘ぶりは「京都錦小路青物市場記録」という古文書に残っています。意外にも若冲は、今日の錦市場の繁栄に一役買っていたのです。

70代、大阪で再び極彩飾の大作に着手

70代になった若冲は家業も画業も悠々自適の状態でしたが、好事魔多し(こうじまおおし)で、天明の大火によって自宅を焼失。文人で収集家・趣味人として名を馳せていた旧知の友、木村蒹葭堂(けんかどう)を頼って大阪へ向かいます。

若冲代表作伊藤若冲「仙人掌群鶏図障壁画」重要文化財 襖6面 紙本金地着色 天明9(1789)年 各177.2×92.2cm 西福寺

しかし若冲は意気消沈するどころか、家業から解放されたことでむしろ絵に対する情熱を燃え上がらせ、斬新な構図と華やかさを兼ね備えた「仙人掌群鶏図障壁画(さぼてんぐんけいずしょうへきが)」をはじめとする傑作を次々に手がけます。

70代後半、晩年まで、ユニークなキャラクターを生む

そして、70代後半から世俗を逃れて石峰寺の門前に隠棲(いんせい)。米と絵を交換するという意味の号「斗米菴(とべいあん)」そのままの生活を送る若冲は、作画三昧の中でユニークな作品をたくさん描き上げ、寛政12(1800)年、85歳で病没します。

若冲代表作伊藤若冲「象と鯨図」六曲一双 紙本墨画 寛政7(1795)年 各159.4×354.0cm MIHO MUSEUM

みずから望む絵を長年求め続けたその人生は、この上なく幸せなものだったに違いありません。

伊藤若冲のここがすごい!技の見どころ

若冲の凄さはディテールの圧倒的な描き込み、さらには200年以上も前に描かれたとはとても思えない色彩の鮮やかさにあります。そんな超人的で卓越した描写はいかにして形成されたのでしょうか。

若冲ならではの色彩の鮮やかさ

「紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)」は、ほとんど同じ図様の作が「動植綵絵」にも存在しており、その描き込みや、色彩の鮮やかさという点におけるクオリティの高さも、まったく同レベルにある作品です。

この色彩豊かな作品、仔細(しさい)に見ると塗り重ねられた箇所がまったくない上に、その発色の鮮明さからは想像できないような薄塗りによって、鶏の羽や紫陽花の萼(がく)が描写されていることがわかります。
DMA-P52-53-min「紫陽花双鶏図」一幅 絹本着色140.0×85.0㎝ 江戸時代・18世紀 エツコ&ジョープライスコレクション

若冲の作品が色彩のミラクルワールドと言われ、今も鮮やかな発色が失われていない理由は、その描写力の高さもさることながら、極めて質の高い(つまりは、値段の高い)岩絵具を、きめの細かい、こちらも特別な画絹(がけん)の上に薄塗りしていたからだろうと考えられています。

錦市場の若旦那として金銭に不自由しなかった若冲の強みとも言えますが、もてる財力を、ほかならぬ画材の購入にあてたところに、若冲の若冲たる所以(ゆえん)があると言えるでしょう。

表情づくりの天才!着色画には見られないユーモラスな感性

学問嫌いにして人づきあいも苦手なら、家業はおろか酒色にもまったく興味がないという、現代で言うところのオタク的な人物だったと語られてきた若冲。しかし、そんな人となりからは想像もできないほど、彼の描いた作品は多彩でした。特に、水墨画でしばしば発揮されるユーモアと、思わず噴き出しそうになる漫画的な表情づくりの絶妙さは、リアルなディテールで知られる若冲の別の一面です。
スクリーンショット 2017-04-20 12.02.41「釣瓶に鶏図」一幅 紙本墨画 99.4×27.8㎝ 江戸時代・寛政7(1795)年 大和文華館蔵

作品の多彩さとともに、若冲の人物像にも新しい事実が続々と発見されています。家業には、まったく興味を示さないとされてきた若冲ですが、錦市場の営業停止命令と理不尽な税金の請求をしてきた奉行所に対し、自らが先頭に立って冷静かつ粘り強く交渉にあたり、また政治的判断に立った対処をしていたことが、近年の研究によって明らかにされました。
スクリーンショット 2017-04-20 12.04.29「雨龍図」一幅 紙本墨画 130.5×53.0㎝ 江戸時代・明和7(1770)年ごろ 個人蔵

水墨画に描かれるユーモアや表情は、ともするとオタクのように描かれる若冲自身の隠された表情なのかもしれません。

-2013年和樂4月号より-

伊藤若冲の代表作

「動植綵絵」

若冲の描く動物たちが見たままをリアルに描いてはいないのに、鶏ならそのもの以上に鶏らしく見えるところが、彼の言う「神気」というものなのでしょう。若冲の超絶的な描写は、実際のものをこれでもかと観察し続けた結果生まれたものなのです。
DMA-P55-い

さらに、その筆致をより鮮明に際立たせる技のひとつが裏彩色(画面の裏にも絵具を入れる)でした。この『動植綵絵』に限らず、多くの絹本着色画において若冲はこの裏彩色を採用したと考えられ、絹地と絵具を巧みに操っては色艶やかな世界を創出したのです。これは、主に平安時代の仏画などに多く用いられた技法で、若冲は数多の模写をする中でこの画法を学んだのではないか、と考えられています。

このように若冲その人の画力は、天賦の才とともに、旺盛な好奇心と伝統的な技法がまるで、カクテルのように巧みに調合され、さらにはたゆまぬ努力によって確立されたものなのです。

「釈迦三尊像」

現在、宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する「動植綵絵」は全30幅ですが、本来は33幅で一いの作品でした。

「動植綵絵」はもともと、若冲が相国寺に寄進するために描いた仏画ですが、明治の廃仏毀釈の折、やむなく仏を荘厳するために描かれた30幅の花鳥画部分だけが皇室に献上されることとなり、寺には一連の作品の中心的存在とも言える「釈迦三尊像」3幅だけが残されたのです。

DMA-P54-あ「釈迦三尊像・釈迦像」三幅のうち一幅 絹本着色 210.3×111.3㎝ 江戸時代・明和 (1765)年ごろ 相国寺蔵 写真提供 相国寺承天閣美術館

ちなみに、この3幅の『釈迦三尊像』は、花鳥画である現在の「動植綵絵」よりも、大きさが一回り以上も大きくなっており、若冲が相国寺の方丈に作品を掛けた際、中心となるこの3幅が目立つように計算していたことが窺い知れます。

「鹿苑寺大書院障壁画・葡萄図」

若冲の作品を見ていると気がつくのは、縦画面の軸物の数にくらべ、障壁画や屛風といった横方向に画面の広がりを感じさせる絵が少ないこと。さらには、風景画の類がほとんどないことが挙げられます。前衛芸術家にして作家の赤瀬川原平さんは、彼を評して「縦の人」と呼ぶくらい。しかし、そんな彼も40歳で本格的な絵師となってわずか4年後、京都でも一、二を争う格の高い寺の障壁画を依頼されるのです。それがこの『鹿苑寺(ろくおんじ)大書院障壁画』という書院の5室を埋める大作でした。

画家の道に専念するようになってたった4年で、京都の中でも寺格の高い鹿苑寺の大書院の障壁画を任されるというのも、若冲の画力のなせる業。しかし、冷静に考えれば依頼するほうも凄い才覚の持ち主!
DMA-P64-65-な壁、床、違棚貼付七面 紙本墨画 江戸時代・宝暦9(1759)年 重要文化財 鹿苑寺蔵 写真提供/相国寺承天閣美術館

「仙人掌群鶏図障壁画」

天明の大火で罹災した若冲を経済的にバックアップしようと、西福寺の有力な檀家だった大坂の薬問屋・吉野家の当主が斡旋して描かれた。金地の作としては、ほぼ唯一の大作(香川県・琴平町の金刀比羅宮・奥書院にある『花丸図』は金砂子)。
DMA-P52-53-A襖六面 紙本金地着色 各177.2×92.2㎝ 江戸時代・ 天明8(1788)年 重要文化財 西福寺蔵

そもそも鹿苑寺といえば、金閣で御馴染みの足利将軍家縁の寺です。これほどの格を誇る寺であれば、当時の権力と結びつき隆盛を誇った土佐派や狩野派といったゼネコン絵画師集団に頼むのが常。ですが、相国寺の高僧・大典が見出した若冲という才能を評価した鹿苑寺の住職の英断によって、一介の町絵師が大抜擢されたのです。となれば、寺の意向に合わせて「いかにも豪奢な障壁画を」となりそうですが、ならないところが18世紀のアヴァンギャルド絵師、伊藤若冲の真骨頂。

葡萄や芭蕉、さらには鶴に鶏といったお得意の画題をあくまでも平面的に、しかも抑制の利いた水墨の筆致で侘び寂びとも異なる枯淡(こたん)の世界を創り出しました。若冲の才能もさることながら、それを支えることができた18世紀の京都文化の懐の深さに、若冲という巨人を生んだ土壌の豊さが感じられます。

伊藤若冲の作品を見られる展示・展覧会レポート

2019年の伊藤若冲展は「水墨画」の魅力爆発、福島でふたたび開催。

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