ヨガやセルフ・メディテーションについて、さまざまな活動を展開しているモデルのSHIHOさん。瞑想についての本を出版したことがきっかけで、いま、禅について学びを深めています。そこから自分なりの解釈を広げ、日々の行動から自分を変える「禅ライフ」を提唱したいと考えているそうです。詳しく伺いました。
比叡山延暦寺で得たヒント
——SHIHOさんは以前から瞑想やヨガについての著書も多く出されています。今回、禅について興味を持たれたのはどのようなことがきっかけだったのですか?
SHIHO 15年近く続けてきた瞑想について、私なりのメソッドをまとめた「NATURAL MEDITATION IN HAWAI」の中で“108瞑想”というオリジナルの瞑想法を以前につくりました。これは、私の故郷・滋賀県の世界遺産、比叡山延暦寺で108回目の除夜の鐘をつかせていただいたのがヒントになったんですね。
一昨年、108瞑想を含むいくつかの瞑想法を紹介した著作ができた際、本を持ってご住職にお礼のご挨拶に伺ったら、坐禅のお話になって、「比叡山は禅宗ではないけれども、禅には三つの宗派があり、坐禅法などもそれぞれ違いがあるのですよ」というお話を聞かせていただいたんです。
実は私は、瞑想については長く続けてきたけれど、禅宗や坐禅については詳しく存じ上げませんでした。なので、そのときにご住職さまから「お題」を頂いたような気がして、「もっと学びを深めたい」と思ったことがきっかけでした。
雪の永平寺で経験した坐禅
——さっそく行動に移されたんですか?
SHIHO はい。福井県の観光局のご紹介で、曹洞宗永平寺にお邪魔させていただきました。実はそれ以前にも一度、TV番組で永平寺には伺ったことがあったのですが、その時にお世話になった副貫首(副住職)さんが私のことを覚えていてくださって、偶然にも十数年ぶりに再会することができ、詳しくお話を聞かせていただきました。
やはり興味を持って臨んでいるかどうかってすごく大切で。以前に伺ったときとは全く違う感覚で心に入ってくるんですよね。前回は永平寺の歴史もよくわからないままだったように思うのですが、今回は開祖である道元さんについてよく調べてからお邪魔させていただいたせいか、お話を聞きながら自然と涙が溢れてきたんです。坐禅体験でも、それまでにないような集中力というか、永平寺という場所だからこその不思議な感覚がありました。
日本の主だった禅の宗派には、曹洞宗のほかに臨済宗と黄檗宗の2派がありますが、その後も、臨済宗については京都の建仁寺の両足院、妙心寺の春光院、そして東京・世田谷にある妙心寺派の龍雲寺、鎌倉の円覚寺、福井の大安禅寺に、黄檗宗については大本山萬福寺にお邪魔して、それぞれにお話を伺ったり、坐禅体験や修行をさせていただきました。特に臨済宗については、お寺によっていろいろな個性やスタイル、考え方、表現が、長い歴史の中で広がっていったことを知りました。
祖母の背中と信仰のかたち
——禅について学ぶ中で、どんなことを感じましたか。
SHIHO 特に永平寺では「厳しさ」をすごく感じましたね。私が訪ねた時は大雪の日で、山門や本堂は美しくありながらも軽々しさはなくて、早朝のお勤めでは、まだ真っ暗な時間からすごい人数のご住職の方々の五体投地の様子を見させていただいたのですが、これらをおよそ800年間も守り続けていることに、禅に対するストイックさが伝わってきました。
そのストイックさは、裏返せば、曹洞宗の開祖である道元さんが何を信じ、どのような姿勢で向き合ってきたのか、そしてインドで生まれたブッダという方が何を伝えようとしていたのかを、真剣に追い求め、純粋に守られているということであって、その真摯さに私は心を打たれたような気がします。
これは私個人のイメージなんですが、禅の歴史を学ぶと、「日本人とは何か」ということにすごく結びつく気がするんですね。
私の実家は禅宗ではありませんでしたが、一緒に暮らしていた祖父母が毎日神棚とお仏壇に手を合わせていたことを思い出すんです。そこには信仰心や謙虚さというか、畏れや畏怖のような感覚、農耕民族だったからこその自然への敬意や多神論的な考えにいたるまで、私たちが今ほとんど失いつつある何かがある気がします。
祖父母は、自分の信仰について詳しく語るようなことはしませんでしたが、特に曾祖母は「祈る」という行動を通して、「信じる」ということを伝えてくれた気がします。信仰とは行動であること。それは道元さんがおっしゃる「只管打坐」(一切の雑念を捨て去って、ただひたすら坐禅を組み、修行すること)にも通じる気がしています。
瞑想と禅の違いは
——これまで続けてこられたヨガや瞑想、メディテーションと、坐禅はどのような部分が違うのでしょう。
SHIHO 最近は道元さんが書かれたとされる『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』も少しずつ読んで勉強するようになったとはいえ、私が禅について語れることなんて本当になにもないんです。瞑想と坐禅については、曹洞宗の大本山永平寺の修行体験のときにお話を伺いましたが、坐禅の由来は、瞑想や静慮を意味するサンスクリット語の「dhyana」を漢字で表記した「禅那」の略だそうです。インドから始まった瞑想を通して、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いてブッダとなり、その後、達磨大師が中国に渡って坐禅を続けて伝えたものが禅宗となって日本に入ってきました。
瞑想を続けながら、そんな歴史の長い禅について学ぶ中で、何かの目的を持って坐るより、「ただ坐る」という行為の大切さを学んだ気がします。
以前、曹洞宗の大本山總持寺のご住職に「坐禅をしながら目指す悟りとは何か」と伺ったことがあるのですが、その時のお答えは「坐禅の姿そのものが『悟り』。あえていえば、『覚悟』。誰に何と言われても『私は坐禅で生きます』と、腹がくくれているかどうか」だと教えていただきました。
それを聞いたとき、自分の死と向き合い、坐禅を組んで悟りを開いたブッダや命をかけて正法を伝えた達磨大師、修行僧の方々が坐禅する姿が思い浮かびました。
私たちも、今、自分の生き方や決めたことに果たして本気なのか。覚悟ができているのか、腹をくくれているのか。どこかに逃げ道を作っていたり、言い訳があったりしてないだろうかって、問いかけられているような気がしました。そんなストイックさが坐禅にはあるような気がします。
行動によって自分は変えられる
——「禅の歴史を学ぶと、日本について考えたくなる」というお話がありました。
SHIHO 禅はインドから中国を経て日本に伝わったものではありますが、信心深さや真面目さ、繊細さ、突き詰めていく感じなど、日本人がとりわけ大切にしてきたものと合っているからこそ、今も大切に守り続けられているのだと思います。
私自身は、キリスト教や仏教、ヒンドゥー教、それぞれすごく良いと感じているのですが、禅は特に『正法眼蔵』で語られている思想、「身心脱落」のように、身も心も捨て去り、あるがままの全てを受け入れて仏のようになりきることが教えの真髄なのかも。「ただ坐る」ことでそれらが体験できるような気がしています。これまでの生き方の中で見直すべきところが見つかったり、生かすべきことがふと見えてきたり、悟りへのヒントが詰まっているのかもしれません。
「身心脱落」の視点からすると、それは自分自身にとって何かのメリットがあるからという目的ではなく、他人や周囲、または地域や国、地球のためという「利他の精神」へつながっていくことが禅という教えであり、日本の仏教の精神なのかもしれません。
「ただ坐る」という行動によって、人は変わることができる。行動がその人のあり方を決めるのだとすれば、行動によって自分は変わることができる。坐禅だけでなく、歩くこと、呼吸をすること、話すこと。普段気にも留めないそうした行動にもひとつずつ気を配ってみれば、自分を変化させるきっかけになるかもしれません。坐禅という経験を通して今そんなことを考えています。