透き通るような花弁の隙間からのぞく黄金色の花芯。匂い立つような薔薇の絵に誘われて、本当に蝶や蜂などの昆虫が蜜を吸いにやって来そうだ。しかし、それ以上に美しいのはこの絵を描いた男性だった。
彼の名前は野原櫻州(のはら おうしゅう)。明治から大正、昭和初期にかけて活躍した日本画家だ。櫻州が描く薔薇の花には蜂が止まると言われたが、彼もまた多くの女性を引き付ける男性的魅力にあふれていた。だが、その端正な外見とは裏腹に、芥川龍之介の『地獄変』を地で行くような狂気が潜んでいることに気づいた人はどれほどいただろうか。エロスと信じがたいエピソードに彩られたイケメン日本画家・野原櫻州47年の生涯に迫る。
勘当同然で故郷を離れ、東京美術学校へ
オレには侍の血が流れている
野原櫻州は明治19(1886)年、現在の岐阜県揖斐川町三輪(いびがわちょうみわ)で生まれた。本名は野原安司(のはら やすし)。ここでは櫻州の名前で統一させていただく。同町は濃尾平野の西北部。山を介して福井県、滋賀県と境を接している。実家は「江戸佐」と呼ばれた金物商を営んでおり、父の野原佐助は揖斐陣屋の領主・岡田家の家臣・古田喜平太の息子だったが、幼い頃に野原家の養子となった。櫻州には侍の血が流れていたのである。
日本画に目覚めた大垣中学時代
長男だった櫻州は実家を継ぐことを条件に、大垣中学(現・大垣北高校)に進学。大垣市内にあった田辺東洲(たなべ とうしゅう)という眼科医宅に下宿していた。東洲は日本画をたしなむ文化人だった。櫻州の研究家として知られる揖斐郡池田町在住の土川修平さんは、「櫻州は東洲の影響を受けて日本画家を志したのではないか」という。制作年代が確認できる櫻州の最も古い日本画「竹と犬の図」は、大垣中学時代、16歳の時に描かれたものだ。東洲に手ほどきを受けたのかもしれない。
オレは東京に行って絵描きになる! 家業を弟に譲り、勘当同然で上京
実家の金物商を継ぐはずだった櫻州が東京へ出られたのは、大垣中学時代に出会った竹中先生の親身な後押しがあったからだ。池田町に住んでいたという竹中先生は櫻州の絵の才能を見抜き、東京美術学校(現・東京芸術大学)への進学を勧めてくれたばかりか、池田町の素封家(そほうか:地方の財産家)たちに彼を紹介し、資金面での援助を受けられるようにとり計らってくれたという。
しかし、驚いたのは実家の両親たちだった。「中学を出たら家業を継ぐことが条件だったのに、まったく関係のない絵の勉強をしに東京美術学校に行きたいとは何事だ! そんなのは絶対に許さ~ん」というわけで、大反対。結局櫻州は家業を弟に譲り、勘当同然の状態で上京。帰省の際には池田町の支援家や友達の家に居候(いそうろう)していた。
東京美術学校を首席で卒業 薔薇を描き始める
明治37(1904)年、櫻州は上京し、日本画家・小林呉橋(こばやし ごきょう)の門をたたく。日本画の伝統である花鳥山水画を学び、翌年、東京美術学校日本画部に入学した。在学中は秋田県生まれで“放浪の画家”と呼ばれた寺崎広業(てらさき こうぎょう)に師事し、明治42(1909)年、首席で卒業した。櫻州はほかに「潜龍院東華(せんりゅういんとうか)」という号も用いているが、これは寺崎につけてもらったのではないかと土川さんはいう。
櫻州の長女・野原秀子さんの生前の談話によれば、薔薇の絵を描き始めたのは東京美術学校在学中だったようだ。師の寺崎から「自分で研究して独特の薔薇を描け」と言われ、工夫を重ね、独自の境地を開き“薔薇の櫻州”と呼ばれるまでになった。そのことについては後程詳しく述べるが、学生時代の彼が主に描いていたのは歴史画だった。
断末魔の愛人の姿を写し取ったとされる櫻州
櫻州を慕うあまり命を絶った女性・千代
卒業後も櫻州はしばらく東京にとどまり、寺崎の指導を受けていた。東京にも縁故ができ、そのまま東京画壇で活躍してもなんら不思議はなかったと思うのだが、なぜか明治44(1910)年には故郷に戻っている。後援者たちは喜んで彼を迎えた。ところが土川さんの大伯父にあたる河野大助(こうの だいすけ)翁は、「父から聞いた」と次のような話を残している。「櫻州は東京から一人の女性を伴ってきて、一緒に暮らし始めた。ところが櫻州がある岐阜の女性と親密になったため、東京から来た女性は思い余って揖斐川に身を投げて死んでしまった」と。
一方で櫻州の長女・野原秀子さんは、地元のタウン誌『西美濃わが街』第百八十四号の特集『野原櫻州』の中で、次のように述べている。
東京で修業して、初め稲葉神社の近くに所帯を持ったのね。芸妓やってた千代さんちゅう人といっしょらしかったの。その千代さんが喉を突いて自害してから、もう妻子は持たんゆってね…
河野大助翁の話に出てくる女性と、秀子さんがいう千代さんは同一人物ではないかと思われる。死因についてはどちらが本当だったのかよくわからないが、彼女は櫻州と一緒になれないことを悲観して自ら命を絶った。
千代さんは花街の女性で、櫻州の絵のモデルを務めるうちに親密になったようだ。『西美濃わが街』の同人だった山田賢二さんは、著作『歴史芸能回り舞台』(まつお出版)の中で、断末魔の恋人を目のあたりにした櫻州の様子を次のように書いている。
製作中だった櫻州は驚いて絵筆をくわえたまま駆け寄り援け起こそうとしたが、女は刃物で咽喉を掻き切っており、もはや手の施しようもなかった。彼女は鮮血にまみれた手を差し延べ、好きな人に抱かれて死ねる喜びを、とぎれとぎれではあったが、いまわの際に言葉に残した。“この妾(わたし)の姿を描いてください。わがまま云ってご免なさい……”家人を医者に走らせている間、櫻州は筆を取ったが手元に朱色がない。取りに行くのも面倒だとその場で自分の小指を傷つけ流れる血と彼女の血で筆を染めて、女人の断末を描き始めた。
鬼気迫る凄惨な場面がドラマのワンシーンのように浮かび上がるが、いささかでき過ぎた感がなくもない。山田さんが誰からこの話を聞いたのか、ニュースソースも不明で、絵の所在もわからず、真偽のほどは定かでない。しかし、女性の死が櫻州にとって、たいへん大きな悲しみをもたらしたことは間違いない。なぜなら、櫻州は明治43(1909)年、揖斐川町三輪の共同墓地に自らの墓を建てている。この時、彼は24歳。また結婚していなかったにもかかわらず、墓には次のような文字が刻まれている。
墓石の正面には「櫻州夫妻の墓」とあり、右側面には「明治四十三年九月建立 櫻州 野原安司 千代」とあり、左側面には戒名と俗名が刻まれているが、そこには「野原千代 野原安司 野原春子」の名がみえる。 土川修平さん 野原櫻州研究資料より抜粋
土川さんは「野原春子」は櫻州と千代さんの娘ではないかという。千代さんは櫻州の子を流産していたのではないかと…。櫻州が墓を建てたのは亡くなった千代さんと娘・春子を弔う意味もあったのではと思うが、墓を建てることでそれまでの自分を二人と一緒に葬ったような気がしてならない。千代さんの死によって、櫻州はそれまでの自分と決別したのである。
千代さんが亡くなった後、写生する櫻州の姿はまるで野山を渡り歩く修験者のようであったらしい。
草鞋(わらじ)がけで山のなかへ入り、首に数珠(じゅず)を下げて、しゃれこうべを書いた袈裟(けさ)をつけてね。そういう姿を見た人があるもんだから、櫻州、おかしくなったんちゃうかちゅう噂(うわさ)も出たらしいんですけど。それは千代さんを供養するのと、うんと有名になろうっちゅうね。薔薇のほうに精神を傾けたって、そういうことをある人から聞きました。 野原秀子さん談『西美濃わが街』第百八十四号
櫻州が描いた幽霊の絵「黒書美人の図」は何を物語るのか
土川さん宅には櫻州が墨一色で濃淡をつけながら描いた「黒書美人の図」という掛け軸がある。櫻州はこれを「幽霊の絵だ」と言っていたという。このほかにもう一幅、山田賢二さん所有のものがあるらしいが、現在、所在不明である。丸髷姿の女性は花柳界の人物とも見える。亡き千代さんの面影を追ったのだろうか。
櫻州にとっての薔薇は女性そのものだった
「父にどうして薔薇ばっかり描くのちゅったら、きれいで棘(とげ)があるから。女はきれいでも棘がないとだめだよっていってました。女の人でも、人にいえんような過去とか、葛藤とか、いろんな人生があるでしょ。単なるきれいでは人形と同じだって。薔薇はきれいだから棘があるちゅうの」野原秀子さん談 『西美濃わが街』第百八十四号
櫻州が本格的に薔薇を描き出したのは揖斐川に戻ってからである。ただ描くだけでなく、庭に薔薇を植えて観察した。後に京都に移ってからは庭を半分薔薇園にして植物園で働いていた夫婦を雇い、薔薇の世話をさせていたという。櫻州にとっての薔薇は女性そのものだったのだろう。
薔薇の描き方や手法、色づかい、レイアウトは描き出したころから死ぬまで、常に変化している。
画室には赤い毛氈(もうせん)を引き、櫻州はその上で薔薇を描いたという。
薔薇は筆で画かないの、全部刷毛(はけ)。一センチ二ミリぐらいの刷毛でふくらすわけね。葉っぱから全部、それが独特。ここまでするのに、どれくらいの信念、どれくらい壮烈なものが入っているか、私しかわからない。 野原秀子さん談 『西美濃わが街』第百八十四号
櫻州が使った刷毛がどんなものであったかわからないが、トールペイントで使う平筆のようなものではなかったかと想像する。トールペイントとは15世紀後半にヨーロッパで起こったとされるフォークアートで、いろいろな手法があるが、花を描く場合、平筆を使ったストロークと呼ばれる一筆書きのようなテクニックを使うことが多い。ベタ塗りするのではなく、ストロークによってシェイド(影)やハイライト、グラデーションをつけるのである。しかし、これを完璧にマスターするのは至難の業だ。櫻州は苦心惨憺(くしんさんたん)するうちに、極細の刷毛を使って描く自分なりのストロークを編み出したのではないだろうか。まさに命を削って薔薇を描いたのだ。
櫻州の薔薇のモチーフは大正12(1923)年ごろまでに完成したといわれている。彼の描く薔薇には蜂が止まると言われた。薔薇にもいろいろな種類があるが、特に蔓(つる)の絡んだ野薔薇は絶品と評されている。櫻州のこだわりは薔薇の絵だけに留まらなかった。黄色い薔薇を描いた時は「晩秋」、赤い薔薇を描いた時には「陽春」と、薔薇の咲く季節によって箱書きも変えたという。
櫻州、結婚。岐阜から京都へ
大正5年、「醍醐の花見」で文展に入選する
やがて櫻州は揖斐川から岐阜に居を移し、大正4(1915)年、地元の代議士の妹・小琴(こきん 別名・八重子)と結婚。同6年には長女の秀子さんが誕生する。
また、同5(1916)年には豊臣秀吉が最晩年に約1300人もの人々を招いて催した「醍醐の花見」を六曲金屏風に描いて、文展(文部省美術展覧会)に入選。制作に1年3ヵ月を費やした大作だった。これを祝し、岐阜公園にある伝統料亭「萬松館(ばんしょうかん)」で県知事や市長など約150名が列席し、大宴会が開かれた。この時櫻州は30歳。美男でオシャレで気さく。そのうえ遊び方もスマートで誰からも愛されていた。政治が大好きで、市役所や県庁に出かけて政治を語ることもしばしばだったという。交遊の広さがうかがえるエピソードだ。
京都へ行ってもモテモテ。櫻州ファンクラブが早々に結成
しかし、同8(1919)年には住み慣れた岐阜を後に、妻子を連れて新天地・京都へ移住。京都画壇の橋本関雪(はしもと かんせつ)らと親交を結ぶ。銀閣寺の近くに居を構え、制作活動にいっそう力を入れるようになった。櫻州が京都に移ってまもなく、関西の有力実業家たちによる後援会「櫻州会」なるものが結成されている。
同11(1922)年には帝展(帝国美術展覧会)に名鵜と言われた彦丸をモデルにした「鵜の図」が入選。その名声はますます高まった。京都移住以後も岐阜とは親密な関係を保ち、たびたび大規模な画会を催すなどしており、47年の生涯で約2400点の作品を残した。
同15(1926)年には真如堂の近くに瀟洒(しょうしゃ)な大邸宅を新築。1階には9室、2階は40畳のアトリエがあり、親友の橋本関雪や竹内栖鳳(たけうち せいほう)、娘秀子の絵の師匠でもあった上村松園(うえむら しょうえん)ほか、政財界の大物や軍人、僧侶なども来訪した。
娘の背中にボタンの刺青?! 妻は大反対してハンスト
櫻州が武士の血筋であることは前に書いたが、その血の中には侠気も潜んでいたようだ。彼には秀子、京子という2人の娘があったが、長女の秀子さんは野原家の後継者ということで、目の中に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。しかし、しつけも大変厳しかったという。後継ぎとして恥ずかしくないようにとの配慮だったのだろう。
さて、その秀子さんが13歳になった時、櫻州は大変なことを言い出した。秀子さんの背中に大きなボタンの入れ墨を彫ると言い出したのだ。それは「おしろい彫り」と呼ばれるもので、あえて朱を入れず、入れ墨を施された本人がお酒を飲むと肌にほんのりと赤みが差して牡丹の花が浮かび上がるというものだった。
しかし、妻の小琴は大反対。「大事な娘に刺青なんてとんでもない!」しかし、櫻州は妻の懇願に全く耳を貸さない。とうとう小琴はハンストに打って出た。蔵の中に閉じこもって運ばれる食事も水以外は手を付けない。一週間経って、さすがに気になった櫻州が蔵へ行ってみると、瘦せ衰えた妻が息も絶え絶えに横たわっていた。
ところがこれが絵描きとしての櫻州の魂に火をつけた。絵筆と画帖を取りに行き、瀕死の妻の様子をスケッチし始めたのである。
この絵が現存しているかどうかは不明だが、山田賢二さんは「白根元兵庫県知事の手元にあるそうな」と書き残している。とにもかくにも、小琴は命拾いをし、秀子さんも刺青を施されることはなかった。
病気になった妻をお姫様だっこして医者に走った櫻州
絵に夢中になると何も目に入らなくなってしまう櫻州だったが、情愛は細やかで、特に妻・小琴に対する愛情は並々ならぬものがあった。ある時、妻の小琴が急性肺炎で倒れると、横抱きにして医者へ走ったという。
丸髷の根が落ちて、紫の鹿(か)の子がヒラヒラしてるの。それを抱えてね。まるでお芝居みたい。医者はすぐ近くにあったの。「今日中になおせ。今日中になおせ。(治らなかったら)お前んとこ一生、藪医者って烙印押してやる」ちゅうて。それくらい大切やったね。 野原秀子さん談 『西美濃わが街』第百八十四号
訪問者には薔薇の絵をお土産に でも、気が向かない人には頼まれても描かない
訪問者には十分なもてなしをして、お土産には薔薇の軸を持たせるのが常だった。しかし、気が向かない人間には何度頼まれても絶対に描かなかった。
ある時、家族と食事をしていたところへ、その人がやってきた。取り次ぎの人間が対応したが、櫻州はまったく会おうとせず、しまいに相手に聞こえるのも構わず、大きな声で「いないと云え」と怒鳴った。驚いて相手が「先生、いるのですか?」と聞き返すと、櫻州は「本人がいないと云ってるのだから、いないと云えばいない」とものすごい剣幕で言い返した。相手は恐れをなして、いなくなってしまったという。
一に刀剣、二に政治、三が絵かきの野原櫻州
これは櫻州が岐阜にいた頃、彼を知る者の間でささやかれていた言葉である。実は櫻州は無類の刀剣好きで、「十剣斎」「無剣斎」という雅号を持っており、常に3、40振りほどの刀剣を所有していた。中でも「津田越前守助広(つだえちぜんのかみすけひろ)」や「水心子正秀(すいしんしまさひで)」、「長曽祢虎徹(ながそねこてつ)」などが自慢のコレクションであったという。刀の鑑定士としても有名で、時にそれは本業をしのぐほどだった。
櫻州の刀剣をめぐるエピソードをいくつか紹介しよう。
櫻州はたんなる刀剣コレクターではなかった。柔剣道や相撲などの大会が岐阜で行われると、優勝者に秘蔵の刀をプレゼントしたり、国際親善だといって、各務原陸軍飛行場で飛行機の操縦を教えていたフランス軍将校に刀を贈ることもあった。この将校は後に櫻州が岐阜を離れる際、刀のお礼にとフランス製の豪華なクリスタルグラスの鉢をはなむけに贈り、送別会にも出席している。
また京都に邸宅を建てた後は、中山伯道という人物について剣道を習い、寒稽古も行ったという。全国剣道大会が京都の岡崎で開催されるたび、櫻州の邸宅は岐阜県出身の剣士たちの宿泊所となり、食事や送迎の世話をするなどして支援した。
櫻州が特に大切にしていた「福岡一文字」と呼ばれる名刀があった。これには木曽義仲が所持していたとの伝承があったが、そのことを隠して当時、千里眼や透視術で名の知られた三田光一(みた こういち)という人物に鑑定してもらった。すると三田はじっと刀を見つめ、この刀は琵琶湖畔で義仲が討ち死にした時に持っていたものであると証言。これを聞いて喜んだ櫻州は、自宅で二日間にわたり、義仲の慰霊祭を執り行った。ずいぶんオカルトティックな話だが、この「福岡一文字」については後の調査で、三田の証言が事実であることが証明されたという。
描きそこなった絵は一刀両断にしてしまうこともあった。大正6(1917)年、文展に出すために六双金屏風に絵を描いていたが、腕に怪我をして続きが描けなくなってしまった。すると櫻州は愛刀を持ち出し、その絵をズタズタに切り裂いてしまった。
櫻州の死 だが、薔薇は枯れることなく咲き続ける
昭和8(1974)年2月28日、野原櫻州は胃がんのため、享年47で亡くなった。早すぎる死を悼み、生前交流のあった各界の人々約600人が参列。混雑を防ぐために警官まで出動するほどだったという。
この軸は牡丹の花を描いたもの。タッチが以前の作品とはまったく違う。最晩年の作。死の床で気力をふり絞って描いたのだろう。
若くして亡くなった美貌の画家は故郷の岐阜に多くの作品を残している。「揖斐川歴史民俗資料館」では平成7(1995)年に、町制40周年記念特別展として「薔薇と武者絵にみる野原櫻州の世界展」を開催した。櫻州は亡くなったが、その命は彼が描いた薔薇と共にこれからも咲き続ける。
〔取材・撮影協力・資料提供〕
土川修平さん
「揖斐川歴史民俗資料館」岐阜県揖斐川町上南方901-5 TEL:0585-22-5373
〔参考文献〕
『郷土に輝く画家 三人展 窪田喜作・野原櫻州・間下米次郎』揖斐川町・揖斐川町教育委員会
『西美濃わが街』第184号 西美濃わが街発行(現在は休刊)
『歴史芸能回り舞台』山田賢二著(まつお出版)
『青年時代の野原桜州』道下淳著 『わが子の歩み』1992年9月秋冬号
『ぎふ快人伝 野原櫻州』岐阜新聞2010年10月17日
『野原櫻州の新聞記事綴』(記事:大正5年∼昭和8年)