あなたのお住まいに、床の間はありますか? ご自宅に床の間がなくても、旅館に泊まったりして掛け軸や壺が飾ってある床の間を見ると「日本の伝統、いいなあ」などと思う方もいるだろう。しかし、じつは大正デモクラシーの時代、床の間を激しく批判するガチ勢がいたらしい。なぜだ? 日本画に詳しい、泉屋博古館東京(せんおくはくこかんとうきょう)の主任学芸員・椎野晃史さんに聞いてみた。
尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる現代ユニット「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。「給湯流」と表記させていただく。
江戸時代、町人の家に床の間をつくるのは禁止されていた?
江戸時代、銅山の経営や銅の精錬で財を成した住友家。そんな住友家が集めた東洋美術のお宝を展示する泉屋博古館東京。現在は「『床の間芸術』を考える」というテーマで展覧会(※1)を行っている。筆者はここで衝撃の説明文を見つけてしまった……。「江戸時代(略)、町人が床の間を設けることは禁じられていました」と書いてある。
給湯流茶道(以下、給湯流):江戸時代、町人は床の間を家の中に作るのが、NGだったのですか?
椎野晃史(以下、椎野):はい。江戸の下町の長屋などに住む人は、床の間を作るのが禁止されていました。
給湯流:江戸幕府が贅沢するなと、庶民の着物の色も指定した時期があったと聞いたことはありました。しかし家の中にまで幕府が口を出していたのですか! 床の間が禁止とは驚きです。
椎野:明治時代になると、一般家庭でも床の間が解禁になりました。
給湯流:「やった! 我が家にも床の間が作れる」と庶民は大喜びしたのでしょうか?
椎野:資料はほとんど残っておらず、一般家庭の床の間事情はよくわからないのです。しかし建築史の研究によると昭和時代には、労働者階級の人々の生活環境の改善のひとつとして「床の間」の設置が希望されたようです。
給湯流:1950年代、洗濯機や冷蔵庫、白黒テレビが「三種の神器」と言われ国民が欲しがった時がありました。床の間も、庶民が憧れるステイタスだった時期があったのですね。
※1:2023年12月17日まで開催中「日本画の棲み家」展
大正時代、新進気鋭の日本画家が床の間をディスった?
明治維新、誰でも自由に床の間を作れるようになり、ハッピー……と思いきや、そこから40年もたつと「床の間」に悲劇が訪れる。「床の間は不自然、見苦しい、不満だ!」と激高する日本画家が現れたのだ。なぜ、床の間がそんなに嫌いなの? さらに椎野さんに聞いてみよう。
椎野:床の間が世間に広がると「お正月は、めでたい松の絵を掛けなきゃ」など決まりきった日本画を掛けるしきたりが、できてしまったのです。
給湯流:今もそういうの、日本だとよくありますよね。たとえば茶道だと「茶会では、こういう着物を着なさい!」と「着物警察」と呼ばれる人が圧力をかけてきたり……。
椎野:大正時代、「床の間芸術」という言葉ができました。前近代的、古臭いしきたりに凝り固まった、庶民の床の間を飾る日本画を批判したのです。石井林響(いしいりんきょう)という新進気鋭の日本画家が答えたインタビューが記録で残っています。一部ご紹介しますね。
「私はさしあたり床の間に対しての不満を一番強く感じる。(中略)足利以来墨の間と云へば必ず墨絵の山水、茶かけ、金物の玉取獅子、青磁の香炉、或いは何々流と云って不自然な生花を飾り立て、それを厳重な形式にして尊んで来た習慣が私にはのろわしい。」
石井林響「床の間を芸術の陳列場にしたい」1924年3月17日「読売新聞」
給湯流:林響、とても怒っていますね。床の間は厳重な形式があって「呪わしい」と。室町時代からの”しきたり”に不満が爆発しています。
椎野:林響は当時の現代作家。床の間のしきたりから脱却して新しい表現をしたかったのでしょう。インタビューの最後に「新時代の要求を考えて、そこ(床の間)は最も自由な芸術鑑賞の壁面であってほしい」と答えています。
給湯流:林響がインタビューに答えた1924年は、大正デモクラシーの後期ですね。時代の空気もあったのでしょうか。
椎野:直接の要因かどうかは定かではないです。でも、少なからず影響はあったかもしれません。
昭和になると床の間リスペクトが復活? 巨大化・ド派手になった日本画を批判
椎野:床の間が批判された歴史をみてきました。しかしじつは明治維新以降、ずっと賛成派と反対派の間で揺れ動いていたのですよ。そして昭和になると、日本画の大御所・竹内栖鳳(たけうちせいほう)が「床の間芸術」は良い、といい始めます。
給湯流:さんざんディスられた床の間が再びリスペクトされるとは! カオスですね。
椎野:竹内栖鳳は当時すでに、国が実施する展覧会の審査員をする日本画の重鎮でした。彼が「床の間芸術」を見直そうといった背景には、「展覧会芸術」の問題があったのです。
給湯流:「展覧会芸術」? それは何ですか?
椎野:江戸時代まで「芸術品」は家の中で鑑賞するものでした。たとえば床の間に掛け軸を飾ったり、絵が描かれた屏風で部屋をしきったり、ふすまに画家が絵を描いたり。しかし明治以降、西洋の展覧会制度を日本は取り入れた。美術館で芸術を見ることが広まったのです。
給湯流:芸術作品を展覧会で見る、は今では当たり前です。しかし日本は、家の中で芸術を鑑賞する長い歴史があった。だから昭和初期に「床の間芸術」をわざわざ再評価したのですね。
椎野:栖鳳本人も展覧会で数々の受賞をし、日本画界で活躍しました。しかし自分が展覧会の審査員をやる側になって、気づいたことがあった。「日本画壇が展覧会を強く意識しすぎて、大作、濃彩、技巧、誇張が高じていた」と栖鳳が、警笛を鳴らします。
給湯流:なるほど。大きくてギラギラした作品は、家の中に飾ったら疲れそうです。
椎野:刺激的な作品のほうが展覧会で目立ちます。また、当時の展覧会は作品サイズの規定があったのですが、規定ギリギリまで大きく描いたほうが受賞しやすかったのです。
給湯流:展覧会で勝つための巨大な日本画だらけになり、栖鳳は嫌気がさしたのですね。
椎野:東洋画は「日本家屋における静かな鑑賞のためにその生命を生きる絵画」だと栖鳳は語りました。(※2)
給湯流:巨大でド派手な「展覧会芸術」へのアンチテーゼとして、栖鳳はどんな作品を世に出したのでしょう?
椎野:残念ながら今は所在が不明なのですが、こんな作品を出しました。やたらと遠近法を使うのではなく平面的。派手な色を使うのではなく、淡彩で筆遣いに注力しています。ちなみにこの作品、当時の展覧会ではとても小さいサイズでした。逆に目立ったと思います。
給湯流:淡泊でいいですねえ。床の間に飾って、のんびりお茶でもすすりたい気分になってきました。
椎野:明治から昭和にかけて「床の間芸術」論争は常に盛り上がり、新聞や雑誌をにぎわせていました。それらの記事は、今読んでもとても面白いです。
給湯流:知られざる床の間バトル! 興味深いお話をありがとうございました。
アイキャッチは住友家が大正時代に好んで注文した当時の売れっ子作家・木島櫻谷。世間が「床の間芸術」でバトルをしている間も、住友家は迷うことなく自邸に合う日本画を蒐集していた。
木島櫻谷《震威八荒図》大正5年(1916) /泉屋博古館東京/「日本画の棲み家」展で展示中。
※2:1930年『現代日本画壇 京都版』
泉屋博古館東京
日本画の棲み家-「床の間芸術を考える」―展
開催期間:2023年11月2日(木)〜2023年12月17日(日)
明治時代における西洋文化の到来は、絵画を鑑賞する場に地殻変動をもたらしました。特に展覧会制度の導入は、床の間や座敷を「棲み家」とした日本絵画を展覧会場へと住み替えさせました。本展は、かつて住友の邸宅を飾った日本画を展観し、今日その姿を消しつつある日本画の「棲み家」に光を当てることで、床の間や座敷を飾る日本画の魅力とその行方を館蔵品から紹介するものです。
https://sen-oku.or.jp/program/20231102_thehabitatsofnihonga/
【抽選で5組10名様にチケットをプレゼント】うるしとともに― くらしのなかの漆芸美
「うるしとともに― くらしのなかの漆芸美」のチケットを、5組10名様にプレゼントいたします。
開催期間:2024年1月20日(土)〜2024年2月25日(日)
本展では、住友コレクションの漆芸品の数々を、用いられてきたシーンごとにひもとき、漆芸品を見るたのしみ、使うよろこびについてもう一度考えたいと思います。また同時開催として、漆芸品と同じく私たちのくらしを彩ってきた陶磁器のなかから、近年当館へご寄贈いただいた瀬川コレクションの染付大皿を受贈後初めて公開します。
https://sen-oku.or.jp/program/20240120_lifewithurushi/
応募方法
「小学館ID」と「茶炉音(サロン)・ド・和樂」にご登録の上、以下応募フォームよりご応募ください。
締め切り
2024年1月5日(金)
発表
応募者多数の場合は抽選といたします。当選者には直接ご連絡を差し上げ、発表に代えさせていただきます。電話などでの問い合わせには応じられませんので、ご了承ください。
「茶炉音(サロン)・ド・和樂」とは?
『和樂web』は『和樂』と連動し、「和」の魅力を伝えるべく、ユニークでわかりやすい記事を発信中です。そんな中、この春誕生したのが『和樂』と『和樂web』の読者&ユーザー様限定の会員組織、「茶炉音(サロン)・ド・和樂」です。会員様限定の特典やイベント、プレゼントをご用意していますので、ぜひお気軽にご登録ください。