個人的なことで恐縮ですが、私の名前には、「瓦」という漢字が入っています。結婚して瓦谷という名字になり、それまでは特に気にとめていなかった瓦という文字が、身近になりました。瓦せんべいを見れば、つい買ってしまう。瓦が入った名字の人がいると、注目してしまうなどなど……。
今回の滋賀県の取材で、そんな私にとって外せない場所がありました! それは、『かわらミュージアム』です。ご先祖様に導かれるようにして、この場所を訪れました。瓦谷の名字の由来は、瓦職人や、瓦に関わる仕事をしていたから? とも聞いているので、興味津々!
入り口で出迎えてくれるだるま窯
かわらミュージアムは琵琶湖線「近江八幡」駅を下車し、駅北側バス停より近江鉄道バスに乗車。「大杉町八幡山ロープウェイ口」バス停を下車して、徒歩約3分の場所にあります。風情のある建物が残る住宅地の中にあり、ほっとくつろげる雰囲気です。
入り口近くに、巨大な窯が設置されていました。「だるまさん」が座っている姿に似ているので、だるま窯と呼ぶそうです。昭和30年代ごろまで、この地で瓦を焼く窯として使われていた形を再現しています。
建物や、通路に遊び心がいっぱい
通路を通って敷地内に入ると、白い壁のシックな佇まいの建物が。かわらミュージアムは、建物全体が展示物のようです。10棟からなる建物には、2万4000枚もの屋根瓦が葺(ふ)かれています。そして、驚くことに周囲の町なみの景観と合わせるために、全ての瓦の表面のいぶし※を金ブラシで削り落として、古く見せているのだとか! ひえ~!
あれ、屋根に何か付いてる? あっ! 花咲かじいさんですね! 他にも昔話の主人公たちが、屋根にほどこされていて、とても楽しいです。ここを訪れたら、是非探して下さい。
足元の通路を見ると、瓦が埋め込んでありました。きちんと装飾として埋められているので、まるでアート作品のようです。
琵琶湖が生んだ八幡瓦
愛着があると言いつつ、瓦についてほとんど知らない私。かつては日本各地に瓦製造所があり、地元産の瓦がありました。この近江八幡では、「八幡瓦」が作られて繁栄したそうです。八幡瓦とは、一体どういうものなのでしょう? 館長の中島稔さんに、お話を聞きました。「元禄16(1703)年に、本願寺八幡別院の屋根葺き工事のため、屋根瓦が大量に焼成されたことが記録として残っています。これが、八幡瓦の始まりとされています」
瓦に使用される琵琶湖の藻が含まれた「古琵琶湖層」という地層は良質で、優れた瓦を生み出しました。植物の繊維を含んだ粘土層を焼くと、不思議なことに耐寒性や適度な吸水性を持つ瓦に。まさに琵琶湖の恵みから、八幡瓦は誕生したと言えます。焼成する最後に、松葉などを投入していぶして色づかせる、渋い「いぶし銀」なのも特徴です。
豊臣秀次が築城した八幡山城と深い関係が?
八幡瓦の歴史をひもとく上で欠かせない人物、それは、豊臣秀吉の甥の豊臣秀次です。秀吉の後継者として手腕を発揮していましたが、最期は高野山へ追放されて、切腹を命じられてしまいます。秀吉と側室の淀殿との間に秀頼が誕生して、関係が悪化したのが原因というのが、有力な説です。
動揺した秀次が乱心し、粗暴な行いが目に余ったからという説もありますが、近年では周囲の陰謀で、誤った噂を流されたのではと言われています。多才な人物で、剣術と共に学問や文芸も好んだようです。
「秀次が八幡山城を築城した時に、堀が作られてこれを利用して、瓦の粘土を運搬したり、焼いた瓦を運搬して製造が栄えました。近江八幡の元を作った秀次を、地元では変わらずに敬っています。法要も続けていますね」。天正13(1585)年、18歳だった秀次は、八幡山を居城として城下をひらきました。八幡瓦の始まりの場所とされる、本願寺八幡別院は、秀次が安土城の城下町から移転させた寺院です。
秀次の居住跡から出土した金箔瓦や軒丸瓦(のきまるがわら)※が、館内で展示されています。八幡山城築城の時に、瓦が使用されたようですが、それが地元の八幡瓦だったのかどうかは、現在はわからないそうです。可能性としてはあったのかも? と考えると楽しいですね。
かわらミュージアムのすぐ横に堀があるので、これを利用して、瓦が運ばれたのかと、思いをはせることができます。
八幡堀めぐりの記事は、こちらからどうぞ!
江戸時代から昭和にかけて栄えた瓦工場
「このミュージアムは、寺本家の瓦工場の跡地にできたんですよ」と、ミニチュアを見ながら中島さんが説明して下さいました。寺本家は、江戸時代中期・元禄年間の創業で、「八幡瓦」の創始者と言われています。本願寺八幡別院の瓦工事を請け負ってから、この場所で作り続けました。
「八幡瓦は寒さに強い特性があるので、船を使って北海道まで運んだこともあったようです」。質の良さと、いぶし銀と呼ばれる美しさが好まれて、地元だけでなく、他の地域からも注文が多く繁栄したようです。
寺本家は、江戸時代以降も長く八幡瓦製造の中心であり続け、昭和42(1967)年には、月産7000枚あまり、年間7万から10万枚の生産を、この地で行いました。
昭和30年頃には、周囲に30軒ほどあった瓦工場も今は無く、残念ながら八幡瓦の製造は行われていません。平成7(1995)年、近江八幡市が、八幡瓦の技術や知恵を後世に伝える目的で、かわらミュージアムを建設しました。
超絶技巧の数々に、ビックリ!!
展示品の多くは寺本家に代々受け継がれてきた、江戸時代の貴重なものばかりです。瓦葺きの屋根の端などに設置される、装飾性のある鬼瓦の見事さには、驚かされました。厄除けの目的もあったので、鬼の顔がほどこされていますが、どことなく愛嬌も感じます。
鶴と家紋が模様になった、おめでたい印象の鬼瓦も。
人気力士の取り組みをデザイン化した珍しい鬼瓦もありました。躍動感があって、引き込まれますね。
疫病神を追い払う!天才職人の鍾馗(しょうき)に驚愕!
元瓦職人の前田秀雄さんは、江戸時代から代々続く瓦職人の家で生まれました。現在はかわらミュージアムの体験工房で、ワークショップの講師を務めたり、瓦粘土でグッズ製造を行ったりしています。
「瓦職人は、手取り足取りは教えてもらえません。修行中は、自分の目で見て覚えましたね。先輩の技術を覚えようと思っても、さっと隠されたりする。だから、後は自分で試行錯誤して工夫するんです」
今では作ることができないと思われる、びっくりするような先人の瓦を見せてもらいました。寺本家で代々受け継がれた名前「寺本仁兵衛」五代目による鍾馗文鬼瓦(しょうきもんおにがわら)です。
鍾馗とは中国で疫病神を追い払う神のことで、関西地方を中心に、家の守り神として屋根に飾られてきた歴史があります。コロナ禍で苦しむ現代人と同じく、当時も邪気を追い払いたいと願ったのだなと、共感しました。
「この傘を持った鍾馗さんは、とても珍しいです。おそらく、日本で一番古い鍾馗さんの鬼瓦ではと言われています」。最初に設計となる絵を描いて、焼いた時の縮むことも計算して、形作るのだとか。「足元の波は、見る角度が違っても、波がうねっているように作られてます。中々こんな風にはできません。天才ですね」。構図の素晴らしさといい、もう芸術作品の域です。江戸時代の職人のクオリティの高さに、ただただ、驚くばかりです。
まさに技術のバトル?こんな作品も!
「当時の職人たちは、お互いに切磋琢磨して、技術を磨いたのだと思いますね」と、前田さん。腕自慢が目的で、採算度外視の、凝った瓦もたくさん見受けられます。これは、面白い! 桃から誕生した桃太郎を表現しています。
「瓦の仕事がない冬場の時期は、腕が落ちないようにと、彩色をほどこした瓦人形を作っていたようです」。着物の模様に、瓦用の押し型が使われています。本業の余技として人形を作る、当時の瓦職人の心の豊かさを感じます。素朴で愛らしい人形に、ほっこりした気分になりました。
グッズやワークショップで、八幡瓦の技を体感
かわらミュージアムでは、体験工房で、瓦粘土の作品作りが楽しめます。簡単な型押しで、鬼瓦や動物の作品ができるので、子どもから大人まで人気です。根付けなど、グッズも販売しているので、お土産にすると、八幡瓦が身近に感じられそうです。
やー、瓦って奥が深い! 瓦の魅力を再認識しました。かわらミュージアム周辺は、八幡瓦が葺かれた古い町並みが残っているので、その景色も堪能できます。近江八幡を訪れたら、是非ここへ立ち寄って、瓦に触れてみて下さい。
かわらミュージアム
住所:滋賀県近江八幡市多賀町738番地の2
開館時間:9時~17時(入館は16時半まで)
入館料:一般300円、小・中学生200円
休館日:月曜日(祝日の場合は開館)・祝日の翌日・年末年始