「お前はまだグンマを知らない」「翔んで埼玉」。
このところ、1つの都道府県を取り上げたアニメや映画が大ヒット。なるほど。こうでもしないと、なかなか全国に知られにくいのかと改めて実感した。
じつは、コレ。どの都道府県にも当てはまる話。その上、驚くことに、地元民だって全てを知り尽くしているワケではない。我が故郷、都といえば「京都ですがな」と鼻を膨らませて自慢する私。そんな生粋の京女でも、愛すべき京都について、つい最近まで知らなかったことが。
それは、かつて京都に大仏があったという事実。
それも、奈良の大仏を超えるほどの超ビッグな大仏様。もちろん、作ったのは栄華自慢しいの太閤・豊臣秀吉である。
しかし、この大仏様。何の因果か、惨憺たる結末を迎えることに。地震に火災。挙句の果てには暴言を吐かれ、違うお寺のご本尊に取って代わられる珍事に発展。同じタイミングで、豊臣秀吉が病に臥したこともあり、当時の京都では、ある風説が囁かれたという。
「仏像遷座の祟り」じゃないんかえ。
今回は、そんな噂の渦中にある、幻の「京都大仏」をご紹介。
秀吉の死の真相は、さていかに?
天下取りフライング気味?の京都大仏
豊臣秀吉の命で、京都大仏の造立が決まったのは、天正14(1586)年4月。
しかし、厳密にいうならば、当時の秀吉は天下取り半ばの状態。全国の大名を、未だ支配下に置いていなかったのである。辛うじて、前年に関白就任を果たしたが、太政大臣のイスはもっと先。同年12月のことであった。
そもそも、天下取り目前で、織田信長が「本能寺の変」で自刃したのは天正10(1582)年6月。まだ、たった4年しか過ぎていないのだ。それでも、秀吉が全国制覇の足掛かりを掴むスピードはさすが。
信長の弔い合戦で明智光秀を討ち、続く「小牧・長久手の戦い」では、織田信長の二男・信雄(のぶかつ)と徳川家康の連合軍と戦って和睦。その後、秀吉は中国の毛利氏、九州の大友氏を従えて、四国の征伐に成功。天正13(1585)年7月に、晴れて関白となったのである。
天正14(1586)年9月に正親町(おおぎまち)天皇より豊臣姓を賜り、その12月、太政大臣に就任。残るは、九州の島津氏、奥州(東北地方)、そして小田原の北条氏の制圧という状況であった。
そんな天下取り真っ最中に、秀吉は京都大仏の造立を決定する。
来日していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスが記録した『日本史』。その中に、大仏造立についての記述がある。
「元来、関白は、自らの名声を誇示し記念するのに役立つような大事業を起す機会を見逃すような性格ではなかったので、同寺院を再建することを決意した。しかも基礎から新たに立て直すことに決め、奈良においてではなく、都の市(まち)の傍(南六波羅)に、寺院も偶像も僧院の建築物も、形態と規模において最初のもの(奈良の大仏殿)に匹敵するものを造れと命令した」
(ルイス・フロイス著『完訳フロイス日本史5』より一部抜粋)
一方で、豊臣秀吉の生涯を描いた軍記物・『太閤記』には、洛中洛外の賑わいを願って造られたとされている。
表向き、裏向き、どちらの理由があったにせよ。関白の威光を世に示し、豊臣一族の繁栄を願う意図があったのは事実。しかし、それが豊臣家没落の始まりとは思いもしなかったのである。
豊臣秀吉が放った無茶ぶりな命令
こうして大仏造立を決定はしたが、実際に工事に入ったのは、もっと先。天正16(1588)年頃といわれている。
さて、豊臣秀吉の大仏造立の命令の中で、見過ごせないものがある。
それが「工期」である。
どうやら、秀吉は5年を工期として提示していたというのだ。石田三成はじめ五奉行に対し、完成期限に間に合わせるように工夫せよと申し渡したという。早速、前田玄以(げんい)を大奉行にし、奈良の大仏師である宗貞(そうてい)や大仏棟梁の大工らが招集された。
まず、材木の供出から。土佐、九州、木曽、熊野等が候補にあがって選定された。また、棟木については、富士山麓の材木を使用。搬出を命じられたのは徳川家康。船で熊野を経由、なんと、たった1本の搬出に5万人、黄金千両を費やしたのだとか。
それだけではない。これまた、大仏が鎮座する大仏殿など、その石垣作りも半端ない。巨石の切り出しに労力が集中。毎日5,000人を使って、その作業日数は2,000日。オリンピック会場なんて、なんのその。当時の理不尽な命令で、21国、さらに北国勢まで人員が駆り出される始末。
工事総監督は、高野山の大伽藍を建立した経験のある木食応其(もくじきおうご)。これまでにも様々な寺社の建立、ため池などの整備に携わり、工事の指揮に定評がある人物だ。その上、高野山を擁する紀州には多くの優良な材木があり、調達も可能。さらに、木食応其は根来(ねごろ、和歌山県)や奈良に多くの大工集団を抱え、高野聖(こうやひじり)を動員できたこともポイントであった。
ただ、問題がなかったわけではない。
第一に、大仏の造立の方法が工期のために変更。当初は大仏の鋳造も検討されたが、到底間に合わず。木像に漆喰(しっくい)塗りで完成させることに決定した。
第二に、土地の選定にも時間がかかった。東福寺周辺で調整されていたが、最終的には三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の隣接地に決定。こうして、ようやく工事が始まるのであった。
京都人もワイワイ踊って土台作り?
さて、『多門院日記』には、以下のような記述がある。
「京ニハ大仏建立トテ、石壇ヲツミ土ヲ上テ、其上ニテ洛中上下ノ衆ニ餅酒下行(げぎょう)シテヲトラセルル」
どうやら、京都の上京(かみぎょう)や下京(しもぎょう)から2,000人ずつ動員されたようだ。町衆らには、酒や餅が振る舞われ、お祭り的な賑やかさで壇上で踊ったというのだ。つまり、これをもって、大仏殿の基礎作り、土固めをしたのである。
この大仏殿、大仏を先に造立したのち、その周りに築き上げる順番となる。大仏の大きさは約19メートル。そのため大仏殿は、桁行(けたゆき)が約90メートル、梁行(はりゆき)が約55メートルの巨大な造りだったという(大仏、大仏殿の大きさは諸説あり)。
あら、そういえば。
秀吉とくれば、天正16(1588)年に出された「刀狩令(かたながりれい)」が有名。じつは、この刀狩、大仏造立に一役買っていたようである。『小早川文書』には、このような記述がある。
「今度大仏御建立の釘、かすかひに仰せ付けられるべし。然れば、今生の儀には申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事」
どうやら、一揆防止のために集めた刀剣類を鋳つぶして、大仏造立の釘やかすがいに使っていたようである。しかし、それにしても、だ。武器の供出で現世のみならず来世でも助かるとは。秀吉も、まあまあな大風呂敷を広げたものである。
もちろん、そんなお触れを出すほど、民衆には大仏造立の負担が重くのしかかったともいえる。なんなら、材木調達に不届の儀ありとして、紀州の山奉行が首を刎ねられるなど、物々しい事件も。もっと清らかな気持ちで造るべきところだが、現実は思いのほか厳しいらしい。結果的に、大仏造立は民衆らの不満が蓄積される原因になったのである。
こうして紆余曲折を経て。無事に文禄2(1593)年9月に上棟。文禄4(1595)年4月に竣工。
『都名所図会(みやこめいしょずえ)』では、実際の大仏殿の様子が描かれている。上の窓には、京都大仏様のご尊顔がチラ見え。その大きさは想像以上のものである。
大仏殿は西向きに建てられていたという。現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所が収まる広さ。推定するに、南北約260メートル,東西約210メートルの規模だったとか。
めでたく完成後。
早速、秀吉は父母のための大法会(だいほうえ)を開催。天台・真言・律・五山(禅)・日蓮・浄土・時宗・一向(真宗)の八宗から各宗100人の僧侶を招き、盛大に営まれた。これが、噂の「千僧会(せんそうえ)」。以後、秀吉が死ぬまで毎月末に勤修されたという。
恐るべし、秀吉。
この法要をもって、秀吉は、仏教の全宗派をも絶対権力の下に組み込んだのである。
巻き込まれて大迷惑?の信州善光寺のご本尊
ただ、このままではいかないのが、世の常、人の常。
これまでの所業が裏目に出たのか。さあ、ここから、怒涛の勢いで押し寄せる災難の数々。天変地異にしても、あまりにも酷過ぎる内容である。
まずは、慶長元(1596)年閏7月。午前2時頃に京都の洛南を襲った慶長伏見地震。多くの被害が出る中、まさかの大仏様も。なんと、見るも無残に、京都大仏は大破して胸や左手が落下。痛ましいお姿になられたのである。
しかし、である。
自分の身もかばえない。
地震で倒れるようなら。
ご利益なんぞない。
まさに、秀吉なら言いそうなコト。まあ、実際に、秀吉はこれらの文句を口にし、京都大仏に腹を立てたという。そして、その腹いせに、大破したままの姿で放置を命じたのだとか。
それだけならまだしも。
せっかく建立した大仏殿に、大仏様が鎮座されていない。そこで、何を思ったのか。秀吉の言葉を借りるなら。
「霊告」
どうやら、秀吉は、7日間にわたって、遠く離れた信州善光寺のご本尊(善光寺如来)の夢を見たというのである。そうして、ついに、その夜。枕元に如来様が……。「洛東阿弥陀峰に遷座したい」と、ご本尊の方から発せられたというのだ。秀吉曰く、「霊告」を受けたというワケである。
もともと、こちらのご本尊。じつは、信州善光寺(長野県)より甲斐(山梨県)へ疎開されていたのだとか。というのも、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が「川中島の合戦」で激突。その戦火に巻き込まれないよう、弘治元(1555)年、信心深かった信玄は、甲斐善光寺を建立。ご本尊のみならず、宝物、寺僧まで、組織ごと甲斐へ移転したという。
しかし、今回の一方的な秀吉のご指名、いやいや、ご本尊からのご希望で、またもや京都へと移動することになったのである。
破損した京都大仏は取り除かれ、蓮華光背や台座は残されたまま。そして、その大きな台座の上に、1尺5寸(約45センチメートル)の信州善光寺のご本尊が祀られることに。そのアンバランスさは、言葉では言い表せないほど。あまりにも奇妙な光景だったとか。
なお、経路沿いの大名はこぞって搬送に駆り出されたという。どこまでも、苦労は続くのであった。
遷座の祟りで死亡?まだまだ続く京都大仏の悲劇
さて、こうして慶長2(1597)年。甲斐から信州善光寺のご本尊が遷座されたのだが。暫くして、秀吉は病に倒れることに。これにより、京都では「仏像遷座の祟り」だと、噂が絶えなかったとか。ちょうど、京都の気象も異変を来たしていたというから、当時はガチで風説が流れていたのだろう。
この噂が本物だったのか。
慶長3(1598)年8月22日に落慶供養(らっけいくよう、社寺の新築や修理の落成を祝う儀)が営まれるはずだった。
が、その数日前。
同年8月17日にご本尊は、突然、信州へとお帰りに。一説には、正室の北政所や側室の淀殿が返すことを勧めたとも。ちなみに、善光寺のホームページには、秀吉が亡くなる直前、その枕元にご本尊が立たれ、信濃の地に戻せと仰せられたとか。
さらに。あまりにも、不思議な話はまだまだ続く。
なんと、今回の一連の騒動の中心人物である秀吉が死去。同年8月18日。ご本尊がお戻りになった翌日のこと。御年63歳。なお、秀吉の死は外部に伏され、同年8月22日、大仏不在の大仏殿で開眼供養が行われたという。
さて、気になるのは、京都大仏のその後であろう。
じつは、先ほどの受難は序の口。さらに災難は続く。
この京都大仏に対して、亡き父の遺志を継いで、ご登場したのが二番手の秀頼(ひでより)。大仏の再建に着手し、今度は「地震に強い大仏を」とのスローガンで、鋳造に。まあ、最初の木像の漆喰塗りで痛い目を見たからだろう。
しかし、である。
なんと、慶長7(1602)年、鋳造中の大仏から出火。炎上してしまうのである。それでも秀頼は諦めず。一説には、豊臣家の財源を枯渇させるべく、徳川家康が再建を勧めたとも。こうして、慶長13(1608)年、再度大仏再建を誓い、ようやく、慶長17(1612))年に完成。
しかし、である。
同じく鋳造された方広寺の梵鐘のフレーズにご指摘が。これが世にいう「方広寺鐘名事件」である。大坂の陣にて豊臣家が滅亡するきっかけとなった騒動だ。ちなみに、このときの京都大仏は徳川家によって壊されもせず。豊臣家は滅亡を免れなかったが、京都大仏は現存が許されたのである。
しかし、である。
あれ?先も書いたようなフレーズなのだが。まあ、気にせず。
寛文2(1662)年の地震で再び倒壊。大破した京都大仏は、寛永通宝のために鋳つぶされてしまう。ちなみに、このような経緯もあり、民衆は寛永通宝を使わずにお守りとして持っていたのだとか。こうして、京都大仏はまたもや木像となり、寛文7(1667)年に修理完成。
しかし、である。
デジャブのような書き出しだが。
寛政10(1798)年7月。大仏殿に落雷。本堂や楼門らが焼失。もちろん、木像の大仏も海の藻屑のみならず、灰の木屑となったのである。
あまりにも無残ということで。少し時が経つのだが。天保14(1843)年、その規模を小さくし、尾張国の有志が半身の大仏像を造ったという。暫くは、安置されていた。
さあ、皆さま。次のフレーズを受け止める心の準備を。
しかし、である。
昭和48(1973)年3月28日深夜。突然の出火で半身の大仏と大仏殿は焼失。
こうして、京都大仏は、本当に「幻」となってしまったのである。
最後に。
実際のところ、豊臣秀吉の死は、祟りだったのか?
自分で投げかけといてなんだが。
神様以外、誰にもコトの真相は分かるまい。
ただ、ルイス・フロイスの『日本史』に、豊臣秀吉の真意が僅かながら見て取れる。
「関白はこの寺院、その他の寺院の債権を命じたとはいえ、それは神や仏に対する畏怖なり信心に基づくものではなかった。彼は、これら神仏は偽物であり、諸国を善く収め、人間相互の調和を保つために、人が案出したものだと述べ、神仏を罵倒し軽蔑していた。―(中略)―なんら神仏に対しては信仰も信心も有してはいなかった」
(ルイス・フロイス著『完訳フロイス日本史5』より一部抜粋)
もちろん、フロイスの主観がベースであるこの書物を、全て鵜呑みにはできない。しかし、一方で。彼が秀吉のそばで多くの時間を観察に費やしたのも事実。だからこそ、地震で倒れた大仏を見放すなどの秀吉の行為に、信仰心がないと疑問を持ちえたのだろう。
そんな不信心極まりない秀吉が、だ。
慌てて信州善光寺に送り返したご本尊。その神秘的な霊力はいかにも……と思ってしまう。
ちなみに、ダメ押しでもう1つ。
このご本尊、もう少し来歴を遡ると。
戦国時代、戦火にさらされることを危惧した武田信玄は、甲斐に善光寺を建てる。そして、例のご本尊や宝物を全て移したとされている。
その後、信玄は病気で死去。跡を継いだ武田勝頼は、織田信長に滅ぼされる。天正10(1582)年3月のこと。
じつは、このときに、信長の長男・信忠が、例のご本尊を持ち出したというのだ。
そして来るべき3か月後。
「本能寺の変」が起こり、信長・信忠父子は自刃することに。
例のご本尊は、信長の二男・信雄から徳川家康へと渡り、そして秀吉を経て、ようやく信州善光寺へと戻ることができたという。
さて、もう一度。
「仏像遷座の祟り」はあったのか。
そのご判断は、お任せします。
参考文献
『京都大仏御殿盛衰記』 村山修一著 法蔵館 2003年1月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月
『ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼』歴史読本編集部編 株式会社角川2015年8月
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