「信じる者は救われる」とは、誰が言ったのか。
えてして現実には、皮肉にも逆の現象が起きる。「信じたからこそ訪れる死」。いわゆる宗教迫害である。
歴史を紐解けば、じつは、日本でも厳しい宗教迫害の事実があった。江戸時代に出された、あの有名な「禁教令」。キリシタンに対する黒歴史である。
そして、この厳しい宗教弾圧と並行して。
いつの時代にも、自分の信念を貫く人たちが現れる。ひたすら耐え忍ぶことが、信仰の証明になるのだと。ただ、時に、それは思いもよらぬ方向へ形を変えることも。
それが、寛永14(1637)年、長崎で起こった「島原の乱」である。
残酷な拷問の数々。度重なる宗教弾圧と苛烈な年貢の取り立て。この三重苦に、とうとう農民らは立ち上がる。始まりはただの一揆にすぎなかった。しかし、あっという間に、幕府に不満を抱えた浪人らも巻き込んで、規模は総勢3万7,000人(諸説あり)へと拡大。原城(長崎県南島原市)での籠城戦に発展する。
思いのほか、年を越しても、乱は終息せず。最後は江戸幕府の威信をかけ、12万もの連合軍で総攻撃。蓋を開ければ、一揆勢は皆殺しとなる最悪の結末。こうして「島原の乱」は、江戸時代最大の悲劇として後世に不名誉な名を残す。
さて、「島原の乱」の最後。
一揆勢は全員虐殺されたといわれている。老いも若きも男も女も、一切合切、皆殺し。さながら地獄絵図のようだったというから、書くのも躊躇われるほどの事態だったのだろう。
しかし、実際のところ。この虐殺の中で、ただ一人、生き残った者がいた。
男の名は、「山田右衛門作(やまだえもさく)」。「南蛮(なんばん)絵師(洋画家のこと)」である。
一体、どうして彼だけ生き残ることができたのか。
今回は、その山田右衛門作の壮絶な人生を辿る。
果たして、唯一生き残った彼の目には、何が見えたのだろうか。
山田右衛門作がただ1人生き残れた理由
歴史の中に登場する「島原の乱」は、どうしても「キリシタンの宗教迫害に対する抵抗」の側面が大きくクローズアップされてしまう。しかし、実際のところ、宗教弾圧ももちろんなのだが。加えて苛烈な年貢徴収も大きな要因であった。
「島原の乱」が起こったまさにその中心地である「島原(長崎県)」。この場所を領地としていたのが松倉重政(まつくらしげまさ)。石高に見合わない部相応な島原城を築城。ただでさえ山が多く田畑が少ない土地である。にもかかわらず、幕府の公儀普請(こうぎふしん、土木工事のこと)に対し、積極的に石高以上の協力を申し出たことも。そんな悪政を2代藩主の松倉勝家(かついえ)も、同様に継承する。
当然、そのしわ寄せは領民らの元へ。
残された記録によれば、多種多様な課税で領民らを苦しめたという。家に棚を作れば「棚餞(たなせん)」、窓の数に「窓餞(まどせん)」、死者のために掘った墓穴に「穴餞(あなせん)」として、様々な税を徴収したのだとか。
さらに、納められない場合は、見せしめとして残酷な拷問を行った。妻子や老人を引っ立て、水牢に入れて水責めにするなど序の口。この「島原の乱」が起こる少し前にも、臨月の妊婦を水牢に入れ、妊婦は已む無くそのまま出産。母子共に絶命する事件が起こっている。このような過重な取り立て、残酷な拷問に、農民らの不満は積もりに積もっていた。もう、限界寸前の状況だったのである。
一方、「天草(あまくさ、熊本県)」を領地としていたのは、肥前唐津(佐賀県)の藩主、寺沢広高(てらさわひろたか)。天下分け目の戦いとなった「関ヶ原の戦い」で、徳川家康らの東軍に与したことから、天草4万石を加増された。引き継いだのは、2代藩主となる寺沢堅高(かたたか)。
なお、もともとの領地である唐津と天草は場所が離れている。そのため、天草の富岡に築城し、三宅藤兵衛(みやけとうべえ)を城代に置いた。この三宅藤兵衛、じつは明智光秀の孫だとか。禁教令でのキリシタンの取り締まりは厳しかったが、一説には松倉家と異なり、苛烈な年貢徴収はなかったとも。
ただ、島原と天草は地理的にみて、縁戚関係の者が多い。そのため、どちらかというと、島原に引っ張られて天草も一揆に加勢したとの指摘もある。どちらにせよ、これ以上我慢ならぬと、多くの村で一揆の準備が進められていたのは確か。その矢先、寛永14(1637)年10月25日。ある1つの決定的な事件が起こる。
場所は島原の深江村。村人が隠し持っていたデウス(神)の画を焼き捨てた代官を、信徒らが激高して殺害したのである。これは計画ではなく、いうなれば、突発的な事故のようなもの。
しかし、こうなったからには、もう後戻りはできない。そんな勢いのまま、領民たちは一斉に蜂起。当時16歳の益田四郎時貞(ますだしろうときさだ、天草四郎時貞ともいう)を首領として、立ち上がったのである。
結果からいえば、「島原の乱」は両軍共に多くの死者を出した。特に一揆勢らは、落城後には、無残な最期を迎える。
それでは、最初の質問に戻ろう。
どうして、そんな状況の中で、山田右衛門作(やまだえもさく)だけ生き残ることができたのか。
答えは簡単。
彼は、幕府軍と内通していたからだ。
キリシタンなのに、裏切ったってコト?
いや、そうではない。
ここで、キリシタンかどうかは関係ない。山田右衛門作にとって、一番大事だったのは、自らの信仰ではなかった。彼にとっての優先順位のトップは「妻子」。いかに、大事な妻子を、我が身に代えてでも無事に生かすかということだった。
そもそも、山田右衛門作は「島原の乱」に自ら積極的に参加したワケではない。当初、彼にはその気がなかった。一揆勢に息子を人質として取られて、やむを得ず従ったというのである。山田右衛門作が他藩の者に宛てた書状では、このように説明されている。
「加津佐の理右衛門が大将となって私の家を取り巻いて焼き払おうとしたので、いろいろ詫び言してのがれましたが、二十八日には又押し寄せて息子を人質にとりましたので仕方なく乱に加わりました」
(鶴田倉造著『Q&A 天草四郎と島原の乱』より一部抜粋)
彼だけではない。住んでいたとされる「口之津村(くちのつむら)」以外の場所でも、同様のことは起こっていたとされる。
家を焼き払うと脅される。家族を人質に取られる。自らの意志ではなく参加したキリシタン。それが山田右衛門作だった。しかし、皮肉にも、そんな彼は一揆勢から重宝される。『天草征伐記』によれば、山田右衛門作のことを「学問道徳の男、文章の達者」と評した記述がある。
どうやら「島原の乱」においては、「絵師」よりも「学問に秀で文章にも達者」な部分を買われていたようだ。そのため、山田右衛門作は四郎時貞の側に置かれ、色々と頼りにされていたという。だからこそ、幕府軍にとって欲しい情報を手に入れることができたのである。
老中・松平信綱の決断は「助命」
さて、一揆勢は、城代の三宅藤兵衛がいた富岡城を攻撃するも、城攻めは難しいと判断。廃城となっていた原城に入って修繕し、防備を固めた。
これに対して、鎮圧のために幕府から上使として派遣されたのは、板倉重昌(いたくらしげまさ)。九州の諸大名らに出兵を命じ、先に松倉軍、鍋島軍を率いて原城を攻撃するも、惨敗。
その後、続々と諸将らが到着。再度、板倉重昌の指揮で、総勢3万の兵による力攻めを行うが、結果は出ず。というのも、幕府の連合軍は、それぞれの諸将が自らの武功を重視。抜け駆けなどにより、残念ながら足並みが揃わなかったからだ。
そして、もう1つ。幕府の連合軍が攻めあぐねた理由がある。
それは、「島原の乱」をただの農民一揆と思い油断したコト。じつは、一揆勢には、かつてキリシタン大名であった小西行長(こにしゆきなが)や棄教した有馬晴信(ありまはるのぶ)の遺臣らが、多く浪人として参加していた。彼らは「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」などで実戦経験がある強者。そういう意味で、ただの農民らが城に立て籠るのとはワケが違ったのである。
また天草は、「天草筒(あまくさづつ)」という鉄砲の生産地でもある。射程距離も長く、命中率も高い鉄砲として有名で、村には砲術に長けた者もいたという。この鉄砲の攻撃により、またもや幕府軍は多数の死傷者を出してしまうのである。
なお、「島原の乱」での油断は、現地の長崎だけでなく、江戸でも同様であった。当初、幕府はすぐに一揆が鎮圧されるだろうと、その後の仕置のために、老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)と戸田氏鉄(とだうじかね)の派遣を決めていたのである。しかし、なかなかコレが落ちず。
これに焦った板倉重昌は、寛永15(1638)年正月元旦。松平信綱が到着する前にと、総攻撃を決定。正月ゆえ城内にも隙が生じると見込んだのだが。まさかの反撃に、無理をして攻め続け、逆に重昌は討死。
同年正月4日。ようやく松平信綱らが着陣。細川勢2万3,500、黒田勢1万8,000と更なる諸藩の兵らが集まり、幕府の連合軍は総勢12万以上に膨れ上がる。城攻めの方針も兵糧攻めに変えて長期戦覚悟に。オランダ商船による砲撃なども入れつつ、城内での食料や弾薬が尽きるのを待ったのである。
その頃。
山田右衛門作はというと。
本丸の守備隊長の1人として2,000人を率いていたとされる一方、1月中旬には既に幕府軍に矢文(やぶみ)を飛ばして接触していたとの記録も。一揆勢に参加するに至った経緯を説明し、城内の様子を知らせる見返りに、自分と家族の生命の保障を要求していたという。
山田右衛門作のように、半ば強制的に一揆に参加した人たちも多くいた。なんなら、村ごと巻き込まれた地域もある。そういう意味では、「島原の乱」の一揆勢の内部は「強硬派」だけではない。従わざるを得なかった人たちの中には、武力での抵抗を不本意と考える「和平派」もいたのである。
山田右衛門作は、そんな和平派の人々を助けることも考えていたのだろうか。
ちょうど、幕府軍の総攻撃の9日前。寛永15(1638)年2月18日に山田右衛門作が送った矢文には、「城中には心ならずも籠城した者もいる」と、それを示唆する内容が含まれている。また、一揆を終結させるために、具体的な申し出もなされていた。
「総攻撃の日時をあらかじめ知らせて下されば、わたしの手の者で城中に火をつけて回り、混乱のなか船で落ち延びさせると偽り、四郎時貞を生け捕りにして進ぜましょう」
(歴史の謎研究会編『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』より一部抜粋
うまくいくはずだった。自分の家族のみならず、多くの人々を助けられる予定だった。しかし、この矢文は、不運にも幕府側からの発見が遅れてしまう。幕府側は慌てて確認。遅延を詫びると共に、総攻撃の手筈や合図を書いて、すぐに射返したのだが。
残念ながら、不運は続く。幕府軍からの矢文は山田右衛門作に届かず。ちょうど城内の夜廻りの者に発見され、四郎時貞の元へ。これを読んだ四郎時貞は激怒。なんと山田右衛門作の妻子を見せしめに処刑。本人は手枷、足枷をされ、牢に閉じ込められたのである。
同年2月27日。
12万もの幕府軍の総攻撃が開始。兵糧攻めによって、既に城内は食料も弾薬も尽きていたという。そこへ幕府軍の総攻撃である。これまでじつに長期に幕府軍を苦しめた一揆勢だったが。その最期は、じつにあっけなかった。
幕府軍では「一人も生かすな」という下知(げち、命令)により、非戦闘員である老人や女子どもらも含めて、全員が殺された。もはや戦いというよりは、むしろ虐殺に近いものだっただろう。その人数は3万7,000とも、事前に隠れて逃亡したため2万5,000だったとも。
続けて、城内の捜索が行われた。山田右衛門作は、牢で縛られているところを発見され、松平信綱の元へ。精神的にも肉体的にも衰弱していたという。
松平信綱は決断する。
「山田右衛門作、助命」。
こうして、彼は1人生き残ったのである。
「島原の乱」後のそれぞれの人生
「島原の乱」が終結したのち。
それぞれの人生はどうなったのだろうか。
まず、この一揆の原因を作った2人の藩主から。
島原藩主の松倉勝家は所領没収、斬首刑に。これは非常に珍しい。というのも、大名でありながら罪人と同じ「斬首刑」となったからである。江戸時代を通して、このような処分がなされたのは松倉勝家のみ。江戸幕府もこの事態を重く受け止めていた結果であろう。
次に、唐津藩主の寺沢堅高は天草4万石の所領は没収され、蟄居(ちっきょ、一定の場所から動かず謹慎すること)を命じられる。のちに蟄居は解かれるが、正保4(1647)年に自害。後継ぎがいなかったため、断絶となった。
それでは、山田右衛門作はどうなったのか。
救出された山田右衛門作は、長い取り調べを受けて、これまでの「島原の乱」の経緯や戦いの状況を供述。のちに、この内容は『山田右衛門作口書』として、原城の内部を把握する資料となる。
山田右衛門作は島原に残ることなく、松平信綱に連れられて江戸へ。当時の年齢は66歳。この年で故郷を離れるのは辛かっただろう。その後、山田右衛門作は松平信綱の屋敷で絵を描いて暮らしたという。もともと絵師であったため、その腕を買われて助命されたのかもしれない。
そんな山田右衛門作の絵師としての腕前はというと。
ここに1つの話がある。江戸で放火が続いたとき。捕らえた放火犯を刑に処した際、その苦しむ姿を山田右衛門作に描かせたというのである。その絵を市中のあらゆる場所に高札(こうさつ)として立てると、以降はピタッと放火が止まったのだとか。それほど、生々しい臨場感溢れる絵だったのだろう。
一説には「宗門目明し(しゅうもんめあかし)」として、キリシタンを摘発するために働いたともいわれている。というのも、禁教令下でのキリシタンの取り締まりには「踏絵(ふみえ)」が使われる。どうやら山田右衛門作が描いた油絵も、踏絵として使われていた記録もあるのだとか。
さらに、摘発されたキリシタンが処刑される様子を描いたとも。庶民の恐怖心をあおって、キリスト教の布教を抑えたというのである。それこそ、絵が上手であるほど効果絶大。あまりにも皮肉な結果である。
その後。
彼の晩年はというと。松平信綱の許しを得て島原に帰ったといわれている。享年83歳(諸説あり)。妻子のみならず周りの者もいなくなった今。一人で帰郷した島原の地は、彼を優しく迎えてくれたのだろうか。
最後に。
「島原の乱」で四郎時貞の陣中旗として使われた「綸子地著色聖体秘蹟図指物(りんずじちゃくしょくせいたいひせきずさしもの)」。諸説あるが、この陣中旗の作者は山田右衛門作だとされている。
ふと、父の言葉を思い出す。
私の父は、サラリーマン時代に始めた趣味が高じて、洋画家となった。
「どうせ描くなら、見て癒される絵を描きたい」
優しく暖かい色使いで、描く絵は、オランダやフランスなどの風景画がほとんどだ。
大好きだった絵を描くこと。
誰だって楽しい絵を描きたい。綺麗な絵を描きたい。山田右衛門作もそう思っただろう。ひょっとしたら、中には、自分たちの密やかな信仰のためにと描いた絵もあったはず。
それなのに。自分の生み出した絵が。
多くの人たちの運命を狂わせた「乱のシンボル」となる。
キリシタンかどうか判別するための「踏絵」となる。
自分が描いた絵で人々が苦しむ。そんな姿を目の当たりにしたとき、彼は一体何を思ったのか。「島原の乱」が終わってもなお、彼にはこの苦しみが長く続く。それはあまりにも理不尽だ。
この記事を書きながら思う。山田右衛門作の壮絶な人生に、本当に神は存在するのかと。
本来、当事者でない私が、その問いを発すべきではないのだろう。しかし、つい、天に向かって聞きたくもなる。もし、それが。自分自身の強さを試すものであるのなら。そんなものはいらない。弱くたっていい。卑怯でもいい。立派でなくても、不名誉でも。なんでもいい。そんな苦しみを、一生背負って生きていく。彼が背負うべき十字架はあまりにも重すぎる。
ただ、見方を変えれば。
当事者の山田右衛門作にとっては、この苦しみがあえて必要だったのかもしれない。なぜなら、苦しみを背負うことこそ。自分にのしかかる重い十字架こそが、強烈な罪悪感を忘れさせてくれるからだ。
妻子を守れなかった罪悪感。強制的に乱に巻き込まれた人を救えなかった罪悪感。乱をうまく終結させられなかった罪悪感。一人生き残ってしまった罪悪感。そして、どんな絵も生き生きと描いてしまう罪悪感。
そんな多くの罪悪感を、少しの間、忘れさせてくれるのなら。
そう願いながら。
山田右衛門作は、果たして絵を描き続けたのだろうか。
参考文献
『Q&A 天草四郎と島原の乱』 鶴田倉造著 熊本出版文化会館 2008年9月
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月
『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』 前川和彦著 国書刊行会 1997年12月
『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』 向井健祐編 株式会社晋遊舎 2012年7月
『日本の城の謎』 井上宗和著 祥伝社 2020年2月