「Old Navy Never Die(海の古強者は死せず)」この言葉は、アメリカの戦艦「ニューヨーク」を称賛する言葉です.
戦艦ニューヨークは1912年に進水し、第一次・第二次世界大戦に参戦した古い戦艦で、1946年にアメリカの核実験の標的となりました。しかし核爆弾の直撃を2回も受けても沈みませんでした。その戦艦ニューヨークには「Old Navy Never Die(海の古強者は死せず)」という落書きがされていた、といわれています。
無機物の船に人々の想いが乗って、爆撃に耐えたかのような逸話。肉体は滅んでも永遠に語り継がれ、死なない海の古強者。この言葉にぴったりな人物が、日本の平安末期にもいました。それが三浦義明(みうら よしあき)です。
源氏と海の強者・三浦一族
三浦一族は相模国三浦郡(現・神奈川県横須賀市)に本拠地を置く豪族です。周りを相模湾・東京湾に囲まれているので、陸だけでなく海運も掌握している有力な武士団を形成していました。
鎌倉に幕府を開いた頼朝を支え、鎌倉幕府の基盤を作った豪族の1つですが、頼朝もまた三浦一族に敬意を持って大事にしていました。特に源平合戦で亡くなった三浦一族の長三浦義明には、頼朝自ら菩提寺を建てて供養するほどの手厚さです。
源氏と三浦一族の出会い:源義家と三浦為継
なぜここまで頼朝が三浦義明とその一族を大事にしたかと言うと、源平合戦の100年ほど前(1083年)に遡ります。東北地方で「後三年の役(ごさんねんの えき)」と呼ばれる大きな内乱があり、そこに源頼朝の先祖にあたる義家(よしいえ)が鎮圧に向かいました。
その戦に坂東の武士たちが多数徴兵されます。その中に相模国の三浦為継(みうら ためつぐ)がいました。
戦は義家が味方した側が勝利しましたが、朝廷は「東北の役人が身内同士で喧嘩して、義家が勝手に加勢しただけじゃん」と言って恩賞を出しませんでした。このままでは坂東武者たちもタダ働きです。
そこでなんと、義家はポケットマネーから武士たちに恩賞を出しました。三浦一族はこの事にとても深く感謝して「朝廷はともかく、源氏には末代まで従います!」と誓ったのです。
50年ぶりの源氏との再会:源義朝と三浦義継
戦が終われば、義家は京都へと帰ります。しかし義家は鎌倉に別荘を持っていました。そこを守ってきたのが三浦一族です。
やがて時が経ち、後三年の役から50~60年の月日が流れました。坂東の武士たちは互いに勢力を競い合い、領地を巡って争っています。三浦一族も、相模国の西部や房総半島へと勢力圏を拡大させようとしていました。
そんな坂東に颯爽と現れたのが、義家の子孫である少年、義朝(よしとも)でした。義朝が若くして坂東にやってきた時期や理由ははっきりと記録に残っていません。従来の説では父親と不仲であり、勘当されて家出同然に坂東にやってきたとされていましたが、現在では「そこまで不仲でもなかったのでは?」「父子の計画のうちだったのでは?」という意見も多いです。
ともかく、そんな義朝の坂東最大の支援者となったのが、三浦一族でした。この頃の三浦一族は相模国の国衙(こくが=現在でいう所の県庁)で働いていて、「三浦介(みうらのすけ)」と名乗っていました。
これは「上総介」や「上野介」のように朝廷から直接授かった称号ではなく、地元に精通した地元民が役所で働く際に役所からもらう称号みたいなもので、契約社員の中でも実績の多い人(でも正社員ではない)みたいな感じです。
立場上は相模守(県知事)の補佐なのですが、相模守の仕事を実質的にしていました。……いつの時代もベテラン非正規は世知辛いですね。この想いが後に鎌倉幕府の基盤を作る原動力になっていると言っても、過言ではないと思います。
当時の三浦介は、為継の息子の義継(よしつぐ)です。義継とその息子義明は、義朝と一緒に相模周辺国の領地を自分のものと主張しました。
やがて三浦義明は娘を義朝に嫁がせて、義朝の長男・義平(よしひら)が誕生します。
源氏の敗北と三浦の危機
ここまでの事を、ざっと図で表すと、こんな感じです。
義朝は義平が成長すると、義平を三浦の元に残し、京都に戻って朝廷の仕事に就きます。三浦も義平を筆頭にして周辺諸国へと勢力を伸ばしました。
しかし、京都で出世を目指す義朝の目の前に巨大な壁が立ちはだかりました。それが平清盛です。
この頃の清盛は既に政治の中枢にいました。しかし清盛に反発する勢力も多く、反清盛派の貴族たちは結託して戦を起こします。それが平治の乱(1160年)です。
義朝は息子の義平と共に坂東武者たちを引き連れて、反清盛派として参戦しました。結果から言うと反清盛派は負けてしまいます。
義朝一行は敗走して坂東を目指しますが、大人数で動くと敵に見つかる可能性が高まります。そこでバラバラに逃げる事となりましたが……。
義朝は途中で討ち取られてしまいました。義平は京都に引き返して清盛を暗殺しようとしますが、見つかって捕らえられ、処刑されてしまいました。
こうして、平家の全盛期が訪れました。今までは源氏に従っていたけれど、乱の後はやむなく平家に従う事になった家もあります。しかし三浦一族は源氏の再興を諦めませんでした。義朝の3男である頼朝が流罪となって伊豆にやってきていたので、支援者の1人となったのです。
そしてそこからさらに20年の月日が流れ、ついに平家へ反撃するチャンスが訪れます。
ついに源平合戦突入!
清盛の権力は最盛期を迎えましたが、老いも見え始めていました。そこで清盛によって皇太子の座から降ろされてしまった皇子・以仁王(もちひとおう)が立ち上がり、全国にいる源氏に「我に味方せよ」と命令書を発行しまします。
その目論見はすぐに平家にバレてしまい、以仁王は負けて討ち取られてしまいました。しかしこの出来事がきっかけで、再び平家打倒の機運が高まります。
伊豆に流罪となっていた頼朝の元にも、以仁王の命令書が届きましたが、頼朝はそれを一旦既読スルーしてしまいました。しかし周りの支援者たちから説得されて、ついに武力蜂起する事を決意します。
この説得をした1人が、三浦義明の息子・義澄(よしずみ)です。義澄は頼朝が説得に応じた頼朝の事を、急いで三浦に帰って報告しました。これを受けた三浦義明も大喜びして、一族郎党を頼朝の援軍として揃えて、合流地である伊豆半島の石橋山に向かいました。
時は治承4(1180)年8月22日。この日付は旧暦で、現在の暦に換算すれば9月半ば……。そう、相模国に台風が直撃したのです!
そんなまさか、頼朝様が負けた!?
三浦一族は台風の中、なんとか頼朝と合流するために、西へ西へと進みます。小田原までやってきた頃には雨は止んでいましたが、氾濫する酒匂川(さかわがわ)が三浦一族の前に立ち塞がりました。目の前にはもう石橋山が見えていますが、さすがにこの荒れた川を渡るのは不可能と判断し、待機します。
けれど途中平家方の武士の家を焼いた事で、三浦軍がすぐそこまで来た事を察した敵方は、急いで決戦をしようと頼朝勢に夜襲をかけました。
石橋山に立ち昇る煙を見て、三浦一族は頼朝の敗北を知り、三浦へと引き返しました。
ああ、悲しき勘違い!
三浦一族が由比ヶ浜まで戻った時、武蔵国(埼玉県)から石橋山に向かう平家の家人・畠山重忠(はたけやま しげただ)の軍勢とバッタリ鉢合わせしました。
三浦一族の1人、和田義盛(わだ よしもり)が名乗り上げて戦闘になりかけましたが、軍を率いていた三浦義澄が止めました。
実は当時は源氏の家人・平家の家人だからと言って常にいがみ合っているわけではなく、家族や親戚ぐるみの交流があったり、婚姻関係があったりもします。
畠山重忠の母は三浦義明の娘でもあり、お互いに顔見知りでした。(*現在は重忠の母は三浦ではないという説が主流ですが、この記事では私の好みで三浦ということにしておいてください)
頼朝が負けて意気消沈気味の三浦一族、できれば無駄な戦闘は避けたい畠山。
「まぁ、ここはお互い見なかった事にしよう」「そうしましょう」
と、平和にすれ違うこととなったのですが、そこに遅れて登場したのが和田義盛の弟の義茂(よしもち)です。
「あ! 叔父貴が平家方の畠山と睨み合ってる! 加勢しなきゃ!」
と、義茂が放った矢が大将である畠山重忠が乗る馬を殺してしまいます。これに怒った畠山勢が応戦してしまい、なし崩し的に戦闘が始まってしまいました。
通信機器がある時代だったら避けられた戦闘で、どの立場に立っても悔しい出来事です。
双方ともに多数の死傷者を出してしまい、三浦一族は撤退して、義明の元へと集まりました。
もう思い残す事はなにもない……三浦義明の決断
畠山の軍勢を迎え撃つ気が満々だったのは、和田義盛でした。
義盛は海の砦の役目もあり、船や武器などが揃っている怒田城(ぬたじょう)に籠城する事を提案します。
しかし一族の長である三浦義明は、衣笠城(きぬがさじょう)に籠城する事を決断しました。
衣笠城は、三浦一族の誇りそのものと言ってよい城です。しかし居住用の城ではなく、戦闘向きでもありません。一族が日々の訓練をするための施設でした。
義明がこの城を選んだという事は、「死に場所」を選んだという事になります。
そして8月27日、追いかけて来た畠山勢が衣笠山に攻めてきました。元々戦闘向きの城ではない事もあり、三浦は劣勢となりました。
一族は城を捨てて逃げようと、義明を説得しましたが、頑として動きません。そしてこう言いました。
「わしは源氏累代の家人として、平家に敗れて落ちぶれてしまった源氏の再興の瞬間をこの目で見る事ができた。こんなに喜ばしい事はない。この身はすでに89歳となっている。この後どれほど生きられるだろう。
ならば、今こそこの命を頼朝様に捧げ、子孫の誉となりたい。お前たちは急いでこの城から退去して、頼朝様の生死を確認しなさい。わしはこの城に残って、あいつらと戦おう」
この最期の言葉にある「子孫の誉」、この部分が先ほどチラリと言及した「畠山重忠は義明の孫なのか問題」に関わってきます。
確かに三浦一族はこの義明の最期を誉れとし、宗家はもちろん、戦国時代以降まで残った三浦の庶流、そして現代の子孫も語り継いでいます。
しかし、もし畠山重忠が三浦義明の孫だとしたら、「今こそ、この命を頼朝様に捧げ、この首を討ち取った重忠の手柄となりたい」という意味にも取れるのではないでしょうか。
勘違いのすれ違いから始まってしまった戦の落し所に、自らの老いた命を差し出す。熱い展開がさらに熱く……! という事で、私個人の想像の中では畠山重忠は義明の孫という方向でいきます。
三浦一族は、泣きながら義明と別れ、船に乗って房総半島へと向かいます。そして安房国猟島(現・千葉県鋸南町)で同じく船で伊豆から逃げて来た頼朝と合流しました。
衣笠合戦その後
義明は畠山の軍勢に討ち取られてしまいましたが、その名誉は頼朝に伝えられ、頼朝はその最期を称えました。
頼朝が三浦と千葉の武士たちを従えて鎌倉に向かう途中、畠山重忠がやってきて「父の代でやむを得ず平家に従っていましたが、元々は我が一族も源氏の家人です。これからは頼朝様に従います」と言いました。
武蔵国の有力武士だった畠山の協力が必要だった頼朝は、重忠を受け入れ、三浦一族には遺恨を水に流すように言いました。
これに三浦一族は従います。「いやいや、いくらなんでも三浦一族の心広すぎじゃない?」と思いますが、実は三浦の伝承には、畠山重忠が衣笠城での戦闘の後、民家などを奪略したという話がないどころか、周辺の整備をした話があります。
あくまで伝承ではありますが、やはり普通に奪略していたら、いくら頼朝様の命令には絶対に従う三浦一族でも、水に流す事はできなかったでしょう。よって、畠山重忠は三浦の土地を大切にした=母が三浦だったと言われた方が、私はしっくりします。
こうして畠山一族と三浦一族は協力して頼朝を支えて、源平合戦の主力を担うことになり、頼朝も義明の最期を称えて菩提寺を建てました。その寺が、鎌倉市材木座にある来迎寺(らいごうじ)と、横須賀市にある満昌寺(まんしょうじ)です。
綺麗な話なだけじゃない、義明の最期
ここまでが鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも記されている、三浦義明の最期です。しかし『平家物語』でも本としては最古の形態である『延慶本(えんけいぼん)平家物語』に、このように残されています。
平家物語に残されてしまった不名誉
衣笠城に立てこもった三浦一族。三浦義明は1人で残ろうとしますが、三浦一族はそれを聞き入れませんでした。無理矢理に輿に押し込んで、衣笠城を後にします。
しかし途中で敵に追いつかれそうになり、三浦一族は義明が乗った輿を放り出して逃げてしまいました。そして三浦義明は敵に引きずり出されボコボコにされて討ち取られてしまいましたとさ。
この『平家物語』の描写は、吾妻鏡の立派な最期と比べると、ずいぶんと泥臭いです。現在では『吾妻鏡』の描写は脚色で、実際に起こった出来事は『平家物語』の方が正しいという意見が主流です。
しかし、私個人の好き嫌いで言えば、やっぱり『吾妻鏡』の方が好きです。
平家物語の最古形態と言っても、『延慶本』が書き写されたのは延慶年間(1308~1311)です。源平合戦から120年以上経っています。
加えて、平家物語は琵琶法師が語るエンターテイメントで、聴衆にウケが良くなるように、聴衆に合わせて脚色されていったハズです。そして三浦一族の宗家は、繁栄していた反面、周囲から相当な恨みを買っていて、宝治元(1247)年に滅亡してします。
……大っ嫌いな一族が誇りにしていた先祖を扱き下ろす話、さぞかしスカっとしたでしょうねぇ……。
地元の伝承に残る最期
そして、三浦一族の本拠地があった横須賀市には、『吾妻鏡』とも『平家物語』とも違う最期の様子が伝わっています。
一族を逃がすために城に残り、十分に敵を引き付けてから、三浦義明は愛馬に乗って城を抜け出しました。ところが途中の松の木の下で、愛馬が立ち止まって動こうとしません。
義明は、愛馬が「あなたの運命はここまでです、ここで立派に自害してください」と言っているのだと悟り、松の木の下で切腹しました。
地元の伝承ですので、信ぴょう性を求められると弱いのですが、『吾妻鏡』と『平家物語』のちょうど中間のような話だなぁ、と思います。
ちなみにその松があった場所は、現在は整備されて「切腹松公園」となっています。すごい名前の公園ですが、遊具があって小さい子どもたちが元気に遊ぶ、地域の児童公園です。
過去から現代、そして未来へ受け継がれる誉れ
さて、義明の最期にまつわる色々なパターンを紹介しましたが、結局何が正しいの? と訊かれたら、「今のところは『平家物語』という意見が主流」というハッキリとしない答えになるでしょうし、実際の所はタイムマシーンに乗って確かめに行くしかありません。
けれど三浦義明は現在も地元である横須賀市の英雄として祀られていて、命日である8月28日の供養祭では、地元民だけでなく全国に散らばった子孫やファンが供養に訪れます。その先祖を大事にする気持ちには、「嘘」はないでしょう。
840年前に誇りと共に散った魂は、いままでも、そしてこれからも生き続けています。
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