英雄は、生まれ方まで違うのか。
後世にまで名を残し、現在でも多くのファンを魅了する戦国武将たち。彼らの出生には、なぜか不思議な伝説がつきまとう。
例えば、奥州の覇者、伊達政宗(だてまさむね)の場合なら。
母・義姫(よしひめ)が、長海上人(ちょうかいしょうにん)に祈願を頼んだところ、枕元に一人の老僧が立ったとか。「胎内を借りたい」との不気味な申し出に、義姫は一度は断るものの、のちに承諾。すると、本当に子を宿すことに。こうして生まれたのが、あの政宗であったという。
摩訶不思議な言い伝え。それが、余計に一般人とは異なるのではと思わせる。ある意味「神格化」とでも言おうか。ただ、今回、記事で取り上げる方は、少し他の戦国武将と話が違う。というのも、伝説云々の前に、珍しく生まれた年さえも明確ではないからだ。
その方とは。
下剋上の世を制して天下人になった「豊臣秀吉」である。じつは、彼の出生年については、天文5(1536)年と天文6(1537)年の2つの説がある。そして、ややこしいのが、共に信頼度の高い証拠も存在するというコト。
どうして、このようなことになってしまったのか。
それは、ひとえに、秀吉の出自が他の戦国武将とは異なるからだろう。ある程度の身元の明確な家柄に生まれた場合は、生年月日が不明ということにはならない。しかし、秀吉は違う。出自の低さが、このような事情を引き起こしたといえる。
そして、皮肉にも。
出生の状況が不明だからこそ、逆に、それが様々な可能性を広げる結果となってしまった。もちろん、英雄につきもののぶっ飛んだ伝説も。今回は、そんな豊臣秀吉の出生に焦点を絞って、多くの謎を紹介していこう。
秀吉にもあった!日輪が懐中に入る瑞夢とは?
さて、自分大好き人間の代表格である豊臣秀吉ともなれば。やはり、生まれる時のきらびやかな伝説があるのはお約束。実際に、どのような伝説が囁かれたかというと。秀吉の甥である豊臣秀次(ひでつぐ)の侍医を務めた小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記(たいこうき)』にはこのように記されている。
「或時母懐中に日輪入り給ふと夢み、巳(すで)にして懐妊し、誕生しける」
(小瀬甫庵著『太閤記』より一部抜粋)
どうやら、日輪(にちりん、太陽)が母親の懐に入る夢を見て、子が宿ったという伝説である。生まれた子の幼名は「日吉(ひよし)」「日吉丸(ひよしまる)」。これがのちの秀吉となるのである。
『太閤記』のみならず。徳川秀忠・家光らに仕えた土屋知貞(ともさだ)の『太閤素性記(たいこうすじょうき)』にも同じような記載が。両者は、内容的に史実と異なる創作部分も多いといわれているが、共に秀吉の出自として、このような奇怪な伝説に触れられている。ちなみに、この伝説を持つのは、平安時代の天台宗の高僧である慈恵大師(じえだいし)も同じだとか。
それだけではない。秀吉には、生まれる際にも伝説が。
『真書太閤記(しんしょたいこうき)』によれば、産み月の10カ月を過ぎ、1年を過ぎても未だ生まれなかったというのである。結果、13カ月目の天文5(1536)年元旦に、ようやく生まれたのだとか。いやいや。こうなったら、もう、ただのホラーである。なお、茶化すわけではないと先に断っておくが。この13カ月誕生説は秀吉だけではない。じつは、聖徳太子も同じ伝説を持っているといわれている。
どこまで盛ればいいのやらという具合の、伝説てんこ盛り感満載。さすが秀吉。これぞ秀吉である。
そして。
この怪異譚は日本国内にとどまらず。海外に対しても、その書簡で堂々と「日輪の子」と綴られている。天正18(1590)年の朝鮮国王宛の書簡、文禄2(1593)年のスペイン領フィリピン総督宛の書簡。いずれも瑞夢を見たことが記されている。
文禄2(1593)年の高山国(台湾)宛の書簡では、このような記載に。
「それ日輪の照臨する所は海岳山川草木禽獣に至り、悉くこの恩光を受けざるはなきなり。予、慈母の胞胎に処せんと欲するの時に際し、瑞夢あり。その夜己(つちのと)、日光室に満ち、室中昼のごとし」(『異国往復書翰集』)
(堀新ら著『秀吉の虚像と実像』より一部抜粋)
天下人となれば、伝説もスケールが違うのだろう。こうして、秀吉は「日出処(ひいずるところ)の天子」の如く、日輪の子として海外に紹介されたのである。
どうして秀吉は土木工事に強いのか?「声聞師」出身の可能性って?
なるほど。
秀吉は、一般庶民とは違い、このように「選ばれし子」だったというのか。だからこそ、大出世を果たしたとでも言いたいのだろうか。
確かに、彼は大出世した。織田信長に見出され、あれよあれよという間に方面軍のトップへ。中国地方の平定を任され、多少てこずるものの兵糧攻めなど多彩な方法で一定の成果を出すことに。信長の死後は、その夢とポストを引き継いで、見事、天下取りに成功。
そういう意味では、奇跡に近いほどの大大大出世なのだろう。なんなら神がかり的とまでいえるプロセスが、そのような伝説を自ずと引き寄せたのかもしれない。ただ、秀吉は、漫然と運だけを頼りに生きていたワケではない。詳細をみれば、小さな結果をコツコツと積み上げている。大風呂敷を広げる癖はあったが、なんとか力技で畳んでみせるまでの力量はあったのだろう。
つまり、秀吉にはもちろん運もあった。ただ、それをいかす能力も確実に持ち合わせていたというコト。だからこそ、大出世は当然の結果ともいえるのだ。なかでも、秀吉の実績の中で輝かしいのが、土木工事関係である。
「大坂城」や「伏見城」、そして、朝鮮出兵の拠点となった「肥前名護屋城」など。秀吉は、大きな城の築城のみならず、城下町の形成まで手掛けている。また、京都には、城郭風の邸宅である「聚楽第(じゅらくだい)」を造成し、のちに堤である「御土居(おどい)」を築いて、京都の町を大改造した。
一方、城攻めでも、秀吉の力はいかんなく発揮される。備中高松城(岡山県)の城攻めに際しては、短期間で堤を築いて水攻めを行ったことでも有名だ。
秀吉の大出世は、このような数々の輝かしい実績が下支えている。
そこで、ふと、疑問に思うことが。
どうして豊臣秀吉は、ここまで土木技術に長けていたのか。
いや、言い換えれば。
どうして秀吉は、そのような技術者集団を召し抱えることができたのか。
そこで関係すると思われるのが。
秀吉の馬印(うまじるし、大将の所在を示す旗)に描かれている「瓢箪(ひょうたん)」。
秀吉といえば、信長から「瓢箪」の馬印を使うことを許され、その後、武功を上げる度に瓢箪を1つずつ加えていった「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」の話が有名であろう。ただ、実際はというと。どうやら馬印には、大きな瓢箪が1つ描かれており、千成瓢箪ではなかったようだ。
さて、この瓢箪なるもの。ウリ科の植物で、当時は、ちょうど内部に不思議な呪力が宿る「霊物」と考えられていたというのである。その証拠に、民間陰陽師である「声聞師(しょうもじ、「唱門師」とも)」の村では、その家々の屋根に瓢箪が掲げられていたとも。
ここでいう民間陰陽師とは、不思議な呪力で吉凶を占い、経読し、穢れを祓い浄めることができる者たちを指す。一部では、同時に「曲舞(くせまい)」などの芸能を担うこともあったとか。
はて。
吉凶を占い、穢れを浄める。これは当時の話に限ったことではない。じつは、現在でも日常生活の中で当然のように行われていることも。それが、家を建てるときなどに施される「土地の地鎮祭」である。地鎮祭は、もともと陰陽師の行事として、当時は声聞師らで執り行われていたという。
もちろん、彼らのスキルは土地の霊を鎮めるだけではない。実際に土地に対してあらゆる技術を持ち合わせていた。つまり、彼ら声聞師は、土木工事の技術者でもあったのだ。こう考えると、秀吉が土木工事に強い理由がなんとなく理解できるようにも思う。というのも、秀吉自身が、もし民間陰陽師の出身であったならば、土木工事の技術者集団を率いることなどワケないからである。
なお、声聞師は、この仕事だけで生計を立ててはいない。基本的には農業に従事しつつ、陰陽師のような仕事や芸能関係の仕事を行っていたとされている。今回の記事を書く上で参考とした『秀吉の虚像と実像』(堀新ら著)でも、秀吉が民間陰陽師出身の可能性がある理由の1つに、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記述を挙げている。
ルイス・フロイスは、イエズス会の日本年報で、秀吉の出自について触れている。その内容というのが、「彼(秀吉)はその出自がたいそう賤しく、また生まれた土地はきわめて貧しく衰えていたため、暮らしてゆくことができず」というもの。これは、声聞師のいる村の特徴とよく似ているというのである。
真相は定かではない。
しかし、これほどの大出世を成し遂げた秀吉には、なんらかの秘密があったに違いない。そのうちの1つ。秀吉が民間陰陽師の出身だったという可能性も、大いに考えられるのではないだろうか。
最後に。
秀吉の軍師であった竹中重治(たけなかしげはる、通称は半兵衛)の子が書いた『豊鑑(とよかがみ)』。これによれば、秀吉は「あやしの民の子」と記されている。
ここでの「あやし」を、どう捉えるか。
単に「貧しい村の出身」ではない。「呪術的スキルを持った民間陰陽師」と解釈すれば、全てが繋がる。
「あやしの民」「瓢箪」「声聞師」「土木工事に長けた技術集団」。
これらをかけ合わせれば、奇跡にも近い大出世という答えが弾き出されるのかも。
もちろん、全ては。
秀吉の努力があってのことだが。
参考文献
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月
豊臣秀吉にまつわる、おすすめの関連記事はこちら
■ 親バカすぎて神様にまで物申す?息子と娘LOVEな豊臣秀吉の破天荒ぶり
■ 35歳年下の親友の娘を側室に?豊臣秀吉が大切にした「加賀殿」の波乱万丈の生涯とは?
■ 10分の1に期間短縮?豊臣秀吉主催、800人参加の大イベント北野天満宮大茶会の謎!