切腹文化を作った男、清水宗治。秀吉も感極まった武将とは?人物と最期を解説!

切腹文化を作った男、清水宗治。秀吉も感極まった武将とは?人物と最期を解説!

「エンディング・ノート」や「終活」という言葉が流行語大賞にノミネートされたのが、ちょうど2010~2012年頃。あれから10年近く経つ現在では、自分の人生の終わり方を考えることは、何も珍しくなくなった。理想の多くはピンピンコロリ。死ぬ直前までピンピン元気でコロリと逝きたいというもの。

ただ、コロリと逝く状況は?と聞かれれば、千差万別。各々の価値観が一番如実に表れるところだろう。戦国時代の武将であれば、選択肢は非常に限られる。戦に負けることが、既に死を意味しているからだ。

しかし、せめて自身の名誉は守りたい。そうして受け継がれてきたのが、日本特有の「切腹」だ。じつは、この「切腹」を見事なまでに昇華させた男がいる。備中高松城城主、清水宗治(しみずむねはる)、享年46歳。今回は、この名将、宗治の散り際を是非とも紹介したい。

もともと切腹は見事な死に方ではない

「兵の剛(ごう)なると申すは、最後の死を申すなり」
これは、平安時代末期、木曽義仲の家来でもあり友でもあった今井兼平(いまいかねひら)の言葉である。木曽の山奥から平家打倒で兵を進め、一時は上洛したのもつかの間、最後は源義経率いる鎌倉勢に討たれる。近江国粟津(滋賀県大津市)にて、共に最後まで戦って討ち死にをと望む木曽義仲に対して、兼平は自決をすべきと説得したという。

日頃、どんなに高名な武将でも、最期が潔くなければ名折れとなる。武将たるもの、名もなき兵に討たれて、自分の家来が討ち取ったと吹聴されるのは口惜しい。だからいっそのこと自決すべきだと。しかし、結果的に義仲は間に合わずに討ち取られ、兼平は太刀の先を口に入れて、馬上から逆さまに下りて自身を突き刺したといわれている。

討ち取られるくらいなら自決。それが武将としての美学なのだろう。しかし、ここでは具体的な自決の方法、つまり「どの死に方が名誉に値するのか」までは触れられていない。当時はまだ、海外ではアンビリバボーな「ハラキリ」といわれる「切腹」が、名誉ある死に方だとの認識はなされていなかったようだ。

秀吉の中国攻めがターニングポイント

それでは、いつの時点で「切腹」が名誉ある死に方に格上げされたのか。遡ること平安時代末期。もともと「切腹」という自決方法の起源はこの頃だといわれている。自殺の一つの手段として存在していたとの記録もある。

その後、千年近く時を経た江戸時代。既に、この時代には「切腹」が、名誉ある死に方として儀式化されている。切腹を行う者は白装束をまとい、親しい者が介錯を行う。それだけではなく、実際に切腹がなされたかどうかを見守り報告する「検分役」や、切腹する者に酒を注ぐ者など、担当も割り振られていた。なんなら、切腹する際の装束の脱ぎ方まで作法としてあったとされている。

では、どのタイミングで「切腹」への認識が変わったのか。ターニングポイントは、戦国時代に行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の「中国攻め」である。正確には、織田信長からの命を受け、中国地方の制圧を行ったときだ。じつは、冒頭でも紹介したが、「切腹」が名誉ある死に方だと認識されるようになった背景には、一人の武将が関わっている。その名も、備中高松城(岡山県)城主の清水宗治(しみずむねはる)である。清水宗治とは、毛利元就(もうりもとなり)の三男である小早川隆景(こばやかわたかかげ)の家臣である。諸説あるが、もともと備中清水城主の次男であり、その後紆余曲折を経て、小早川隆景、ひいては毛利家の家臣になったとされている。

さて、織田家と毛利家はずっと反発し合っていたわけではない。天正8年(1580年)には、和平交渉を探っていたとされている。この時期に毛利側が和平交渉に応じたのは、備前岡山城主の宇喜多直家(うきたなおいえ)が、織田側に寝返り、戦況が不利になりつつあったからだ。しかし、交渉は実らず、秀吉は織田信長の命を受けて中国地方へ進軍。毛利側の拠点の鳥取城を天正9年(1581年)10月に開城させる。一方で毛利側も防衛体制を整えつつあった。その要が「境目七城(さかいめしちじょう)」である。ちょうど備前との国境にある7つの城のことだが、これらの城を整備して補強を行った。中でも、地理的に要所となっていたのが、清水宗治の備中高松城なのだ。

天正10年(1582年)4月より7つの城を次々と陥落させた秀吉は、5月7日、総勢2万の軍勢で、備中高松城を包囲した。城の中には清水宗治率いる5000の兵がいたという。なお、この高松城は平地に建っている平城だ。三方を山に囲まれ、開けた部分は足守川(あしもりがわ)に沿った場所だ。そのため、雨水が溜まりやすく、付近には湿地帯などがみられ、天然の要害として城を守ることができた。実際に、秀吉も攻めあぐねていたという。

ただ、逆をいえば、過去には何度か水害にも見舞われた土地でもある。そこで秀吉は、備中高松城の西北部分から、約3キロにもわたる堤防を12日間で構築し、足守川を堰き止めて堤の中に水を引き込んだ。これが、有名な「水攻め」である。ちなみに、現在の研究では300~500メートルほどの堤防で、地理的には水没が可能ともいわれ、その真偽は定かではない。

備中高松城跡地

どちらにせよ、備中高松城の周りは湖のようになり、城は孤立。総大将の毛利輝元(もうりてるもと)ほか、小早川隆景、吉川元春(きっかわもとはる)らが、着陣したときには既に時遅し。一面水びだしで、手が出せない状況だったという。毛利側は近くにいながら傍観するしか手立てがなかった。一方で、清水宗治は秀吉からの降伏の勧めにも応じることなく、籠城を続けていた。

そんな折、秀吉のところへ、6月2日に織田信長自刃したとの知らせが届く。本能寺の変が起こったのである。秀吉は弔い合戦で明智光秀を討つべく、毛利方との和睦を一気に進める姿勢を見せる。片や、毛利方では本能寺の変があったことを知らず、なおかつ信長軍が押し寄せるとの情報もあった。そのため毛利方も和睦を早く進める必要があったのだ。ただ、和睦の条件が合わない。毛利方の領地の割譲、人質の差出しなどは構わないが、どうしても合意できずにいたのが、備中高松城主、清水宗治の切腹であった。5000の城兵の助命と引き換えということだったが、輝元は応じられずにいた。しかし、秀吉もまた宗治の切腹にこだわった。

そこで、秀吉側は清水宗治に直接交渉する。すると、なんの躊躇もなく宗治は切腹に応じたという。

仁の心のある主君に、義をもって報じるのは臣下の取るべき道である。われは百年も長生きできぬ。いま天下泰平の基礎はただこの一事にある。宗治が急ぎ腹を切って、和談を調えたい
楠戸義昭著『戦国武将名言録』より一部抜粋

こうして、6月4日に清水宗治は切腹、和睦が無事結ばれ、秀吉は「中国大返し」として、京都の山崎へと向かうのである。その後、すぐに毛利側に、信長の死が伝わるのであった。

本能寺の変により織田信長が自刃したのが6月2日。秀吉と毛利方で和睦が結ばれたのは6月4日。織田信長の死については毛利側にもたらされていたとする情報もある。ただ、それについては毛利側も確信がなかった。逆に大軍が押し寄せるとの情報もあり、錯綜していたという。もし、毛利側が信長の死について確信があれば、和睦は結ばれなかったのではないかとも指摘されている。結局、蓋を開ければ、清水宗治の死は無駄死だったのではないかと。

しかし、果たしてそうだろうか。
そもそも、毛利側の状況は合戦続きで疲弊し、これ以上戦を続けるだけの余力がなかった。加えて情報が錯綜していた。ただどちらにせよ、毛利側としては5か国の領地の割譲など、呑みがたい条件であっても和睦へ踏み切った。それは裏を返せば、三木城、鳥取城、そして備前高松城を落とされ、ギリギリの状況だったといえよう。

そして、秀吉があそこまで清水宗治の切腹にこだわった理由。それこそ、宗治の死を無駄死とさせないためではないか。毛利側は、領地の割譲には異議を唱えなかったが、忠臣である清水宗治の命だけは譲れなかった。それほど、家臣の宗治のことを大事に思っていたのである。そんな宗治の命と引き換えに和睦を結べば、和睦を白紙に戻すことこそ、宗治の死が無駄となる。この流れを見越して、秀吉は切腹が絶対条件だとしたのではないだろうか。和睦後、京都に引き返す際に、背後から毛利側に追撃される可能性を限りなく低くしたかったのだ。

宗治の切腹により、5000名の城兵の命は救われた。のみならず、中国大返しが成功し、秀吉は天下統一をなしえた。つまり、戦国の世に終止符が打たれ、戦が減ったともいえる。そういう意味では、宗治の死は歴史を左右する非常に重みのある死だったのかもしれない。

備中高松城主 清水宗治の最期

さて、話を戻そう。先を急ぐ秀吉に「見届けるまでは動かん」とまで言わしめた宗治の最期は、とても美しかったのだとか。

死する前には、宗治は小姓に髭(ひげ)を抜かせて、身だしなみを整えたという。切腹ののち、自分の首を織田信長が検分するだろうと予想し、籠城したために身だしなみを忘れたとは侮られたくないと、最後まで武士としての誇りにこだわった。
そうして6月4日の午後。一艘の小舟がスッと秀吉の陣の方へ進み出る。湖と化した高松城外。小舟には宗治と共に、兄の月清入道(げつせいにゅうどう)、家臣らの姿があった。秀吉軍が見守る中、宗治は悠々と能の「誓願寺」を一舞披露する。「誓願寺」とは、菩薩の姿をした和泉式部が成仏する喜びを表現して舞うという能だ。この「誓願寺」を美しく舞ったのち、潔く切腹したという。そのあまりの見事な最期に、秀吉も「武士の鑑」と感嘆したといわれている。

清水宗治は、最期に辞世の句を遺している。
「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」

我が人生の幕をいつ閉じるか。最後まで主君に忠実であり、家臣を思いやる生き様。このような辞世の句がなくとも、宗治の武士の誇り、名誉はしっかりと後世に伝わっているといえよう。

また、三原城(広島県)へ人質として預けられている息子の源三郎(のちの清水景治)らには、前日に遺言(三首)を遺している。当時まだ幼く10歳前後であったという。

身持ちの事
恩を知り慈悲正直に願いなく 辛労気尽し天に任せよ
朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ
談合や公事(くじ)と書状と威儀法度、酒と女房に心みたすな
皆木和義著『名将の戦略』より一部抜粋 

恩を忘れず正直に誠実に手を尽くし、あとは天に任せればよい。上からの命令や経理、武具の調達、必要な相談事から訴訟まで。立ち居振る舞いなども含め、すべき仕事をしっかりと行い、酒と女に現(うつつ)を抜かすなという戒めの意味が込められている。

人の感じ方はそれぞれ。なんだか、えらく現実的な教訓だと感じる人もいるだろう。しかし私は、これこそが「父の愛情」だと思う。なぜなら、抽象的な精神論をこんな最期の場で遺されても、なかなか「子」としては理解できないからだ。精神論を伝えるには、親と一緒にいる時間があってこそ。長い時間の中で、親の背中を見て、「ああ、そういうことか」と肌で感じ取る。身近な親の存在が、精神論を具体的なものにするのだ。

だから、清水宗治は抽象論とせず、あえて具体的な教え、それも国を治めるときに必ず忘れてはならないことを、最後に遺言として遺したのだろう。いや、精神論はもう必要ないと思ったのかもしれない。それは、5000の城兵を、たったわが身一人で救う姿で伝えられたのだから。父の背中で、もはや十分なのだと。

参考文献
『戦国合戦の謎』 小和田哲男著 青春出版社 2015年8月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学研研究社 2008年9月
『大図解戦国史』 小和田哲男ら著 平凡社 20014年1月
『続・秀吉に備えよ!!』 長浜市長浜城歴史博物館著 サンライズ出版 2014年7月
『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月
『名将の戦略』 皆木和義著 クロスメディアパブリッシング 2016年8月
『戦国武将名言録』 楠戸義昭著 PHP文庫 2006年7月

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