世界三大美女と言えば、古代エジプトの女王・クレオパトラに、中国唐代の皇妃・楊貴妃。そして、日本代表として名高いのが……小野小町(おののこまち)ですね!
美貌の歌人として知られている小町の生涯は謎に包まれていて、わからないことが多いと言います。おかげで人々のイマジネーションが搔き立てられたのか、さまざまな伝説が残っています。ミステリアスな美女の足跡をたどってみました。
『百人一首』にも選ばれるほどの優れた歌人だった!
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」。これは、小倉百人一首に収録された小町の歌です。歌の意味は、「いつの間にか、花の色もすっかりと色あせてしまいました。降る長雨をぼんやりと眺めているうちに」。花にたとえて、私の美しさも色あせてしまったと嘆いているのですが、美人でなければ作れない歌ですね。やはり絶世の美女だったのでしょう。
小町は百人一首に選ばれるだけでなく、六歌仙※や、三十六歌仙※の1人にも数えられていました。才色兼備の歌人だったことがわかります。
語り継がれる小町伝説
小町の出自や身分ははっきりとしませんが、仁明天皇(にんみょうてんのう)に仕えていたと伝えられています。宮中ではその美しさに多くの男から好意を持たれますが、誰にもなびかなかったのだとか。
そんな小町のプライドの高さから生まれた伝説があります。深草少将(ふかくさのしょうしょう)は恋い焦がれて求愛しますが、「百夜通い続けたら契りを結ぶ」と小町から告げられます。毎晩徒歩で通い続けますが、九十九夜まで通ったところで、大雪のために深草少将は凍死してしまいます。この深草少将にはモデルがいたようです。
「百夜通い(ももよがよい)」の伝説をもとにした謡曲に『通小町(かよいこまち)』や『卒塔婆小町(そとばこまち)』があり、度々上演されています。これらは小町物と呼ばれ、人気の高い作品です。
京都・補陀洛寺で知る哀れな最期
京都市に小町寺と呼ばれる寺があります。正式名は補陀洛寺(ふだらくじ)で、終焉(しゅうえん)の地として知られています。宮廷で華やかな生活を送っていた小町は、仕えていた天皇が崩御すると宮廷を去り、諸国放浪の旅に出ます。そして80歳でこの寺にたどり着き、亡くなったと伝えられています。補陀洛寺には小町の晩年の像が安置されていますが、絶世の美女の面影はなく、あばら骨が浮き出た老婆の姿。年月を経る残酷さを物語っています。
小町の亡骸はこの地で野ざらしにされました。しゃれこうべの目の穴からススキが生えていたため、風が吹くたびに「ああ、痛い」と叫んだと言います。寺を訪れた僧が手厚く葬って、やっと成仏したのだとか。才能溢れる美女の哀れな最期を思うと、センチメンタルな気分になりますね。
アイキャッチ:国立国会図書館デジタルコレクション
この記事を読んだ方に読んでいただきたいおすすめはこちら
■美女を目の前に、その想い我慢できるの?禁断の「吉原・職場恋愛」事情
■全身タトゥの美人盗賊、雷お新の一生。「私の皮膚を剥いで残しておくれ」遺言のその後