江戸時代に生まれた幕府公認の遊郭、吉原は、歌舞伎や文学、浮世絵などさまざまな芸術作品の題材となった。
吉原が生まれた理由
江戸幕府が開かれてから15年経った1618年、日本橋人形町近辺に吉原が生まれる。それまでの江戸は、都市でもなんでもない平らな場所だった。それが急に幕府の中心地となり、建設ラッシュが起こる。当時の大工や建築の担い手は、ほとんどが男性。彼らがみんな江戸に集まってくる。そこで急遽必要になったのが「性」のエンターテインメントだった。
男性はどのようにして遊女と遊ぶか
吉原で男性が遊女と遊ぶ時のシステムは大きく分けてふたつある。遊女がいる遊郭に直接行くか、引手茶屋に行くか。直接遊郭に行かず、引手茶屋へ行くことにはメリットがあった。そこには吉原のプロがいて、客の好みを聞いたり懐具合を探ったりして、吉原での遊びをアレンジしてくれるのだ。
さらに、馴染みの遊女がいれば客がきた連絡を遊郭に入れてくれる。直接遊郭へ行くと、その遊女に既に客がいて長く待たされたり、運が悪いとバッティングしたりする場合もあったのだ。それが引手茶屋へ行けば、リスクを避けられる。男性たちは、馴染みの遊女の都合がつくまで、引手茶屋で煙草を吸ったりお酒を飲んだりして過ごしていた。
豪華絢爛な花魁道中
引手茶屋での一番の贅沢といえば、遊女を遊郭から呼ぶことだった。大きな店のトップクラスの花魁の中には、引手茶屋を通さないと会うことができない者もいた。そんな彼女たちが大通りを練り歩き茶屋へ向かう様子は「花魁道中」と呼ばれ、江戸中の注目を集めた。通りを眺める人々は大いに盛り上がり、その様子は浮世絵にも描かれる。
しかし、遊女を引手茶屋へ呼ぶには、とんでもない大金が必要だった。引手茶屋を通した遊女の手配は、すべて引手茶屋が行うため、遊郭への支払いも引手茶屋にまかせることになる。客は財布を出さずに遊女との疑似恋愛を楽しめるかわりに、一体いくらかかっているのか勘定がわからない。これで散財して身を崩した男も数知れず、こうした様子が題材となった歌舞伎の演目もある。
多くの者は眺めることしかできない
遊郭で直接遊女と遊ぶ場合、男性が格子(こうし)越しに遊女を品定めできる場所があった。これを張見世(はりみせ)と呼ぶ。江戸時代、多くの男性は貧しく、遊女と遊ぶことができなかったため、彼女たちをただ眺めることしかできなかった。実は、吉原は火事が多く、4、5年に1回は起こっている。散財して身を崩した男やただ眺めることしかできず苦しんだ男たちが遊郭に放火していたといわれる。
江戸の性のエンターテインメント、吉原。遊女と遊ぶにはさまざまなルールとリスクがある。吉原を知ってから江戸の芸術作品をながめてみると、見え方が変わってくるかもしれない。
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