今、70歳オーバーが熱すぎる。
一体、何の話かというと。先日行われたアメリカ合衆国の大統領選である。両党から出た候補者は、共に70歳オーバー。超大国を率いる指導者が、である。正直いって、驚いた。酸いも甘いも嚙み分けて、そんじょそこらの衝撃にもびくともしない。そんな年齢だからこそ、大国を分断するも再統合するも、いかようにもできると思われたのか。
にしても、私の両親もこの年齢に属するが。彼ら世代には本当に恐れ入る。若者よりも超アクティブで、未だ溢れんばかりの向上心は、私からみても眩しすぎる。ちなみに、今回の記事の主役の方も、そんなタイプといえるのだろうか。
なにしろ、苛烈ながらも気遣いに長けた複雑極まりない主君「織田信長」に、近習として仕えたのだから。
その名も「武井夕庵(たけいせきあん)」。
天正9(1581)年時点で、既に70歳を超えていたとされる老近習である。
今回は、バイタリティーの塊ともいえる信長にとって、欠かすことのできない存在となった「武井夕庵」にスポットを当てる。若い世代の家臣にはない部分を補いつつ、信長を諫めることも厭わなかった老近習。
織田信長も認めたその人間的魅力とは?
それでは、早速、ご紹介していこう。
じつは、生え抜きの家臣ではなく転職組?
織田信長の家臣は、若武者が多くて、なぜか美形。じつに、そんなイメージを持つ人が多い。やはり、信長に寵愛された「森蘭丸(乱、成利)」の影響だろうか。なんとも、偏ったイメージが先行しているように思えて仕方ない。
ただ、実際はというと。美形の小姓が注目されただけで、もちろん、多種多様な家臣が信長のそばで仕えていた。若武者のみならず、出身も年齢層も幅広い家臣たち。そのうちの1人が、今回の記事の主人公である「武井夕庵」だ。
この夕庵、もとはといえば織田信長の家臣ではない。
じつは、美濃(岐阜県)斎藤氏の書状の中で、その名が何度も現れる。どうやら、夕庵は、文書作成業務を主とする「右筆(ゆうひつ)」として、斎藤氏三代にわたって重用されていたようだ。
しかし、永禄10(1567)年、斎藤氏は織田信長に滅ぼされる。
この事実が、夕庵の人生を変えたようだ。明確な時期や経緯は不明だが、この頃に織田信長の家臣になったと推測される。つまり、彼は出仕先を変えたのである。現代でいうところの転職といえるだろう。
さて、「近習」として信長に仕えた武井夕庵だったが、メキメキとその頭角を現す。
なんといっても、主君は、半端ない実力主義を採用する織田信長。
確かに夕庵は若くはなかったが、その分、知識と経験は相当のもの。忙殺気味の信長からすれば、いつしか欠かせない秘書のような立ち位置に。そのカバーする範囲は非常に広く、結果的に信長からも重用されたようだ。
客の取次などの「奏者(そうしゃ)」の業務もあれば、「副状(そえじょう)」の発給も。ちなみに、副状とは、主君の朱印状の説明書きのようなもの。発行された経緯や朱印状の細目の説明などを書いていたようだ。
夕庵の業務はこれだけではない。使者を務めるなど、外交関係でも活躍の場はあった。例えば、毛利氏との交渉の窓口を担っていたのは、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と夕庵であった。非常に重大な役割を任せられていたといえる。
実際に、どれほど、織田信長に重用されていたかというと。
太田牛一が記した『信長公記』には、重大な場面で何度も「武井夕庵」の名前が登場する。
天正2(1574)年3月28日。
奈良の東大寺にある正倉院が開かれた。もちろん、勅使として派遣されたのは、柴田勝家や丹羽長秀(にわながひで)ら。合戦では先頭に立ち織田軍の要となる家臣たち。そんな彼らと同じく派遣されたのが、武井夕庵であった。事務方だが、卒なく立ち回ることができる。その能力が買われたのだろうか。
さて、彼らのお目当てはというと。
収蔵されている香木「蘭奢待(らんじゃたい)」である。
「蘭奢待」とは、正倉院に伝世する香木の1つ。
この「蘭奢待」の3文字の中には「東大寺」の3文字が含まれるため、「東大寺」との呼び名も。また「黄熟香(おうじゅくこう)」との名もあり、香道を嗜む武士たちの憧れの的であった。実際に、これまで小片を所望する将軍は何人もいたのだが、なかなか願いは叶えられず。
そんな中で、蘭奢待の小片の切り取りに成功したといわれるのが、室町幕府8代将軍足利義政(よしまさ)。そして、もちろん、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長も、である。
なかなか見ることも触れることもできない貴重な香木の「蘭奢待」。
その切り取りに、武井夕庵は立ち会うことができたのである。このような晴れ晴れしい機会に選抜されることからしても、当時、夕庵は既に信長から一定の評価を受けていたといえる。
信長は家臣に何を求めていたのか?
天正6(1578)年正月1日。
新年の挨拶として、近隣諸国の大名や武将たちが安土城の織田信長のもとを訪れた。ただ、いきなり信長へのお目通りがなされるワケではない。
まずは、信長から指名された者たちが「茶の湯」に招かれるのである。
『信長公記』には、このように記されている。
「まず、朝の茶の湯に十二人が招かれた。座敷は右側に勝手の付いた六畳。四尺の縁が付いている。
招かれた者は、織田信忠・武井夕庵、林秀貞、滝川一益、細川藤孝・明智光秀・荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁。以上。…(中略)…茶頭は松井友閑がつとめた。以上」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
招かれた12人の中に武井夕庵が含まれているのは当然だが、注目したいのは、この順番である。「織田信忠(のぶただ)」とは、信長の嫡男である。既にこの時点で、信忠に家督が譲られている。つまり、織田家を背負って立つ信忠の次に、武井夕庵の名が挙がっているのである。
ここで、1つの謎が。
どうして、彼はこれほどまでに信長から重用されたのか。
確かに実力主義を貫く信長のことだから、夕庵が有能であったのは間違いない。しかし、到底、それだけとは思えないのである。特に、若い世代の近習らは、戦場において親衛隊の役割もこなしている。そういう意味では、若い世代の彼らの方がより必要とされるはず。出番も自ずと増えてくるだろう。
しかし、だからといって、武井夕庵の地位が落ちた形跡は見当たらない。
なんだかな。
もう、こうなれば、単に信長の好みなんじゃないのかと疑いたくもなる。
いや、じつは、案外当たっているのかも。
その裏付けともとれるのが、冒頭の画像。「山姥(やまうば)」の絵である。
老近習の記事のトップに、なぜ「山姥」の画像なのかと訝しんだ方も多いだろう。じつは、この武井夕庵、非常にユーモアに溢れた人物なのである。そんな彼の魅力が全開となったのが、織田信長の有名なこの行事。
天正9(1581)年2月28日。京都にて行われた「馬揃え(うまぞろえ)」である。
「馬揃え」とは、近隣諸国の大名や武将らより集めた駿馬を、順次、馬場に入場させる催し物だ。軍馬の優劣や調練の状況などの検分ができ、加えて味方の士気を高め、敵方への威圧の効果もある。簡単にいえば、軍事パレードのようなものといえるだろう。
ただ、織田信長の馬揃えは、パフォーマンスの意味合いも大きかった。名馬の中でも特に優れた馬が多数。衣装から馬具まで趣向を凝らして行われ、天皇も大いに楽しまれたのだとか。もちろん、信長本人もご自慢の馬に乗って、颯爽と登場。当然ながら民衆も沸いた。
先ほどの『信長公記』にも、この「京都馬揃え」の様子が記されている。
「信長の装いは描き眉の化粧をし、金紗のほうこうを着けた」
(同上より一部抜粋)
主君である信長も、このようないでたちである。
そして、お待たせしました。ようやくの武井夕庵である。
彼の独特のセンスが、ここぞとばかりにキラリと光ったのが、コチラ。
「七番は、武井夕庵。山姥の扮装をした」
(同上より一部抜粋)
何度もいうが、この時点で70歳オーバーの老近習である。
それも、山姥の姿のままで乗馬したというから、本当に驚く。『当代記』によれば、必死に鞍に取り付く姿が、まさに老女が馬に乗っているようだったとか。
ここに、武井夕庵が重用された理由があると思うのは、私だけだろうか。
要は、武井夕庵という人物は「愛されキャラ」だったのだろう。一般的な感覚を持ち合わせていれば、正親町(おおぎまち)天皇の前で「山姥」の姿になどなれるだろうか。京都の民衆の前で、山姥の姿で馬に乗れるだろうか。
否。
ムリだろう。
人間は見栄を張りたがる生き物である。
やはり、ある程度の年齢となれば、立派な衣装で堂々と登場したいもの。笑われるのではなく、尊敬の眼差しで見られたいと、つい、思ってしまう。
しかし、武井夕庵は違った。
スーパー老近習は、信長が目指す「馬揃え」をしっかりと理解していたのである。そこには、年齢も地位も関係ない。主君に対する老近習ならではの「尽くし」の精神が垣間見えた。
最後に。
織田信長は「描き眉の化粧」。
武井夕庵は「山姥の扮装」。
これぞ、主君あっての家臣。両者に共通するのは「強さ」。
姿形など構わない。1人の人間として、内実に自信があったのだろう。だからこそ、外見や振る舞いで武装する必要がなかった。
信長も夕庵も。
いずれも、「自信の強さ」は人並み以上。
老近習は、あの信長に対して何度も諫言したと記録に残っている。それでも、疎まれずに重用され続けた。
ハジける時には、限界突破。
周囲に流されず、芯もブレない。
とことん突き抜ける、そんな武井夕庵の強さに、信長は惹かれたのかもしれない。
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参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『信長の親衛隊』 谷口克広著 中央公論新社 2008年8月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月