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2021.02.06

4時間睡眠でトレーニング?異例の大出世を果たした井伊直弼、その才能は「埋木舎」で育まれた!【滋賀】

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突然ですが、クイズです。1963(昭和38)年放送のNHK大河ドラマの1作目。主役として描かれた歴史上の人物は誰でしょう?

織田信長? 宮本武蔵?

……答えは、近江彦根藩の第15代藩主の井伊直弼(いいなおすけ)です。

井伊直弼といえば、幕末に日米修好通商条約を結び「安政の大獄」で反対派を弾圧し「桜田門外の変」で水戸藩士らに暗殺された大老として知られています。大河ドラマの第1作目の主役が直弼であることを意外に思われた方もいるかもしれません。しかしその一方で、彦根藩の藩政改革で藩士の教育や人材登用を見直し「名君」と呼ばれ、世界を見据えて開国を決断した偉人としても高く評価されているのです。イギリスの詩人バートン・マーチン氏は直弼の偉大さを称えて、次のような詩を贈っています。

Little people see the Biwako (小人は地元しか考えない)
Big people see Japan (大人は日本しか見ない)
Great people see the world (偉人は世界を見る)

直弼は、彦根藩主である井伊家の14男。本来であれば部屋住みで人生を終えるはずでしたが、32歳でチャンスを掴み、彦根藩主、そして大老へと異例の出世を果たしました。そんなドラマチックな直弼の人生の中で、とりわけ濃密な時間が17歳から32歳までの15年間であったといわれています。青春時代ともいえるその時間を過ごした場所、それが滋賀県彦根市にある「埋木舎(うもれぎのや)」です。

井伊直弼が46年の生涯のうち、約3分の1の時間を過ごした場所

直弼は15年間、この屋敷で精神の鍛錬に励みました。彼の人格は、この屋敷で形成されたと言っても過言ではありません。では一体、この屋敷でどのような生活を送っていたのでしょう? 埋木舎での生活を紐解く前に、まずは井伊家と彦根城の関係から遡ってみましょう。

井伊直政の意思を継いで生まれた「彦根城」

直弼の先祖は、15歳であの徳川家康に見出されたといわれる彦根藩初代藩主、井伊直政(1561-1602年)。小田原攻めや関ヶ原の戦いで「井伊の赤備え」と敵軍から恐れられた、屈強な武将でした。直政は関ヶ原合戦後に拠点とした佐和山城から、新たな拠点への移転を目指していましたが、関ヶ原で受けた鉄砲傷がもとで志半ばに亡くなってしまいます。

その後は息子たちが直政の意思を受け継ぎ、彦根山を拠点とする計画と工事を推進。元和8(1622)年、ついに完成したのが彦根城です。彦根城は東海や北陸に睨みをきかす琵琶湖水軍の采配の要。彦根の城下町は大きく栄えました。

彦根城中で生まれるも、15年間の隠居生活へ

彦根城の完成から約190年後。文化12(1815)年、彦根藩井伊家11代の直中(当時50歳)の14男として、直弼は彦根城中で生まれます。幼名は鉄之助。「鉄のように意思の強い人になるように」との願いを込められて付けられた名のとおり、明確なビジョンを持ち、自分の意見をハッキリと持つ青年へと成長しました。

天保2(1831)年、直弼が17歳の頃、直中が亡くなります。家督を継ぐ兄と異なり、直弼は14男。藩の定めに従い、養子に出るか、彦根城を出て質素な生活を送らなくてはなりません。そこで、弟である15男・直恭とともに彦根城佐和口御門前に位置する尾末町の屋敷に転居します。

直弼と弟は、その後、何度か養子縁組に臨みました。弟は養子の面接に受かり、日向延岡藩との縁組が決まります。しかし、直弼はなかなか決まりません。持ち前の意思の強さもあって、面接で意見を戦わせる場面もあったのでしょう。結局、養子として採用されることはなく、32歳までの15年間を尾末町の屋敷で孤独に過ごすことになるのです。直弼はその心境をこのように歌い、屋敷を「埋木舎」と称するようになりました。

世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋もれておらむ心なき身は

彦根城へ登城する武士たちを目の前にしながら、自分は城に入ることができない。直弼は自分の境遇に落ち込み腐ることなく、むしろ悔しさをバネにして、あらゆるジャンルの鍛錬に励んでいったのです。

埋木舎の目の前の景色

埋木舎でのストイックなトレーニング

国学、和歌、俳句、武道、茶道、座禅、謡曲、陶芸、書、画、政治事情……直弼が埋木舎で過ごした15年間の中には「予は1日に2時(4時間)眠れば足り」なんて時期もあり、寝る間も惜しんで文武両道の修行に打ち込んでいたようです。

その成果もあって、武道(兵学、剣道、居合、槍術、弓術、馬術など)は「殿様稽古」の範疇を超えた、相当高いレベルにまで達しました。さらに芸能のジャンルにおいても「ちゃ(茶)・か(歌)・ぽん(謡曲と鼓)」は達人の域まで磨かれたといわれています。直弼は「茶道と仏道(禅)、歌道が三位一体で、精神修行である」という考えのもと、禅をバックボーンとした精神主義、それを中心とする茶の湯、そしてその心が通じた歌の表現を極めました。ここからは直弼が達人の域まで極めたとされる「茶の湯」と「和歌」の真髄を見ていきましょう。

直弼が座禅を組んでいたとされる部屋

コミュニケーションを大切にする「茶の湯」

埋木舎の茶室で自らの茶の湯を追求し続けた直弼。稽古はもちろんのこと、流派を超えて古書を読み、研究に没頭したといわれています。
直弼の辿り着いた茶の境地は、器や書画など物質的な豪華絢爛さに固執せず、客人との一期一会のコミュニケーションを大切にする「心の茶」でした。直弼は、自身の茶の湯観についてこのように語っています。

何回同じ人にあってお茶を出してもその都度大きな時の流れからしてその会ごとに異なるものである。客人の気持ちになって全力でもてなさなくてはならない。いつも同じ物を使い、飾り、手前まで尋常して、心をひかえあらため、もてなすことこそ茶道の大本である。

向き合う人が互いに精神の深いところで繋がることを目的とした「心の茶」。直弼は、茶の湯によって対話力や観察力を鍛え上げたともいえるでしょう。直弼の茶会の記録帳『水屋帳』の中には、井伊家奥向の女性や出入りの職人が参加したことが記録されており、決して身分で差別をしない直弼の温かな心も現れています。さらに直弼は、自身の茶を伝えるために茶会の開催に記録研究書の執筆、弟子の育成、道具の制作にいたるまで精力的に行いました。

茶室「澍露軒(じゅろけん)」。名前の由来は法華経の「甘露の法雨を澍て、煩悩の焔を滅徐す」の一文から。もともと埋木舎には茶室がなかったとされており、直弼の命で廊下を改造したのではないかといわれている

クリエイティブな才能が光る「和歌」

15年間の埋木舎の生活において、埋木舎は直弼の宇宙であり、生活の全てだったのでしょう。クリエイティブな才能を発揮し、屋敷での生活を和歌に遺しています。

ならははや しらぬ雲井は 余所にして 常にしたるる 庭の柳に

直弼の和歌の中でも、特に多いのが柳の木にまつわる歌です。風に逆らわぬ柔軟な姿勢をもつ柳の木の姿を愛していたのでしょう。人生訓としても大島蓼太(おおしまりょうた:江戸時代の俳人)作の「むっとして 戻れば庭に 柳かな」という俳句を好み、何か腹立たしいことがあったとしても、埋木舎の庭にある柳の木を見て、柳のように無理に逆らわず、心を安らかにしていたといわれています。

直弼が乗ったとされる御籠

直弼は、弘化3(1846)年に埋木舎を出た後も、和歌を通じて心情を表現し続けました。安政5(1858)年の大老就任時には…….

梓弓かけ渡したる一筋の 矢たけ心ぞ武士の常

桜田門外の変の2カ月前、自らの肖像画に添えた一首は……

あふみの海 磯うつ波のいく度が 御世にこころをくだきぬるかな

そして安政7(1860)年、桜田門の変でこの世を去る1日前にはこんな歌を遺しています。

咲きかけし たけき心の花ふさは ちりてぞいとど香の匂ひぬる

直弼の才能を育てた「埋木舎」

直弼は、出世してまもないときでもハッキリと意見する態度で周囲を驚かせたといわれています。どんな状況下でも決して腐らず、自らモチベーションを上げて努力し続ける。埋木舎でのそんなストイックな生活が、大老・井伊直弼の人格と器量を形成したといえるでしょう。

現在、埋木舎は、直弼の側役だった大久保小膳(おおくぼこぜん)に井伊家から明治4(1871)年贈与され、それ以降、大久保家が代々保存、継承しています。埋木舎は、現在も変わらず彦根城の目の前にあり、敷地内に一歩踏み入れば、直弼の過ごした15年間の生活に思いを馳せることができます。百聞は一見に如かず。直弼の知られざる一面を確かめに、訪れてみてはいかがでしょう。

埋木舎 情報

住所:〒522-0001 滋賀県彦根市尾末町1-11
開館時間:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)/12月20日~2月末は閉館
公式サイト:https://www.umoreginoya.com/