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2020.12.09

織田信長、まさかの裏切りで九死に一生!戦国の撤退戦「金ヶ崎の戦い」

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あの織田信長の身に危険が迫った事件といえば、非業の死を遂げた本能寺の変を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、それまでの信長も、決して負けなしだったわけではありません。特に、妹婿である浅井長政が裏切った時は、命からがら京へ逃げ帰ったのです。今回は、信長や木下秀吉、そして明智光秀も経験した壮絶な撤退戦「金ヶ崎の戦い」について見ていきましょう。

織田・徳川連合軍の越前への侵攻中、浅井長政が裏切った!

事の発端は、元亀元年(1570)4月の織田信長による越前(福井県)侵攻でした。当時の信長は、室町幕府の第15代将軍・足利義昭を擁し、各地の大名に上洛するよう求めていました。要するに、ほとんど実権のない足利将軍を看板にして「挨拶に来い」と催促していたわけです。

しかし、越前を治めていた戦国大名・朝倉義景はこれに従いませんでした。そのため、信長は徳川家康と連合を組み、3万余りの軍勢で義景を討伐すべく越前に攻め込んだです。織田・徳川連合軍は戦いを優勢に進め、4月25日から26日にかけて、朝倉側の天筒山城や金ヶ崎城を攻め落としました。これらの城があった場所は、現在の福井県敦賀市金ヶ崎町にあたります。

ところが、ここで予想外の事態が発生。何と、信長と同盟関係にあった近江(滋賀県)の浅井長政が裏切り、挙兵して信長の退路を断ったのです。よく知られている通り、長政の妻は信長の妹・お市の方。まさか妹婿に裏切られるとは思っていなかったのか、信長も最初はデマだと思い信じなかったといわれています。

もっとも、浅井氏と朝倉氏は、以前から非常に深い関係にありました。朝倉氏を攻める時は、事前に長政に相談する約束になっていたにも関わらず、信長がそうしなかったという説もあります。裏切りはやむをえないこととも考えられ、浅井家としても苦渋の決断だったのではないでしょうか。

ちなみに、信長が長政の裏切りに気づいた理由としては「お市の方が陣中見舞いと称して、両端を紐で縛った小豆の袋を送り、兄が『袋の鼠』であると伝えた」というエピソードがよく知られています。これは後世の創作に過ぎないという説が有力ですが、兄と夫の板挟みになったお市の方が、何らかの方法で信長に危機を伝えようとした可能性はあるでしょう。

出典元:japan-map.com

いずれにしても、長政が信長を裏切ったのは事実です。地図で見るとよくわかりますが、福井県の南側を攻撃しているところに滋賀県から攻め込まれると、完全な挟み撃ちになります。かくして信長は、絶体絶命の危機に陥りました。

信長、命がけの「朽木越え」。京への帰還を果たす

何とかして京まで逃げなければ! 撤退を決断した信長でしたが、挟み撃ちされている状態から逃げ出すのは、そう簡単ではありません。何しろ、金ヶ崎から京都に最短ルートで移動しようと思えば、どうしても近江を通らなければならないのです。進軍の際は、琵琶湖の西岸を通った織田軍でしたが、この地を支配する浅井氏を敵に回した今となっては、まさか同じルートで帰るわけにもいきません。

そこで信長が選んだのは、金ヶ崎から越前を南下して近江に入り、進軍ルートよりも少し西側の朽木(くつき)という場所を通る方法でした。この地を支配していたのは朽木元綱という武将で、浅井氏の支配が及んでいなかったのです。もちろん、ここで元綱が「お前は通さん」と敵に回れば、もはや信長に打つ手なし、万事休す。

しかし、元綱は信長を通しました。元綱が信長に味方した理由は、朽木氏と浅井氏の関係が良好でなかったからとも、将軍家との関係が深かったからともいわれています。信長の配下であった松永久秀が元綱を説得したという説もありますが、詳細は定かではありません。

とにかく、信長は無事に「朽木越え」を果たし、近江を通過することができました。そして、元亀元年の4月30日(現代の西暦に換算して1570年6月3日)、何とか京に帰還したのです。金ヶ崎を出発したのは4月28日(6月1日)とされているので、敦賀~京都間を2~3日かけて移動した計算になります。

「割と余裕じゃない?」と思うかもしれませんが、ルートには険しい山道が含まれ、しかも敵地のすぐそばであることに留意しなければなりません。織田・徳川連合軍の兵力は3万ほどだったとされていますが、京に到着した時、信長についてこられたお供は『継芥記』によると10人程度しかいなかったといわれています。これだけでも、どれだけ必死に逃げたのかがわかろうというもの。まさに九死に一生、信長最大の危機だったといっていいでしょう。

これから3年後、信長は再び越前・近江に侵攻し、朝倉氏や浅井氏は滅びることになります。あの時、信長を逃していなければ……!

最も危険な「殿(しんがり)」は、あの秀吉や光秀が務めていた

さて、どうにか無事に逃げ延びた信長でしたが、もちろん全軍で一斉に逃げたわけではありません。撤退戦においては、最後尾で敵軍を食い止める殿が絶対に必要になるからです。そして、金ヶ崎の戦いで殿軍を務めたのが、池田勝正、木下秀吉、そして明智光秀でした。

出典元:写真AC

言うまでもなく、殿は極めて危険な仕事です。身を挺して本隊が逃げるまでの時間を稼ぐわけですから、自分たちは討ち死にも覚悟しなければなりません。そのため、決してただの捨て駒ではなく、本当に信頼できる武将が命じられるのです。この点からも、信長が秀吉や光秀をいかに頼りにしていたかがわかります。

秀吉や光秀は金ヶ崎城を守り、朝倉軍の攻撃を必死に防ぎました。そして、自分たちも少しずつ撤退し、信長から数日遅れて京に帰還したのです。このように、絶体絶命の危機にも関わらず、織田軍は非常に統率の取れた動きを見せ、被害を最小限に食い止めることができたのでした。

……ですが、ご存知のように、信長は本能寺の変で光秀に討たれます。光秀にしてみれば、殿を任されるほどの信頼を受け、実際に命をかけて守った主君を、今度は自分が裏切って殺すことになったわけです。そして、その光秀を三日天下で終わらせたのが、共に殿として戦った秀吉なのです。何という皮肉でしょうか。

ちなみに、激戦の舞台となった金ヶ崎城は、本丸の跡だけが残っています。付近は小高い丘になっており、敦賀湾の美しい景色を望めるので、歴史ファンの方はぜひ訪れてみてください。

金ヶ崎の戦いは、歴史の転換点になっていたかもしれない

信長は、一歩間違えば金ヶ崎で命を落としていた可能性すらあります。そうなれば、後の歴史が大きく変わったであろうことは、想像に難くありません。

もちろん、殿を務めた光秀や秀吉が討ち死にしていても、歴史の流れはまったく違ったものになっていたでしょう。

戦国時代にはこのような薄氷を踏むような事態が多くあり、信長や光秀、秀吉だけでなく多くの武将たちが命からがら生き延びたエピソードは枚挙に暇がありません。逆に、もしかしたら今では全く知られていないような雑兵が名君となっていたifも存在するかもしれません。

「もしも」の可能性を想像しつつ、戦国武将や名も残っていない兵たちの壮絶な人生を追いかければ、歴史をより楽しめるのではないでしょうか。

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書いた人

讃岐うどんと瀬戸内国際芸術祭が有名な香川出身の物書き。うどんを自分で打つこともできるが、自宅でやると家中粉まみれになるのでなかなか作らせてもらえない。幼少期から茶道や琴など嗜んでいるいまどき珍しい和風っ子。しかし、甘露は和菓子よりもケーキなどのスイーツが大好きな和洋折衷な人間。