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永遠のふたり 白洲次郎と正子

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Culture
2019.08.26

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】

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2.なぜ謙信と信玄は川中島をめぐって戦い続けたのか?

史上屈指の劇的な名勝負

鞭聲(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を過(わた)る 
暁(あかつき)に見る千兵の大牙(たいが)を擁(よう)するを
遺恨(いこん)なり十年一剣を磨き 
流星光底長蛇を逸す

幕末の詩人・頼山陽(らいさんよう)の漢詩でも知られる川中島合戦。実は謙信と武田信玄(たけだしんげん)は川中島で、12年間に5回も戦っているのですが、両者の一騎討ちが行われた激戦として知られるのが、永禄4年(1561)の第四次川中島合戦でした。劇的な名勝負とされるこの戦いには今、さまざまな疑問点も指摘されており、詳細を語ると、それだけで本稿が終わってしまいます。ここでは通説と疑問点を簡単に紹介しておきます。

川中島古戦場(長野市)

信玄を討ち果たす覚悟

そもそもなぜ、謙信と信玄は川中島をめぐって戦い続けたのでしょうか。川中島は千曲(ちくま)川と犀(さい)川に挟まれた中洲で、信濃(現、長野県)一といってよい穀倉地帯でした。甲斐(現、山梨県)から信濃全土の制圧を目指す信玄にとって、残すは北信濃の川中島一帯であり、何としても押さえたかったのでしょう。当時、信玄は相模(現、神奈川県)の北条(ほうじょう)氏、駿河(現、静岡県)の今川(いまがわ)氏甲相駿(こうそうすん)同盟を結んでおり、領土拡大は西か北に限られていたのです。一方、謙信にすれば川中島は居城の春日山から約70kmの近距離であり、越後防衛の観点からも奪われるわけにはいきませんでした。

永禄4年6月末、謙信が1年近くに及ぶ関東の陣から越後に戻ると、京都の将軍足利義輝(あしかがよしてる)から書状が届いていました。内容は信玄によって信濃を追われた信濃守護小笠原長時(おがさわながとき)の帰国を、(関東管領として)支援してほしいというもので、ここに武田信玄に付与されていた信濃守護は将軍によって否定されます。一方の信玄は、川中島に実効支配のための海津(かいづ)城を完成させていました。関東では信玄に小田原城攻略を妨害された謙信は、川中島を死守するため、さらに将軍からの武田討伐の大義名分も得て、信玄を討ち果たす覚悟を固めます。時に謙信32歳、信玄41歳。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。