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2019.08.26

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】

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4.出陣すること13回。謙信はなぜ関東平定にこだわったのか?

三国峠

困難を極めた関東平定

謙信を主人公にした海音寺潮五郎の小説『天と地と』や、山本勘助を主人公にした井上靖の小説『風林火山』(どちらも大河ドラマになっています)は、第四次川中島合戦をクライマックスに物語が終わりますが、謙信はこの時、32歳。戦いの日々はまだまだ続きます。

実際、第四次川中島合戦のわずか2ヵ月後には関東に出陣。武田信玄と連携する北条氏康(ほうじょううじやす)が攻勢に出たためで、謙信は関東で越年しました。永禄3年(1560)の初めての関東出陣以来、謙信は生涯で関東に出陣すること実に13回、合戦は37回を数えます。まさに謙信の主戦場は関東だったといっていいでしょう。

逆にいえば、それほど関東平定は困難を極めました。北条に向かえば武田が信濃を狙い、武田と対峙(たいじ)すれば関東で北条が蠢動(しゅんどう)する。謙信が関東に出陣すると関東諸将は従うものの、常に形勢をうかがい、離合集散を繰り返すばかり。諸将にすれば生き残るためにやむを得ないことだったのでしょうが、謙信の徒労感は募ったはずです。そんな情勢に、謙信を支援しようと滞在していた関白近衛前久(このえさきひさ)は、永禄5年(1562)に京都に帰ってしまいます。それでも謙信は三国峠を越えて関東出陣を続けました。関東管領としての責務を果たし、秩序回復をまず関東で実現させたかったのでしょう。

将軍義輝暗殺の背景

謙信は永禄4年の暮れに京都の将軍義輝より「輝」の字を与えられ、名を政虎から輝虎(てるとら)に改めます。将軍義輝は、謙信の関東平定への努力を最もよく知る理解者でした。ところが永禄8年(1565)、凶報が届きます。義輝が三好(みよし)三人衆や松永久通(まつながひさみち)らによって暗殺されたのです。享年30。義輝は永禄7年(1564)と死の直前の2度、北条氏康に謙信との和睦(わぼく)を呼びかけていました。もし北条との和睦が成れば、関東平定はほぼ実現でき、謙信軍の上洛が可能になります。三好三人衆や松永は、軍勢を率いた謙信が畿内に現われることを最も恐れていました。

義輝の死に対する謙信の悲嘆は、想像するに余りあります。「上洛の折、わしが三好勢を討っていれば、あるいは関東が平定できていれば、わしが駆けつけ、お守りできたものを」。謙信は喪に服しますが、義輝の死によって時代はまた動き始めていました。義輝の弟・義昭(よしあき)と、台風の目となる男・織田信長(おだのぶなが)の登場です。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。