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2019.08.26

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】

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5.北条氏康と武田信玄・・・ライバルたちは謙信をどう見ていたのか?

牛つなぎ石(松本市)。謙信が送った塩を運ぶ牛がつながれたという伝説がある

謙信の「敵に塩を送る」は史実なのか

謙信と信玄が第四次川中島を戦う1年前、東海では一大変事が起きていました。駿河・遠江(とおとうみ、現、静岡県)・三河(みかわ、現、愛知県)を領する今川義元(いまがわよしもと)が尾張(おわり、現、愛知県)の桶狭間(おけはざま)で織田信長に討たれたのです。義元の跡を継いだ息子の氏真(うじざね)は将器に乏しく、家臣の離反が続きました。川中島の激闘後、武田信玄は甲相駿同盟の外交方針を転換。今川氏と距離を置き始め、永禄11年(1568)には同盟関係を破棄、駿河への侵攻を始めます。対する氏真は北条氏と相談し、海のない甲斐に塩を輸出することを禁じました。一種の経済制裁です。

これを知った謙信は「甲斐に塩止めをして、困るのは領民である。不勇不義の極みである。わしは武田と矛(ほこ)を交えて久しいが、米や塩で民を苦しめようと思ったことはない」として、越後から甲斐に塩を流通させました。有名な「敵に塩を送る」逸話ですが、実際は謙信が塩を送らせたのではなく、武田領に向かう塩商人を止めなかったということのようです。ただし謙信は塩商人に「武田の足元を見て高く売ってはならぬ。必ずいつもと同じ値段で売るように」と厳命しました。相手の弱みにつけ込むことを嫌う、謙信らしい逸話です。なお信玄はこれに感謝し、返礼の太刀(塩留めの太刀)を謙信に贈りました。

北条氏の家紋「三ツ鱗(うろこ)」

ライバルたちの言葉

永禄12年(1569)、信玄に駿河を奪われた今川氏真は、正室の実家である北条氏を頼って落ち、大名としての今川家は滅びます。この事態に北条氏康は、謙信に和を請い、「越相(えつそう)同盟」が結ばれることになりました。関東平定を目指す謙信にとっても、歓迎すべきことだったでしょう。同盟の証として、氏康の7男で17歳の三郎が人質として送られてきますが、謙信は三郎を養子にして景虎(かげとら)と名乗らせ、長尾政景(ながおまさかげ)の娘(景勝〈かげかつ〉の姉)と娶(めあ)わせます。氏康は息子の厚遇に感激し、「愚老において本望(ほんもう)満足これに過ぎず候」と礼状を送りました。謙信は北条の血を引く景虎に関東管領上杉家を継がせて、関東の平穏を図り、もう一人の養子景勝には謙信の越後長尾家を継がせるつもりではなかったか、ともいわれます。

越相同盟により、関東が落ち着きを見せ始める中、京都では前年に織田信長に奉ぜられて上洛した足利義昭が将軍に就任。殺された将軍義輝の弟です。信長は京から三好勢を追い払いますが、次第に義昭と対立を深め、義昭は諸勢力に「打倒信長」を呼びかけました。

武田信玄像(甲府市)

そんな中の元亀2年(1571)10月、北条氏康が没。すると息子の氏政(うじまさ)は掌(てのひら)を返して謙信との同盟を破棄、再び信玄と同盟します。これによって謙信はまたも北条・武田と敵対しますが、信玄の目は西に向いていました。北条との再同盟で後顧の憂いが消えた信玄は、将軍義昭の呼びかけに応じ上洛戦を開始。徳川家康(とくがわいえやす)を打ち破り、三河に至りますが、病に倒れ、元亀4年(1573)4月に陣没しました。相次いで世を去った好敵手・氏康と信玄。二人の謙信についての言葉が伝わります。

氏康「信玄と信長は表裏常(ひょうりつね)なく、頼むに足りぬ。謙信のみは請け合ったら、骨になっても義理を通す」

信玄「わしの死後、甲斐に何かあれば謙信を頼れ」

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。