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Culture
2021.01.23

そこに愛はあるんか?恋愛ワード「彼」は明治時代のちょっとエッチな小説から生まれた!?

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今日において恋愛を語るうえで欠かせない言葉、それが「彼(彼女)」だ。彼(彼女)が現代のような恋愛の意味合いを持ち始めたのは、西洋的な“恋愛”の概念が入り込んだ明治以降のことである。

え、そうだったんだ!

明治時代はまさに欧米化の時代であり、洋服、靴、ガス灯、馬車、ざんぎり頭、レンガ造りの建物、太陽暦など、実に多くの西洋文化が入り込んだ。それから、文学のジャンルで言えば自然主義文学もそうだ。そして、その文学を通じて西洋色の強い”恋愛”の概念が持ち込まれた。

英語の「He」に対する訳語として反射的に出てくるのが「彼」という言葉である。「彼」は幕末に「He」に対する翻訳語として生み出された言葉であり、それ以前の時代には現代の私たちが思い浮かべるようなニュアンスはなかった。

明治以前の意味はなんだったんだろう? 気になる……。

現代の意味に近い「彼」が普及するきっかけを作った小説がある。それが田山花袋(かたい)の恋愛小説『蒲団(ふとん)』だ。1907(明治40)年に文芸雑誌『新小説』に掲載され、さらにその翌年『花袋集』の中に収録される形で世に出回ったその作品は明治の文学界にも衝撃を与えた。ここでは、田山花袋が『蒲団』の中で用いた小説技巧に着目しつつ、「彼/渠(かれ)」が時代の中でどう変わっていったかを見ていこう。

源氏物語と「かれ」

「かれ」という言葉自体は、実は平安時代を代表する文学『源氏物語』でも見つけることができる。

そんな昔からあったんですね!

高い教養と豊かな感性をもって表現された日本文学史上の傑作として、時代を超え愛される『源氏物語』。その物語に見る「かれ」は、私たちが想像するものとはちょっと違う。

かれは人の許し聞こえざりしに、御志あやにくなりしぞかし(源氏物語・桐壺)

(現代語訳)あの人は人々がお認め申し上げなかったのに、帝の愛情は大変深かったのであった。

「かれ」とは相応の身分ではないにもかかわらず帝に愛されてしまったがゆえに女御らに嫉妬され、ついには嫉妬から来る心労で亡くなった桐壺更衣を指す。しかも、桐壺更衣は男性ではなく、女性である。多くの現代語訳では「あの人」として解釈されている。

男女関係なく「彼」を使っていたのですね~。「彼(か)の人」みたいなイメージなのでしょうか?

幕末に翻訳語としての「彼」が登場

「彼」という言葉は江戸末期に翻訳語として生まれた(ちなみに、上記で取り上げた平安時代の「かれ」と幕末の「彼」だが、言語学的には関連性の言葉として看做(みな)され得る)。

言語学と翻訳に通じた大澤さんならではの知見!

比較文化論者である故・柳父章(やなぶあきら)氏は、翻訳語としての「彼」が生まれた経緯に対し、自身の著書である『翻訳語成立事情』においてこう記している。

西洋語の三人称代名詞の翻訳語に、「彼」ということばが使われている例は古い。『波留麻和解』(一七九六年)では、zinが「彼人(かのひと)、其人(そのひと)」となっている。(『翻訳語成立事情』柳父章 岩波新書)

『波留麻和解(はるまわげ)』とは寛政8(1796)年に編纂(へんさん)された日本初の蘭和辞典であり、zinは英語で言うところの「his(彼の、彼のもの)」である。

以後、蘭学者は、三人称代名詞に「彼」をよく用い、また、女性を指すときは「彼女」と書いている。(『翻訳語成立事情』柳父章 岩波新書)

江戸時代にも「彼」「彼女」という言葉は存在したが、それは蘭学者の間で使われていた言葉であって、一般の人々には馴染みのない言葉であったことが分かる。しかも、「コレ/ソレ/アレ」に近い意味での「彼」だ。そこに愛はない。

英語の「his」は、オランダ語で「zin」! たしか、大人気漫画『JIN-仁ー』でも蘭方医が出てきた気がします! オランダの影響が強い時代だったのですね。

ちなみに、当時用いられていた「彼女」という言葉。その読みは現代の私たちにお馴染みの「かのじょ」ではない。当時の蘭学者たちは「かのおんな」と読んでいただろうと柳父氏は推察している。

あつ~い愛が詰まった「彼」は明治時代に生まれた

明治時代に入り、欧米の文化が流入するようになると、「彼」は小説家により好んで用いられるようになる。「彼」を自身の作品の中に積極的に取り入れた小説家のひとりが田山花袋である。

自然主義文学作家・田山花袋は「恋愛」をどう描いたか?

出典:酒田市立光丘文庫デジタルアーカイブ所収

田山花袋は明治5(1872)年、群馬県にて生まれた明治を代表する自然主義文学作家である。冒頭でも少し触れたように、自然主義文学とは19世紀末にフランスで生まれた、ありのままの姿を描くことをモットーとする文学ジャンルのことである。田山は『金色夜叉(こんじきやしゃ)』などの書で知られる尾崎紅葉のもとでの修行を経て、小説家の国木田独歩や民俗学者の柳田國男らと交わるなかで、自然主義文学作家としての地位を確立していった。そして、性という人間の生存に必要不可欠とも思われる事象に対し、自然主義文学作家という独自のスタンスから切り込んだのが『蒲団』である。

性のことって恥ずかしくてなかなか話せないなあ、なんて思っていたけど、別に隠すようなことでも大っぴらにできないようなことでもないんですよね。和樂webコンテンツで浮世絵などを知っていくうちに、だんだんそれが分かってきました。

田山花袋は自身の回想録において、『蒲団』は4~5万部の大ヒットとなったと記している。恋愛模様を描いた今日のドラマや映画において程度の差はあれど、性描写シーンは必要不可欠な要素である。『蒲団』という作品が今日の恋愛ドラマや映画のみならず、大衆の私生活にも多大な影響を与え得る存在となったことは言うまでもない。

田山花袋の代表作『蒲団』は明治版の『おっさんずラブ』?

『蒲団』を端的に表すと、妄想不倫小説だ。主人公である竹中時雄はアラサーの既婚者。すでに妻と3人の子供がおり、結婚生活は落ち着き、ある種の倦怠期へと差しかかりつつある。そんななか、時雄の目の前に、弟子になりたいと志願し現れたのが、横山芳子という名の19歳の女性である。時雄は芳子に恋心を抱きつつも、やがてその女性のもとに恋敵なる男性が現れる。時雄は嫉妬心に駆られる一方、「あくまでも自分とその女性は師弟の関係。その女性の両親にも信頼されている。一線を越えてはならない」と自分自身に言い聞かせつつ、悶々とした日々を過ごす時雄の恋愛模様を描いている。

筆者が『蒲団』を読み進めていると、とある現代のドラマが脳裏に浮かんだ。深夜枠でも放送であるにもかかわらず大反響を呼び、第1、第2シリーズと放送された『おっさんずラブ』である。『蒲団』の主人公である時雄と黒澤武蔵とが筆者の脳裏の中で合致したのだ。『蒲団』の中の時雄はただのキモいおっさんではない。どことなくおちゃめな一面も垣間見れる、筆者にとってただただ黒澤武蔵だった。

ええ~!? まさかあの『おっさんずラブ』と『蒲団』が……!

黒澤は部下である春田創一に恋心を抱く。しかしながら、黒澤と春田とは上司と部下との関係。そんな中、牧凌太という恋敵?(第2シリーズでは四宮要、成瀬竜)が現れる。黒澤には妻がおり、ここで春田と恋に落ちれば、せっかくこれまで築き上げてきた家庭が一瞬にして崩れてしまう。黒澤と春田は男同士。近年では同性愛が受け入れられつつある風潮にあるとはいえ、同性婚が法制化されていない以上、同性愛への風当たりは強い。『おっさんずラブ』には上司と部下、そして男同士であるがゆえに社会通念上のタブーを破れず、黒澤がただひとり悶々とするさまが描かれており、さらにその心の内が独白を通じて明かされる。それがそのドラマの魅力のひとつと化しているわけだが、黒澤が置かれた境遇や心理描写に関して『蒲団』に通ずるものを筆者は感じるわけである。『おっさんずラブ』ファンの方であれば、きっと『蒲団』の世界にもどっぷり浸かれるはずだ。

気になる、気になるよ、はるたん!

両作品の違いにあえて触れると、同性愛か、異性愛かということだけではない。心理描写の方法にも若干の違いが見られる。『おっさんずラブ』の黒澤武蔵の恋模様がメタファーを使って表されているのに対し、『蒲団』では女弟子への叶わぬ恋心が五感……特に嗅覚で巧みに表現されている。

ハイカラな庇髪、櫛、リボン、洋燈の光線がその半身を照らして、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり

四畳半の書斎で読書中の芳子。その身体からは心地よい香水の匂いが漂ってくる。ただ、時雄が気になったのは香水の匂いだけではなかった。まるで犬がクンクンさせるかのように、芳子の肉体から滲み出るすべてを嗅覚的に探るさまは、「芳子を自分のものにしたい」という時雄の大胆なまでの欲望を表しているようだ。

大ヒットしたJ-POP『香水』のように、香りって記憶と結びつきやすいと聞きますし、恋愛でも重要な要素な気がします。

接吻の痕、性慾の痕が何処かに顕れておりはせぬか。

芳子の前に現れた恋人に嫉妬するがゆえに、恋人との関係がどこまで進展しているのかを必死に探ろうとする場面である。「キスは済ませたのか、キスからその先は……」と邪(よこしま)な考えを思い巡らせつつ、性欲の痕跡を視覚的に探ろうとする時雄の気持ちを描写している。

こうした微妙な心情や繊細な世界観・距離感を表すのに、「彼」という言葉がきっと効果的だったんだろうなあ(と、この時点では感じたのですが……意外な真相がこの後明らかになります)

時雄は机の抽斗を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。

女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。

夜着の襟と天鵞鳥の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。

時雄のもとから離れ、岡山の親元へ帰っていった芳子の面影を偲(しの)ぶべく、時雄がベッドに顔を沈める場面である。特にこの場面に嗅覚表現が集中的に用いられており、芳子の残り香で寂しさを紛らわさずにはいられず、衝動のあまり情欲に駆られる時雄の様子が伺われる。

こうして、自然主義文学の流れから考えると、『蒲団』は嗅覚という切り口から人間のあるがままの性欲を大胆に表すとともに、恋愛というものを定義づけた一作品であることが分かる。

田山花袋は近代の恋愛における必須ワード「彼(渠)」を多用

この小説では愛する人への思いを表すべく、「渠(かれ)」が多用されており、冒頭の文からいきなり「渠」が用いられている。

小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠は考えた。

渠はある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝に従っているのである。

渠は三日間、その苦悶と闘った。渠は性として惑溺することが出来る或る一種の力を有っている。

文中では「彼」ではなく「渠」となっているが、その意味は私たちが想像する「彼」であり、表記についてここでは問題ではない。「渠」は主人公の竹中時雄である。(時雄の)妄想の中では時雄と芳子はすでに結ばれた関係にあり、それを前提に「渠」を用いていることが窺(うかが)い知れる。

一方、「かの女」の用法も一部見受けられる。

一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何ともすることは出来まい。

田山花袋はどういう思いで「彼」や「彼女」を使ったのだろうか。

とにかく花袋は「彼」や「彼女」ということばを使いたかった。日本文に欠けていたからではない。花袋の思想がそれを求めた、というのも当らない。翻訳語「彼」「彼女」に誘惑されたのである。花袋が当時愛読していた西洋の小説では、heやsheは至るところで使われていた。(『翻訳語成立事情』柳父章 岩波新書)

自分が知っている限りの知識を誇示したいという思いは人間なら誰しもあるが、田山自身の自己顕示欲がそうさせたとも言える。

あらら。真相はそうだったのですね。

厳密に言えば、私たちに馴染みの「彼」の用法が登場したのは『蒲団』が初ではない。田山より前にデビューした坪内逍遥の小説にもすでに「彼」の文字はある。しかしながら、柳父氏が国文学者の奥村恒哉氏の論文「代名詞『彼、彼女、彼等』」の箇所を引用し説明するように、明治22(1889)年に発表した『流転』では「彼」は2例、その翌年に発表した『婿えらび』では「彼等(かれら)」を含めると計3例と、『蒲団』に比べると「彼」の登場回数は圧倒的に少ない。そのうえ、坪内逍遥の小説で用いられる「彼」は好奇を伴う軽蔑の意味が込められており、そこには私たちが想像する「大切なあの人……」というニュアンスはない。一方、田山の『蒲団』ではとにかく「彼」が多用され、さらにその言葉には愛おしいと思う相手への感情が込められている。そして、『蒲団』の存在は文学界に多大な影響を及ぼし、例えば『蒲団』以降に発表された夏目漱石の作品では「彼」が積極的に使用されている。少なくとも『蒲団』は私たちにとって馴染みの「彼」が生まれるきっかけとなり得た作品であると筆者は考えるわけである。

明治版『おっさんずラブ』こそが、現代に通じる「彼」の出発点なのですね!

「彼」は「He」の翻訳語なのか?

「彼」の変遷の歴史を纏めると、当初は物理的なモノに過ぎなかった「彼」。もちろん、そこに愛は存在しなかった。時代の流れの中で話し手の意向が反映された用法が生まれ、そして明治後期に、話し手との心理的距離がグッと縮まった、つまり大切なあの人を思う現代の用法が誕生するに至った。

ここで、ひとつの疑問が湧く。「彼」は「He」の翻訳語として適切であるのかと。一般に、「彼」は英語の「He」に対する翻訳語として罷(まか)り通っている。多くの英和辞書もそう記してある。実際、「He」で始まる文を見て、反射的に「彼は……」と呟いてしまうなんてことも。だがしかし、正確に言えば、「彼」が表す意味と「He」が表す意味は一致しない。(無論、多くの機械翻訳は「彼=He」と認識しているわけだが……)。日本語の「彼」には話し手の心情が含まれている。一方の英語の文ではすでに登場した人物が男性である場合、「He」が指示詞として使われる傾向にある。そういった場合、日本語の「彼」が示唆する「心から愛する人」というニュアンスが欠如していると思うのだ。

日本には「間(ま)」を大切にする文化がある。例えば日本文化の基本をなすわびさびの美は絵画の中の空白部分から見出された概念であり、そこには「間」の精神が生きている。「彼」は人と人との関係、つまり「間」を重要視する日本の文化圏の中で独自に形成された、単に「He」の翻訳語として言い表すことのできない日本固有の言葉なのだ。

あとがき

「彼」という言葉の普及に多大な影響をもたらした『蒲団』。この小説には恋愛云々が絡んでくるわけであるが、ここで疑問が……。単なる妄想を恋愛経験と捉えていいものだろうかと。

妄想で終わろうが、絶望や死を覚悟しての恋がそこにはある。恋する相手は福山雅治や嵐の松本潤、さらには二次元のキャラクターだっていい。燃えるような恋に没頭した暁にはどことなく虚しさが残るかもしれない。『蒲団』はその虚しさを覚悟しつつも楽しむ恋の大切さを伝えているようにも思う。

言葉のお話からはじまり、恋愛観まで広がっていった恋愛ワード「彼」誕生物語、普段何気なく使っている言葉について考えられた、楽しい記事でした!

アイキャッチ画像:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

(参考文献)
『蒲団』田山花袋 青空文庫
『翻訳語成立事情』柳父章 岩波新書

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。