「人生は選択の連続である」
確かに、そうだ。日々、気付かぬところで、無数の選択が積み重ねられている。
いうなれば、今だって。
数あるオンライン記事の中で、あなたはコレを選んでしまった(多分、失敗ではありません…)。やはり、タイトルの「迷える子羊」に惹きつけられたのか。はたまた、単に新着記事が読みたかっただけなのか。いや、ひょっとすると。アマゾンプライムのように、選んだことすら自覚がないってことも。
どちらにせよ、生きていれば、ほんの些細なことでも選択しなければならない。なんだか大それた言い方だが、これは至って自明の理。もちろん、スムーズに選択できれば、騒ぐ必要もない。問題は、非常に選択が難しい、そんな場合である。
一体、何を選べばいいのやら…。
その判断に迷ったとき。是非とも読んでもらいたいのが、今回の記事である。
やはり。ここは、過去の振り返りから始めるべく。歴史上の人物の言葉に触れて、判断のヒントにして頂こうというワケなのだ。
ちなみに、誰の格言かというと。
日本の歴史上、最も生きることが難しかった時代。まさしく、戦国時代を駆け抜けた人物に注目した。
調略、裏切りは当たり前、人質を見捨てることも厭わない。下剋上すらチャンス到来という戦国時代は、生き残りをかけた「選択」の連続。そんな時代の中で、幾多のピンチをギリギリで切り抜けてきたのが、コチラのお方。
奥州の覇者、「伊達政宗(だてまさむね)」である。
今回は、『名将言行録』より、政宗が語ったとされる「生涯の大事三つ」を取り上げる。
既にタイトルからガンガン感じられる「攻めの姿勢」に痺れつつ。早速、ご紹介していこう。
2度も窮地に?秀吉VS政宗のハラハラご対面
伊達政宗とくれば、因縁の相手である「豊臣秀吉」を思いうかべる人も多いはず。確かに、今回、政宗が語った「生涯の大事三つ」の場面で、うち2つが秀吉関連というのも頷ける。
その1つ目。「小田原遅参」でのこと。
「小田原(神奈川県小田原市)」とは、北条氏政・氏直の父子の本拠地である。そんな小田原を、豊臣秀吉は臣従した戦国大名らを動員し、大軍での包囲網を展開した。これが、天正18(1590)年の「小田原攻め」である。
じつに、秀吉は、この時点で天下をほぼ手中に収めていたといえるだろう。天正10(1582)年の「本能寺の変」にて、かつての主君である織田信長が自刃。その後は、秀吉が天下取りの争いから一人抜け出し、天正13(1585)年には関白職に就任。天正15(1587)年に九州を平定。この間に、目下、有力候補であった徳川家康の上洛をも実現させている。
一方、奥州地方では。
血縁関係に縛られず、メキメキと頭角を見せ始めていたのが伊達政宗。天正17(1589)年6月には「摺上原(すりあげはら)の戦い」にて、とうとう宿敵の「蘆名氏(あしなし)」を撃破するのだが。世は既に秀吉の「惣無事令(そうぶじれい)」が出され、奥州から駆け上がる前に、タイムオーバー。
それどころか、伊達政宗はある選択を迫られていた。
というのも、政宗も北条氏と同じく、秀吉より上洛を求められていたからである。進物を献上するなどして、上洛を先延ばしにして時間を稼いだものの。秀吉の上洛に応じて臣従するか、敵対するかで家中が揺れていた。
そんな中で。上洛要求に応じなかった北条氏には、「小田原攻め」の悲劇が。対して、政宗は時勢を読み間違えず、とうとう覚悟を決め、その「小田原攻め」へと参加することに。ただ、家中のトラブルに、迂回をしての行軍が重なり。ようやく小田原に到着したのは、なんと落城寸前のタイミング。予定よりも2か月遅れ。大いに遅すぎた参陣であった。
この絶体絶命の場面を、『名将言行録』ではこのように記されている。
「小田原の陣のとき、わしは、とにかく小田原に上って太閤に帰属しようと思った。家老は『何をご心配なさることがありましょうや。要所要所へ兵をだして守り防げば、太閤をたやすくは近寄せはいたしません』という。『いやいや、太閤はただ者ではない。はっきり降参の志をみせよう』といって発って行った。『それならば多勢で行かれるがよろしゅうございます』といったが、わしは、わずか十騎ほどで酒匂(さかわ)に一宿して、供の者をおおかたそこに残しておき、金襴の具足羽織を着て、太閤の御前近くにでた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
「小田原攻めに参加して臣従した」というよりは、もはや参加とはいえないほどの遅参。秀吉が、この一件をどのように判断するかは不明。いうなれば、秀吉のところに出向いたとて、命の保証はないのである。
それが分かっていながら。
政宗は少数の供だけ引き連れて、秀吉の元へと向かう。つまり、秀吉に対して「無抵抗」を装いたかったというコトか。ただし、これがまた微妙なところで。全て相手の言うがままかというと、そうでもない。次の場面では、政宗の「武士」としての矜持がうかがえる。
「取り次ぎの富田左近が『お腰物もこちらへ』といったが、『なにゆえに侍にむかって脇差を脱げと申されるか』といって聞き入れずに進みでた」
(同上より一部抜粋)
強気だ。秀吉の前であろうがなんだろうが、一転して強気である。ただ、見方によっては「強気」というよりは、譲れないところは頑として譲らない。そんな政宗あるあるの「こだわり」ともいえる。
こちらとしても、ハラハラドキドキである。
まさか、そのまま…。
豊臣秀吉の前まで出ちゃうのか?
「太閤は床几に腰をかけておられたが、わしをみて『伊達殿上ってこられたか。こちらに参られよ』といわれた。そのときわしは、すばやく刀脇差をかたわらへ投げ出して進んで行った」
(同上より一部抜粋)
おっと。そうくるか。
つまり、先ほどの取り次ぎの者には、「お前に対して脇差を置く必要はない」という無言のアプローチ。一転して、天下人たる秀吉には、強制されなくとも、自ら脇差を置いて恭順するというコト。うまい、うますぎる。政宗の処世術は、計算されたワケではないのだろう。だからこそ、相手の胸にバシッと刺さるワケで。それにしても、本能でこの所作ができる政宗は、スゴいと言わざるを得ない。
結果的に、政宗の謁見は無事終了。命を取られることなく、なんなら、このあとに「茶の湯」まで招待されたというから、大したものである。こうして、政宗の生涯の危機は去ったのである。
心のままに正直に物申すべし
お次、2つ目もやはり、豊臣秀吉とのご対面。
一体、この人。何回同じ危機を迎えればいのやらという感想を持ってしまうのだが。ただ、今回はというと、寝耳に水。だって、秀吉が関白職まで譲った甥の「豊臣秀次(ひでつぐ)」が自害。その関係で、秀次と親交のあった者も疑われてしまうことに。簡単にいえば、対岸の火事ではなかったというコト。
さて、ここでも政宗節が炸裂。早速、『名将言行録』を見ていこう。
場面は、秀次との関係を取り立たされたときのこと。いうなれば、申し開きの機会を得て、誤解を解くチャンスが与えられたワケである。しかし、政宗はというと。使者に対してゴマすりなどせず、正々堂々、真正面から勝負したのである。
「いかにも秀次公とは親しゅうござる。太閤のようなご聡明をもってしてもお眼鏡違いのためか、このようなことになりなさる秀次公とも見通せず天下をお譲りになり、関白にまで任命されたことであるから、われらごとき独眼竜(片目)では、見損じたも道理と存じます。そのうえ、万時秀次公にお任せになって、太閤はご隠居ということになったからにはと思い、心を尽くして秀次公に取り入りました。もしこれをお咎めになるのなら致し方のなきこと。なにとぞわれらの首を刎ねて下されい。本望でござる」
(同上より一部抜粋)
使者から、まさかそんな愛想のないことを…と意見されても、ありのまま申し上げるがよいと一蹴。男前の極地である。
ただ、政宗の言葉を冷静に分析すると、確かにと納得できる部分も。だって、あの天下人の秀吉でさえ、秀次を一時的ではあるが、次の天下人と認めたのである。だからこその、関白職を譲ったワケで。それを、一介の戦国大名が見通すことなどできるはずもない。
ちょっとだけ、秀吉を責めつつ。
いかにも、頭の回転の早い政宗ならではの返しだろう。
それに、である。
秀吉が隠居すれば、秀次に代わって天下を狙うという選択肢もあったはず。現実的ではないとはいえ、無謀な考え方を取ろうと思えば可能なのである。だが、政宗は、秀次を「次の天下人」と認識し近付いた。そういう意味では、豊臣家に反旗を翻しもしなかったともとれる。政宗からすれば、なんなら褒めて欲しいくらいのことだろう。
その後、使者はそのまま秀吉の元へと戻り、政宗はまたもや秀吉とご対面。結果的に、今回も辛うじて危機を回避。政宗の真っ向勝負が功を奏した形となった。
些細なコトだからこそ気を遣うべし
時として、伊達政宗は豪快な人物と思われる。
しかし、意外にも、規則正しい生活を好み、些細なコトも見逃さずに気付くタイプ。3つ目は、そんな政宗の性格ゆえの一件である。
今度のお相手は、じつに親交が深かった3代将軍徳川家光である。
一連の出来事はこうだ。
3代将軍家光に対して、政宗がお茶を点てることになったという。その際に、事前に家光から渡された茶道具を使って、お茶をあげるようにとのことであった。
さて、その茶道具である「お茶入れ」を持って、政宗の元へと出向いた佐久間将監(さくましょうげん)。ちょうどお勝手へと入り、政宗に、その「お茶入れ」を渡そうとするのだが。一向に、政宗は受け取ろうとはしない。何度か互いに「お茶入れ」を押し戻すのだが、埒があかず。結局、佐久間将監は、持って帰る羽目に。
その後、3代将軍家光から直接「お茶入れ」を渡された政宗。今度は、謹んで受け取ったのだが。一体、どうしてあの場面で拒絶したのかは、謎。
そこで、政宗が語った理由とは。
「『先刻将監が御意と申して、なにやら持参いたしましたが、お道具をお台所の畳の上で拝領するのはおそれ多いことと存じ、ひとまず頂戴いたしませんでした』と申し上げると、家光公はたいそう感激されたごようすであった」
(同上より一部抜粋)
なるほど。恥ずかしながら、全くそこまで思い至らず。台所の上だからという理由で拒絶したとは、想定外である。
つい、将軍からといわれれば、どこでも平伏して受け取ってしまいそうなのだが。政宗は、それが無礼だと感じたのである。型通りにただ形式的に行うのではない。1つ1つの言動に心がこもっているからこそ、自分でも許せなかったのだろう。
一見すれば、無茶だと思われることも。
真心があれば、そして、自分の信念があれば、突き通すこともできる。
そんな大切なことを教えてくれた、伊達政宗の「生涯の大事三つ」であった。
最後に。
政宗は、こんな言葉を残している。
「以上三つは、大事の場に臨んで、自分の考え通り思うままにふるまって利を得た。すべて一大事という場合には、人には話さず、おのれの心ひとつで十分に思いきわめるのがよいと思う」
(同上より一部抜粋)
今、まさしく岐路に立ち、これから重大な選択をしなければならない方もいるだろう。
是非とも、そんな方々に声を大にして伝えたい。
「己の心1つ」
これが、政宗の最も伝えたかった言葉だろう。
迷いに迷って、誰かにすがりたい。そんな気持ちも当然分かる。人の意見を聞くことだって大事。
ただ、逆に。
大多数の意見に流され、自分のココロの声を見逃せば、元も子もない。何より、他人の人生などではない。自分の人生なのだから。
自分のココロに正直に従う。そうであれば、たとえ結果が出なくとも、後悔まではしないだろう。自分で考え、自分で決断する。責任は、ただ我のみ。潔い生き方だ。
さあ、目を閉じて。耳を澄まそう。
「己の心1つ」
それで十分だ。
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参考文献
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月
『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 松森敦史編 晋遊舎 2013年12月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月