「我と来て遊べや親のない雀」
「名月をとつてくれろと泣子哉(なくこかな)」
特に俳句に親しみがなくても、どこかで聞いたことのある句ではないでしょうか。作者は小林一茶。どちらもほのぼのとして、やさしい光景が見えてきますね。
ところが小林一茶の生涯は、継母による虐待、子や妻の早世など辛く波乱に満ちたものでした。苦労を重ねる中で育まれた、他者への温かなまなざし。大衆文化が花開く文化文政の江戸に生きた小林一茶の人生を、彼が詠んだ俳句と共にご紹介します。
江戸時代の「俳諧」とは
江戸時代に活躍した俳諧師(はいかいし/俳句を職業とする者)といえば、一茶の他に、
「古池や蛙飛込む水のおと」
と詠んだ、松尾芭蕉が有名です。現在、俳句といえば「五・七・五」の定型が基本とされていますが、それをひとつの文芸として取り上げたのが、この松尾芭蕉でした。
万葉の時代より、日本では「連歌(れんが)」と呼ばれる長い定型詩がさかんに詠まれていました。連歌の一番最初の部分「発句(ほっく)」は、その季節に合わせた題材を「五・七・五」で詠むことがきまりとなっており、そのイメージを膨らませつつ次の人が「七・七」、また次の人が「五・七・五」、「七・七」……と複数人で言葉の世界を広げ、つなげてゆく文芸です。
鎌倉時代以降、連歌は武士の間でも大切な教養の一つとして扱われ、100句をつなぐ「百韻」が連歌の基本に。あの明智光秀も本能寺の変の直前に「愛宕百韻」を詠んでいます。
松尾芭蕉はそんな歴史ある連歌の発句「五・七・五」だけを独立させようと考えました。しかもその短い言葉の中に日本の四季の移ろい、そして人の心までを映そうとしたのです。
小林一茶が生まれたのは、松尾芭蕉の没後、約70年を経てから。発句を基とした「五・七・五」の形式がほどよく熟成を始め、武士だけではなく、豊かな商人たちの間にも広がった江戸時代後期でした。
一茶の生い立ち ~あからさまな継子いじめ~
1763年(宝暦13年)、小林一茶は信濃国柏原に、農家の長男として生まれました。幼名は弥太郎。江戸時代の農民といえば貧しい暮らしが連想されるのですが、一茶の生家は比較的豊かな農家で、農繁期には人を雇うほどの規模だったようです。
また、柏原は北国(ほっこく)街道の宿場町となっており、参勤交代の際には加賀百万石の前田家一行がこの地に宿を取ることもあったとか。整えられた街道を通って、江戸から人やモノ、そして新しい文化が流れこむ土地柄だったようです。
そんな恵まれた境遇の一茶でしたが、3歳になった年、母のくにが亡くなります。8歳の時にやってきた継母さつはあからさまに一茶を疎んじ、二年後、父とさつの間に男の子が生まれると、扱いはさらに酷いものに……。幼い一茶の体には杖で殴られたあざが、いつもどこかに残っていたと言われています。
当時、「家」を継ぐ者として、跡取りとなる長男は親元で大切に育てられるものでした。にもかかわらず15歳を迎えた年、一茶はたった一人、遠く離れた江戸へと奉公に出されてしまいます。継母から虐待を受け、長男という立場をもないがしろにされた15歳の少年、一茶。それでも当時の一茶は、親に従うほか道がなかったのでした。
俳諧師・一茶登場
1787年(天明7年)、『真左古(まさご)』という俳書に25歳となった一茶の句が掲載されます。現存するものの中では一番古いと言われている、いわば一茶のデビュー作です。
「是からも未だ幾かへりまつの花」 一茶
(これからも まだいくかえり まつのはな)
これからも末永いご活躍を願っております。おめでたい松の花が繰り返し咲くように。
まるでお祝いの言葉のような句ですが、実は『真左古』はベテラン俳諧師・新海米翁(しんかいべいおう)の米寿祝いとして作られた書。米翁は当時、江戸で勢力を誇っていた俳諧の一派「葛飾派」の門人で、この書には同門の人々からのお祝いのための「挨拶句」が集められていたのです。一茶の句も、まさに米翁への祝辞でした。
15歳で家を出てから10年、一茶がどんな暮らしをして、どんな縁で俳句を始めることになったのか詳しくはわかっていません。が、『真左古』に書かれた「渭浜庵(いひんあん)執筆(しゅひつ)一茶」との文字から、当時の一茶の生活を伺うことができます。渭浜庵は葛飾派の実力者・溝口素丸(みぞぐち そまる)の庵号、執筆は句会の書記係のことで、師匠の家の住み込みの弟子が担うことが多かったようです。これらのことから、一茶は素丸の弟子として本格的に俳句修業を積んでいたことがわかります。
師弟というつながりと、俳句という心を託す器を得て、やっと自分の居場所を見つけることができた若き日の一茶でした。
俳諧師・一茶、全国デビュー
1792年(寛政4年)、30歳の春に一茶は西国への旅に出ます。関西・四国・九州などを巡り、各地の有力な俳諧師を訪ねて親交を深めるためです。そしてその旅には「江戸、葛飾派の俳諧師・一茶」として顔を売りこむという意味もありました。通信の手段が乏しかった江戸時代、一人前の俳諧師として全国的なデビューを果たすためには、自分で足を運んでアピールすることがとても大切だったのです。
「しづかさや湖水の底の雲のみね」 一茶
(しずかさや こすいのそこの くものみね)
湖の底に音もなく夏雲の峰が広がっている。静まり返った風景の中で。
旅の途中、琵琶湖で若き一茶が詠んだ句です。澄んだ湖に映る入道雲を「湖水の底の雲のみね」と表現、湖の中にもまた別の世界があるかのような、幻想的な風景が見えてきます。
「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」 一茶
(ねころんで ちょうとまらせる そとゆかな)
じっと静かに寝ころんで、蝶をとまらせてみる。そんなのどかな温泉の外湯だよ。
こちらは愛媛県・道後温泉での句です。やってきた蝶をとまらせようと息をひそめて寝ころんだままの一茶は、まるで小さな子どものよう。こんな童心を感じさせる小さな句から、先ほどの琵琶湖での幻想的な大きな句まで、一茶は幅広い句柄を持ち合わせた俳諧師でした。
西国の旅の途中、一茶は初めての撰集(多くの人の句をまとめ、編集した句集)『たびしうゐ』を、また旅の終わりには『さらば笠』を発行しています。これらの撰集には師匠の素丸を始め、江戸の大家であり豪商の成美(せいび)、四国・松山で語らい、以後も長く交友してゆく樗堂(ちょどう)など当時の大物俳諧師らが句を寄せており、一茶が若手俳諧師として期待されていたことがうかがえる内容です。
7年にも渡る西国への旅で、一茶は無事、全国デビューを果たしたのでした。
その数年後、一茶は葛飾派の師の一人、二六庵竹阿(にろくあんちくあ)の跡を継ぎ「二六庵」の庵号を名乗ることとなります。が、それからわずか二年ほどで、一茶はその庵号を使うことをやめています。事の詳細は明らかではないのですが、一茶の句風の幅が葛飾派の良しとする枠を越えていたこと、また一茶が派閥にこだわらずさまざまな俳諧師との交流を盛んに行っていたことから、
「枠にとらわれず、もっと自由な俳諧師として生きたい」
葛飾派の二六庵を離れたことは、そんな一茶の心の現われだったのかもしれません。
勃発!遺産相続争い
俳諧師として順調なスタートを切った一茶は、その後もキャリアを重ねてゆきます。38歳には相撲の番付表を模した関西の「俳人番付」に前頭として登場。江戸だけではなく、西国でも安定して名の知られた俳諧師になったことがわかります。
そんな折、1801年(享和元年)、一茶39歳の時に郷里・柏原で父が亡くなります。父は一茶への財産分与の遺言書を残していましたが、継母と弟はこれを拒否。遺産相続争いが始まります。
弟の仙六としては、自分が耕作地を増やしつつ年貢を納めてきた柏原の田畑を、いきなり江戸の兄に分け与える、などということは到底納得できません。
一方、長男でありながら家を出された一茶は、幼いころからの不遇を根に持っています。また、江戸で俳諧師としての地位を確立しても不安定な借家暮らしにすぎず、
「故郷に根をおろして、落ち着いた生活がしたい」
そんな思いも年々強まっていました。
兄弟それぞれの言い分は平行線をたどり、遺産相続争いは何度も何度も決裂。仲介人を挟んでの交渉も難航し、決着したのはなんと約10年後、一茶が51歳になった年でした。苦労の末、念願の生家を手に入れることができた一茶は江戸の借家を引き払い、ようやく信州柏原での生活を始めたのでした。
「大の字に寝て涼しさよ淋しさよ」 一茶
(だいのじにねて すずしさよさびしさよ)
広い生家で思いのまま大の字に寝そべって、開放的な涼しさを感じているよ。そして、一人きりであることの淋しさをも。
すでに俳人番付「正風俳諧名家角力組」では東方八枚目(江戸の俳諧師として三番目の高位)の実力を持ち、江戸でも故郷でも名を知られていた一茶。庶民の文化が花開いた文化文政期、気取った花鳥風月を詠むのではなく、日々の生活に寄り添った一茶の句は多くの人々に受け入れられました。一茶には素封家の弟子も多く、俳諧師として安定した収入を得ていたようです。
そんな暮らしの中、ようやく自分の土地と家が手に入った一茶は、28歳の菊を妻として迎えることとなります。
「五十聟天窓をかくす扇かな」 一茶
(ごじゅうむこ あたまをかくす おうぎかな)
50歳にして婿となる自分の白髪頭が恥ずかしい。扇でそれを隠すことだよ。
一茶にとって、菊は初めてできた家族です。少しおどけてみせるほど嬉しく、明るい未来を心に描いての新生活だったことでしょう。
生と死に向き合う晩年
長男・千太郎誕生
1816年(文化13年)4月、一茶54歳の時には念願の長男・千太郎が誕生します。
「はつ袷にくまれ盛にはやくなれ」 一茶
(はつあわせ にくまれざかりに はやくなれ)
初袷を着る時期に生まれた千太郎よ、早く憎まれ口を叩くような年齢にまで成長しておくれ。
初めて授かった息子への思いを真っ直ぐに詠んだ句です。乳幼児の死亡率が高かった江戸時代、生まれた子が憎まれ口を叩けるほどの年齢にまで無事に成長することが、親としての一茶の切なる願いでした。
しかし……その思いは叶わず、千太郎はわずか1ヵ月足らずで亡くなってしまいます。初めての子どもの誕生と死。その悲しみはとても深いものでした。
長女・さと誕生
2年後の1818年(文政元年)5月、一茶56歳で長女・さとが誕生。この頃、一茶がまとめ始めていた俳諧俳文集『おらが春』には、幼いさとの姿が生き生きと描かれています。欲しがっていた風車を与えるとむしゃむしゃと口に入れてしまったこと。障子紙をむしって破り、一茶がそれをほめると嬉しそうに笑ったこと。妻の菊がおむつの世話も苦にせず、玉のようにさとを撫でさすって可愛がったことも一茶は優しいまなざしで書き記しています。
しかし……
「露の世ハ露の世ながらさりながら」 一茶
(つゆのよは つゆのよながら さりながら)
この世は露のようにはかないもの。そうわかってはいるものの、そうではあるものの……。
当時、死の病であった天然痘にかかったさとは、わずか2歳で命を落としてしまいます。体中に水泡ができ、さとがだんだんと弱り死んでゆく様子をも、一茶はいとおしむように『おらが春』に記しました。
次男・石太郎誕生
一茶58歳の10月には、次男・石太郎が生まれます。その時、一茶が我が子を詠んだ句は、ひたすら命を長らえてほしいとの願いに満ちたものでした。
「岩にはとくなれさざれ石太郎」 一茶
(いわおには とくなれ さざれいしたろう)
大きく固い岩のように早く成長してほしい。今はまださざれ石(小石)の石太郎よ。
そんな石太郎も翌年1月、菊におんぶされていた際、窒息して亡くなります。一茶と菊の悲嘆は大きく、ことに菊は病に伏せってしまうほどでした。
三男・金三郎誕生
一茶60歳の時、三男・金三郎(こんざぶろう)が生まれます。菊と喜び合ったものの、今度は菊が原因不明の癪(しゃく/腹痛)に倒れ、症状は次第に深刻なものに。乳を飲ませることも難しくなったため、金三郎は乳母のもとへと預けられます。
ありとあらゆる手を尽くした一茶でしたが……4ヵ月後、菊は一茶を残して帰らぬ人となってしまいます。享年37歳、あまりに早すぎる死でした。
菊が亡くなった後、金三郎を呼び寄せた一茶は、我が子のあまりの衰弱ぶりに愕然とします。乳母の乳がほとんど出なかったため、金三郎は哀れなほどやせ細っていたのです。そうして菊に続いて金三郎も、一年を経たずして亡くなってしまいました。
やっと得た家族を次から次へと失い、ひとり取り残された晩年の一茶。俳諧師としては、俳諧番付「諸国流行俳諧行脚評定/為御覧俳諧大角力」で別格最高位の行事役となるほどに上り詰めていた一茶ですが、一緒に喜んでくれるはずの家族が、もう誰もいません。
もともとの一人前ぞ雑煮膳 一茶
(もともとの いちにんまえぞ ぞうにぜん)
もともと一人で食べていた雑煮膳。またそんな正月に戻っただけのことだ。
事実をそのまま切り取った句ですが、あきらめともまた違う、静かな空気を感じます。年老いて一人きりとなった一茶を見つめる、もう一人の一茶。俳諧師としてありのままの自分を俯瞰している、一茶の観察眼がうかがえる句です。
最晩年の離婚、再々婚、そして柏原大火
その後、一茶は62歳で再婚するも3ヵ月後に離婚。64歳の時、今度は2歳の男児を連れた32歳のヤヲと再々婚をします。
「長男として生家を継いだからには、なんとしても跡継ぎを残さなければ」
そんな一茶の思いをくじくように、1827年(文政10年)には柏原一帯を焼き尽くした大火事、柏原大火が起こります。その火事により、一茶は大切な生家をも失いました。
やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ
(やけつちの ほかりほかりや のみさわぐ)
火事の後、土蔵の土がまだほかほかと熱をもっていることだよ。そこでは蚤が嬉しそうに騒いで。
柏原大火の後、一茶は辛うじて焼け残った土蔵で、ヤヲと幼い義理の息子、そして同じように焼け出された継母と弟・仙六夫婦と共に暮らし始めます。狭い土蔵には高窓がひとつあるだけで昼でも薄暗く、たくさんの蚤が跳ねまわっていたとのこと。そんな日々の中でも一茶の句には悲壮感がなく、どこかユーモラスな雰囲気さえ漂っています。
俳諧師・一茶のまなざし
「ともかくもあなたまかせのとしの暮」
(ともかくも あなたまかせの としのくれ)
この世での辛いことも何もかも、すべて阿弥陀様にお任せする年の暮れだ。
これは一茶の代表的な俳文俳諧書『おらが春』の締めとして載せられた句です。「あなた」は高い尊敬の念を含む言葉で、先祖代々浄土真宗の門徒(もんと/信者のこと)であった一茶にとっては阿弥陀仏のことを指しています。現世の幸せよりも死後、来世での幸せを重視し、何もかも阿弥陀仏にお任せして生きてゆく……そんな気持ちで詠んだ、一年の締めくくりの句です。数々の不幸に見舞われた一茶の生涯を支えていたのは、こんな阿弥陀仏への揺るぎない信仰心だったのかもしれません。
「雪とけて村一ぱいの子ども哉」
(ゆきとけて むらいっぱいの こどもかな)「痩蛙まけるな一茶是に有」
(やせがえる まけるな いっさこれにあり)「やれ打な蠅が手をすり足をする」
(やれうつな はえがてをすり あしをする)
一茶
よく知られたこれらの句も一茶の生涯を振り返った後では、単にほのぼのとしているだけの景ではないことがわかります。俳諧師としての観察眼はさることながら、ともすれば消えてしまうはかない「命」への真摯な思い。失うことの悲しさを知っているからこその、小さなものたちを慈しむ気持ちが感じられる句ではないでしょうか。
柏原大火に遭った年(1827年)の11月19日、江戸の大衆文化を彩った俳諧師・小林一茶も、ついに最期の時を迎えます。享年65歳、蚤たちが跳ねる土蔵で静かに息を引き取りました。
この時、一茶をみとったヤヲのお腹には子が宿っており、翌年4月には娘やたが誕生。やたは無事に成長し、後に婿を迎えて子宝にも恵まれます。以降、一茶の家系は脈々と受け継がれ、令和の現在も信州には一茶の子孫の方が暮らしておられるということです。
●アイキャッチ画像 「写真AC」よりきぬさらさんの写真
●参考文献
『一茶句集』(玉城司 訳注)角川ソフィア文庫
『小林一茶』(大谷弘至 編)角川ソフィア文庫
『一茶の相続争い』(高橋敏)岩波新書