瀬戸内海はカリフォルニアロールである。
全く異質の事物を結び付けた冒頭の一文を見て、「え!どういうこと?」と思った人は少なくないはず。
近年、外国人を介して日本文化が再認識されるケースがよくある。俗に言う逆輸入と呼ばれるやつだ。その逆輸入の最たる例が、玉子やかんぴょうの代わりに、アボカドやカニカマなどを具材に作った米国生まれのカリフォルニアロールである。カリフォルニアロールは海苔を外側ではなく、内側に巻くという斬新なスタイルをもって、これまでの「寿司」の概念に新たな風を吹き込んだ。米国のカリフォルニアの寿司店で始まったその新感覚の寿司は、今や大手回転寿司チェーンでもお馴染みのメニューとなっており、日本の文化にも定着している。
明治時代後期、日本を訪れた外国人による「オー、ビューティホー」の一声から始まり、文豪や地理学者らによる尽力で瀬戸内海の多島美が誕生。さあ、「瀬戸内海」の概念の変化を巻き込んだ歴史の旅に出かけよう。
瀬戸内海とは?
言うまでもないが、本州、九州および四国に囲われた海域が瀬戸内海だ。東は和歌山県沖の紀伊水道、西は関門海峡の響灘(ひびきなだ)や豊後水道(ぶんごすいどう)と接する部分までを指す。つまり、瀬戸内海が及ぶ範囲はとてつもなく広い。
瀬戸内海の「瀬戸」は、「迫門」「狭門」「湍門」に由来する。いずれも読みは「せと」であり、海峡を意味する。文字通りに解釈すると、瀬戸内海は「海峡の内側の海」ということになる。潮流や渦潮が巻き起こる大小の海峡に、岩礁から成る大小の島々、湖のような穏やかな海、干潟、白砂青松(はくしゃせいしょう)などを特徴とし、実に変化に富んだ海域、それが瀬戸内海だ。
瀬戸内海の“多島美”が生まれたのはいつ?
旧石器時代
島国の印象が強い日本だが、数万年前も昔、アジア大陸と陸続きの状態にあった。そこに瀬戸内海は存在しなかった。というと、語弊があるかもしれない。厳密に言うと、陸続きの時代以前にも海の時代はあり、かつては現在の広島県北部から和歌山県沖の紀伊水道まで、つまり今日よりも広い範囲において海が形成されていた。その後、大規模な地殻変動が起こり、その影響で大地が隆起し、海が消滅した。
今から7万年~1万年前、地球は氷河期にあった。当時、その陸地の3分の1は氷で覆われていた。現在の瀬戸内海に当たる部分は陸であり、そこには草原が広がっていた。そこはもはや瀬戸内海ではない。言うなれば、瀬戸原である。現代からは全く想像もつかないかもしれないが、ナウマンゾウやオオツノシカなどの動物がけたたましい声を上げながら闊歩していたのだろう。
氷河期を終え、地球の気温が上昇し始めると、解けた氷が海に降り注ぎ、海水面が上昇。今から約6000年前、現代の瀬戸内海が形成された。
平安時代
瀬戸内海については、平安時代を代表する文学である『源氏物語』にも登場する。以下は瀬戸内海の名所旧跡のひとつである須磨にて詠み上げた歌である。
海人があまがつむ嘆きの中にしほたれて何時まで須磨の浦に眺めん
(『源氏物語』須磨の巻より)
(現代語訳)いつまで須磨の浦から眺めながら過ごしているのだろうか。
今でこそ日本有数のビーチとして全国区でも知られている須磨だが、源氏物語においてそこはあくまでも瀬戸内地方の名所史跡という位置づけであった。須磨から望む大海原はいくつかの灘から成る海域に過ぎず、そこに“多島美”という概念は存在しない。
明治時代
冒頭でも述べた通り、(言葉としての)「瀬戸内海」が登場したのは明治時代後期。欧米人が「The Inland Sea」の翻訳語として用いたのが始まりとされている。開国を機に、幕末から明治時代には欧米から多くの人々が日本を訪れ、瀬戸内海を称賛した。
異郷の地を訪れ、自分にとっての馴染みの場所との共通点を発見した時、その場所に対して親近感を覚えることがある。例えば神戸在住の筆者だが、以前所用で横浜のみなとみらい21を訪れた際、親しみを感じたのを覚えている。
横浜ランドマークタワーと神戸ポートタワー、光り輝くイルミネーションが印象的なコスモクロック21の大観覧車とモザイクの大観覧車、半月の形をしたヨコハマ・グランド・インターコンチネンタルと神戸メリケンパークオリエンタルホテルなど。港町としての横浜、神戸を印象づけるみなとみらい21と神戸ハーバーランドには、両者を結びつけるものが数多く存在する。そして、開港当初は倉庫として機能し、現在は商業施設と化した赤レンガ倉庫によって、みなとみらい21、神戸ハーバーランドの異国情緒が際立たされる。横浜みなとみらい21も、神戸ハーバーランドも、ウォーターフロント地区として開発されたエリアであることには変わりないが、横浜みなとみらい21に林立する施設が織りなす風景が神戸のハーバーランドのそれと筆者には重なって見えたのだ。
こうした感覚は、恐らく明治時代に瀬戸内海を訪れた欧米人にもあったことだろう。瀬戸内海と地中海。どちらも東西に長く広がり、海峡を挟んで外洋へと繋がっている。瀬戸内海の開門海峡は、地中海ではジブラルタル海峡が該当し、東シナ海は大西洋であり、両者の構造上のイメージがぴったりと重なる。大小幾多もの島嶼部(とうしょぶ)から成り、島々の間をまるで縫うかのように船舶が行き交うさまも似ている。さらに、年間を通じて降水量が少なく、温暖な気候に属しており、比較的過ごしやすいという点でも共通している。
ちなみに、地中海の象徴でもあるオリーブ畑。実は瀬戸内海に浮かぶ小豆島や、岡山の牛窓(うしまど)などにもオリーブ畑があり、空の青と太陽の光によって醸し出される景観を堪能することができる。
こうして見ると、瀬戸内海と地中海は実に共通点が多い。それゆえ、欧米人は瀬戸内海の光景を目の前に、思わず感嘆の声を上げたことだろう。
近代の科学や文学、絵画などの知識を身につけた欧米人の視点は、西欧化政策をとる明治政府にとっても都合のよいものであったはずだ。明治後期に入ると、大隈・板垣の連立内閣の下で外務省勅任参事官を務め、国粋主義をベースに西欧化を推進した地理学者の志賀重昴(しがしげたか)をはじめ、文豪の田山花袋、「瀬戸内海国立公園の父」と称される香川出身の実業家、小西和(こにしかなう)たちによって、無数の島々が浮かぶまるで湖のような芸予(げいよ)諸島や備讃(びさん)諸島を内海多島海として捉え直す動きが出始めた。急峻(きゅうしゅん)な地形、春夏秋冬の明瞭な四季、高温多湿のイメージが強いイメージが強い日本であるが、これらをもって日本の国土を体系的に特徴づけたのは志賀重昴に他ならない。
そして、「Inland Sea(内海)」「Archipelago(群島)」といった西洋の概念に触発され、近代的科学の知見の観点から追究した結果、瀬戸内海が地中海に並ぶ文明の揺籃(ようらん)の地であるという見識を得るに至った。その後、「多島海」「内海」という概念が普及したことで、近代的景観美として再定義されるとともに、瀬戸内海に多島美という新たな意味が付与された。
明治時代以前の瀬戸内海~欧米編~
明治時代以前の欧米諸国では、中国山地と四国山地の間にある海域はどう捉えられていたのだろうか。
まず、欧州諸国と日本との関係について語るうえで、13世紀末に中央アジアや中国を旅し、『東方見聞録』を著したマルコ・ポーロを挙げなければならない。彼が日本を「黄金の国ジパング」と紹介したのは歴史教科書でも知る事実である。それから約1世紀半後、ヴェネツィアの修道士フラ・マウロが作製した世界図に初めて日本が登場。さらに数10年後のヘンリックス・マルテルス・ゲルマヌスの世界図や、その世界図を模したマルティン・べハイムの地球儀にも登場したが、いずれにせよ、想像上描かれたものに過ぎず、位置も不正確であった。
そんななか、転機となり得る出来事が起こる。天文12(1543)年のポルトガル人による種子島上陸だ。寛永16(1639)年に江戸幕府よりポルトガル来航禁止令が出されるまで、来航した航海者や宣教師経由で、日本に関する情報が伝えられていき、実在する日本の姿が天文23(1554)年に出たローポ・オーメンのポルトラーノ海図の中で表された。日本に関する情報の少なさを反映し、陸地の形状に加え、地名の数なども不正確であった。が、「瀬戸内海」という地名はないものの、確かに瀬戸内海は描かれており、大小の島が点在する様子もその地図に示された。しかしながら、内海としての認識が明確でなく、存在する個々の島を同定した描写となっていない。少なくとも、この時点では瀬戸内海は欧州諸国の人々に認識されていたと見ることができる。
フランシスコ・ザビエルが瀬戸内海経由で来日してから10年の月日を経た永禄3(1560)年、バルトロメウ・ヴェリュの西太平洋図を刊行。その地図では四国や本州が大陸から分離して描かれると同時に、四国と本州との間の瀬戸内海は内海として、また大小の多くの島々から成る多島海として表された。その後永禄11(1568)年、ヨーロッパ初の日本専図としてフェルナン・ファズ・ドゥラードの日本図が登場。瀬戸内海が南北ではなく、東西に延びる内海として初めて表現されるとともに、下関や牛窓、大坂など、水運に関わる瀬戸内海沿岸の港町が記された。
16世紀後半から江戸幕府が開かれるまでの半世紀弱の間に、西洋人による瀬戸内海の描写手法は劇的に向上。その後は鎖国の影響もあり、19世紀前半まで進展が乏しい状態が続いた。
ドイツ出身の医師エンゲルベルト・ケンペルが作製した日本図では、瀬戸内海の描写手法に著しい進歩が見られた。そこには長崎から大坂に至るまでの瀬戸内海の航路が示されている。瀬戸内海が多島海であることが表現されており、島の名称や港の地名が明らかに増えている。何より瀬戸内海をひとつの海域として示した功績は大きい。オランダ人は江戸参府に際し瀬戸内海を経由していたが、その時の新たな情報の獲得がその成果へと繋がったと見てよいだろう。一方、シーボルトは伊能忠敬の日本地図をもとに日本図を編纂(へんさん)。それによって、日本図の近代的基盤が構築された。
その後、瀬戸内海を通商上および政治上最も重要な海域と捉えた英国海軍は大規模な測量を開始。その結果は1891(明治24)年に刊行された日本製海図第50号としてひとまず結実した。
明治の文豪イチオシ!瀬戸内の絶景ポイント
日本各地を旅する中で各地の情景を表現したのが、明治時代を代表する自然主義文学作家の田山花袋だ。田山は自身の著書『山水小記』において瀬戸内海のイチオシの絶景スポットとして、「須磨・舞子」「牛窓」「尾道」「呉」「興居島(ごごしま)」「下関」を挙げている。
須磨・舞子
田山花袋が絶賛するスポットは、須磨・舞子だけではない。その周辺の播磨の海岸、海を渡った先の淡路島、さらに鳴門海峡の向こうの鳴門を含めて高く評価している。播磨の白砂青松の海岸、洲本市の由良地区から南あわじ市の福良へと続く道路に沿った海岸線など、多島美をなす要素が揃っている。
序幕の須磨、舞子には對岸の淡路島をも入れて置かなければならない。何故なら、淡路島は人は餘り言はないけれど、瀬戸内海の諸勝の中で多く他に譲らないすぐれたシインを澤山に持つてゐるからである。洲本から由良に行く海岸、松州園のあるあたりは中でも最も好い。(田山花袋『山水小記』より)
淡路島が既に好い。由良あたり。それからぐるりと廻つて福良。しかし汽船はこの航路を取らない。岩屋から―讃岐の方へと進んで行く。高松の海の明るく美しいことは既に訊いた。(同上)
鳴門海峡は瀬戸内海の門戸のやうな形を成してゐるけれども、幅がひろく海が荒いので、何處か瀬戸内海といふ氣のしないところがある。しかし、撫養から見た鳴門は雄大で且つ明媚だ。(同上)
松のある播磨の海岸も、序幕の中に入るべきものだ。別府の手枕松あたりでは、漁村にも一種瀬戸内海らしい氣分があつて、何となく旅の思ひを誘つた。(中略)曾根の松のある一漁村は、潮入川に芦荻が生えてゐたり、ところところ鹽田があつたり、船の集つて來るところがあつたりして、繪を見る美しい明るい藝術的な感じがした。(同上)
姫路およびその沖合の家島諸島周辺も瀬戸内海沿岸地域だ。が、田山の目には魅力的な光景として映っていない。田山いわく、海が異様に広く、散漫すぎるとか。このことから、島と本州との距離的な近さが、多島美の条件のひとつであることが分かる。
牛窓
玉島から蟲明瀬戸、牛窓あたりに行くと、もう二幕目だ。今は概して衰へてゐるので、昔のような和船の港の賑はひを見ることは出来ないさうであるが、それでも船頭や漁村の生活には、やわらかな細やかな線で描かれた日本ぐわ(「書」の上の部分と、田、一を組み合わせた字)を見るやうなところがある。(田山花袋『山水小記』より)
明治時代に生まれた多島美とは、「島と海との関係のみならず、漁村の生活的風景との一体化により見出されるもの」と定義づけることができる。
尾道・呉
田山は岡山・倉敷から広島の呉に至るまでの道中に対し、「これといった特徴もなく、似たような景観が続いている」と手厳しい評価を下している。その点で、変化に富んだ海岸線が多島美をなす要素のひとつであることが分かる。そんななか、田山の目に留まったのが尾道の千光寺から望む景色と、呉の光景だ。
朝の霧が茫と瀬戸の海の半面に沈んで、白く布でも布いたように靡いてゐる。水深の浅い瀬戸内海であるのに拘らず、海の色は思い切って碧く、帆がその朝霧の中から一つ二つあらはれ出して來た。(田山花袋『山水小記』より)
それに、海の向うにある向島―桃の花の勝を以て聞こえてゐる厖大な島が、今しも最初の光を放ちはじめた朝日に照されて、山畠の段をなしてのや、海に添つた村や、そこらを漕いで行く舟や、さうしたものが皆な美しくかゞやいて見渡された。(田山花袋『山水小記』より)
尾道と、その向かいにある向島(むかいしま)との距離は200~300メートルと極めて近く、明石海峡大橋で繋がれた本州側の神戸・舞子と淡路島・岩屋間を上回る至近距離である。よって、多島美を堪能するにはうってつけの場所であると言えよう。
また、田山は呉市内の音戸の瀬戸に対し、尾道に劣らぬ景色として絶賛している。
宇品から高濱にわたつて行途中にある音戸の瀬戸は、瀬戸内海ではまづ大きい美しい瀬戸で、その感じも、規模も尾道のあたりの二幕目の感じではない。(田山花袋『山水小記』より)
松山・興居島
伊豫の高濱は美しい港だ。興居島、伊豫富士、すべて絵葉書になってゐる。夕暮に、港の岸の茶屋の二階で船を待つてゐると、海と島とが静かに暮れて、漁舟の灯や岸の漁村の灯が水に落ちる頃、宇品から來た汽船が赤い青いランタンを薄暮の空氣の中に際立せて、静かに港に入って來る感じは何とも言はれなかつた。(田山花袋『山水小記』より)
関門海峡
田山いわく、山口県柳井市から開門海峡までの間は、最後の締めくくりに相応しい場所だ。
これから周防に入ると、厖大な大島などがあつて益々風景が大味になつて來る。それをもう一度狭ばめて、線を細くして、賑やかな中幕を見せたのが、上の關瀬戸である。(中略)瀬戸内海を子細に知らうとするには、何うしても上の關、室積、普賢岬あたりを探らなければうそである。普賢岬は鞆の阿伏兎あたりと名を齊うするに足りる海山の勝を持つてゐる。(田山花袋『山水小記』より)
長府、下の關附近を彩つた平家没落の歴史は、大切としては實によく伴つてゐると私は思ふ。(中略)壇の浦、御裳川、安徳天皇陵、平家の墓、そしてその潮流の早い早吸の瀬戸を取巻いては、門司市の煤煙、下の關港の帆檣林立、輕快なペンキ塗の連絡船―その連絡船は、汽車の着くごとに、深い迅い碧い潮流を横切りつゝ、本土から九州島へと旅客を運んで行くのであつた。大切にふさはしい瀬戸内海の一幕ではないか。(田山花袋『山水小記』より)
山口県の柳井市から関門海峡に至るまでの間には、平安末期に源氏と平氏との決戦が繰り広げられた壇の浦があり、日清戦争の講和条約が締結された下関があり、戦後の政治家を多く輩出した田布施(たぶせ)の町がある。さらに歴史を遡ると、ここから大陸や朝鮮の文化が入り込んだとされ、いわゆる日本文化の入口でもある。概して歴史的情緒が漂うエリアと言えよう。
また、瀬戸内海では淡路島、小豆島に次いで3番目に大きい島として知られ、ハワイ文化とも関係が深い周防大島もある。そこでは和洋折衷の文化が織りなす多島美を堪能することができる。
こうして、瀬戸内海の象徴である多島美だが、そのイメージは画一的ではなく、エリアごとに変動が見られるのが分かる。
時代とともに変わる多島美
筆者が瀬戸内海の多島美と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、しまなみ海道の風景だ。
単に筆者がしまなみ海道のある愛媛県出身で、特にしまなみ海道の大三島は臨海学校で何度も訪れたことがあるなど、筆者にとって思い入れの強い場所であるからなのかもしれない。が、ガイドブックなどのしまなみ海道の特集で飛び込んでくる写真と言えば、大抵が大島の亀老山展望公園から撮影したものだ。これはその風景が現代の多島美の象徴として定着している証左であろう。今日においてその場所はしまなみ海道随一の展望スポットとして親しまれているが、明治時代の田山には魅力的な光景として映らなかったようだ。瀬戸大橋のたもとの児島半島も同様だ。
しかしこれから少し行くと、中國に属した方の風景は甚だしく劣つて來るのを見る。岡山あたり、児島半島あたりは趣が乾きすぎである。(田山花袋『山水小記』より)
昭和末期の瀬戸大橋および大鳴門橋、平成10(1998)年の明石海峡大橋、そしてその翌年の平成11(1999)年5月1日にはしまなみ海道の開通をもって、本州と四国を繋ぐ3ルートが誕生した。特に明石海峡大橋は世界一長い吊橋として、四国の今治市と大島を繋ぐ来島海峡大橋は世界初の3連吊橋として当時注目を集めたことは記憶に新しい。橋の登場によって自然と人工が織りなす美が醸し出され、明治時代に確立した瀬戸内海に見る近代的風景美は、新たに生まれたその美によって更新されたのだ。カリフォルニアロールの登場で、寿司の定義が揺るがされたように。
変わり映えのしない日常を送っているように思いがちだが、環境は常に変化しており、それに伴い風景もまた変動している。一方で、美というのは知覚する側の人間の置かれた状況や心理状態にも左右される。今後、IT化が急速に進み、25年後にはついにAIが人間を超えるとも言われている。人間の置かれた状況が一変し、これまでの常識を逸した見方に出くわすかもしれない。そして、未来の瀬戸内海にはきっと、現代とは一味違った多島美が生まれているはずだ。
あとがき
ふと疑問に思った。そもそも瀬戸内海は古くからの交通の要衝であり、明治時代以前にも多くの外国船が往来していた。鎖国下にあったとされる江戸時代だが、オランダや中国、さらには朝鮮の船が行き来していたのだ。その時、彼らは本当に島々が織りなす美に気づかなかったのであろうか。単に欧米でいう地中海に相当するものがなかっただけなのかもしれないが、その理由はそれだけではないと筆者は見る。
朝鮮通信使であれ、オランダ・中国商船であれ、業務の一環として訪れたに過ぎない。明治時代の欧米人のケースと比較すると、その目的が仕事か、私用であるかで決定的な違いがある。
身近な事例として、自宅と職場との往復を考えてみよう。たとえ自宅と職場との往復の道中に特筆すべき“美”があったとしても、それに気づかされることは少ない。それと同じ原理が瀬戸内海にも働いたということが考えられる。つまり、仕事上日本を訪れていたがゆえに、肝心の美に浸るチャンスを逃してしまった。
そもそも“美”というのは、仕事というしがらみから解放された後に見出されるものではないだろうか。何の変哲もない日常でも、ふと立ち止まってみれば、新たな感動と遭遇できるかもしれない。
(主要参考文献)「19世紀英国海軍製海図およびそれ以前の欧州製地図に描かれた〈瀬戸内海〉-瀬戸内・瀬戸内海という言葉・地名の成立にも触れて」金坂清則 『瀬戸内海に関する研究』財団法人福武学術文化振興財団 2002年
『瀬戸内海事典』北川健次他 南々社 2007年
『瀬戸内海論』小西和 文会堂書店 1911年
『新装版 日本風景論』志賀重昴 講談社学術文庫 2014年
『山水小記』田山花袋 富田文陽堂 1917年