CATEGORY

最新号紹介

10,11月号2024.08.30発売

大人だけが知っている!「静寂の京都」

閉じる
Culture
2021.05.21

サハラ砂漠を駆け抜けろ!パリ・ダカールラリーの表彰台を独占した伝説のマシン「ヤマハ・XT500」

この記事を書いた人

ダカールラリーは、かつては「パリ・ダカールラリー」と呼ばれていた。文字通り、フランスのパリからセネガルのダカールまで四輪車と二輪車が競争を繰り広げていたからだ。

第1回パリ・ダカールラリーは1978年12月26日にスタートし、翌79年1月14日にスケジュールを終えた。全コース1万km、記号のような簡易地図だけを頼りに怒涛のサハラ砂漠を駆け抜けるモーター競技大会である。過酷な自然環境、良好とはいえない治安、どこまでも広がる荒野が参加者を容赦なく脅かす。

その中で勝ち抜いたのは、ヤマハのXT500というオフロード向け二輪車だった。

ダカールへの道

単に「総距離1万km」と書いても、ピンとこない読者のほうが多いかもしれない。

ここで、第1回パリ・ダカールラリーのコースを具体的に解説していこう。

まずはフランス・パリのトロカデロ広場をスタートし、そのまま地中海まで南下。船に乗り、アルジェリアの首都アルジェに到着。そこからさらに南下して、アルジェリア南部の都市タマンラセットへ。進路をやや東寄りに向けつつ走ると、ニジェールの国境が見えてくる。それを越えて、大モスクで有名なアガデスにチェックイン。ここから進路を西に向ける。

ニジェールの首都ニアメからは北上し、マリ国境を経て同国内の都市ガオに入る。そこから再び西進し、マリの首都バマコへ。その後はニオロ・デュ・サヘルを経て、セネガル国境の向こう側へひた走りダカールで栄光を手にする。異常なコース設定の大会である。試しに、上述の都市をGoogle Mapでチェックしていただきたい。どうしてこんな大会を作ろうと思ったのか、と呆れずにいられない。

「遭難=死」の競技

しかし、そのような酔狂なイベントに80台の四輪車、12台のトラック、そして90台の二輪車が集まった。

なお、この当時のパリ・ダカールラリーは四輪、二輪の区分はなく、総合ポイントで争った。が、ポイント云々は実は大した事柄ではない。まずは完走、いや、命を失わないことが第一である。

舞台が中東に移った現在のダカールラリーでは、各マシンにGPSが装備される。これは競技者が位置情報を確認してチェックポイントに進むためのものではなく、主催者が競技者のコース逸脱を把握するためのもの。遭難してもすぐさま救出できるように、というわけだ。

ところが、世界初のGPS衛星を積んだアトラス宇宙ロケットが打ち上げられたのは1978年2月22日。無論、民間向けのGPSサービスなど影も形もない時代だ。そして競技者が持っているのは、距離と方位と単純な図式だけが記載されているロードブックのみ。

その上、二輪車の場合は運転とナビゲーションを全て自分ひとりで実行しなければならない。パリ・ダカールラリーは「酔狂」という言葉ではまだ足りない、命知らずの冒険家のみが参加できる競技なのだ。

表彰台を独占!

この大会に、フランスのソノートという企業が参戦していた。

ソノートはモーターディーラーで、日本のヤマハの二輪車も取り扱っていた。第1回パリ・ダカールラリーでのチーム名は「ソノート・ヤマハ」。4人のライダーを揃え、マシンはヤマハ・XT500を用意した。

XT500は、アメリカではよく知られたオフロードマシンだった。2ストロークマシンに対抗できる4ストローク単気筒マシン、という根強い評価があったのだ。アメリカで盛んに行われているダートレースにも、そして改造次第ではモトクロスにも投入できる高性能オフローダーXT500。その走破性は、サハラ砂漠でも証明された。

ソノート・ヤマハの4人のライダーで、最高順位を獲得したのはジル・ゴメという選手。彼は惜しくも2位だった。では、1位は誰か?

プライベート参戦のシビル・ヌブーである。

ところが、ヌブーのマシンはソノート・ヤマハと同じXT500だった。つまり第1回パリ・ダカールラリーは、XT500のワン・ツーフィニッシュに終わったということだ。

繰り返すが、第1回パリ・ダカールラリーは四輪、二輪の区分が存在しなかった。ランドローバーやルノーの四輪車を、XT500が完全に抑えてしまった。翌年の第2回大会に至っては、1位から4位までの順位をXT500のライダーが独占したのだ。

「伝説」は永遠に

この栄光をきっかけに、欧州では「YAMAHA」という二輪メーカーの名が一般常識になった。

しかし逆に言えば、命知らずの男共の活躍があったからこそ今現在の知名度がある、ということに他ならない。

これはもちろん、ヤマハに限ったことではない。ホンダは終戦の記憶が拭えない時期にマン島TTレースの参戦を公約し、それを実現させたどころか優勝してしまった。スズキは2ストローク専門メーカーからの脱却のために「伝説のチューニング職人」ポップ吉村とタッグを組み、第1回鈴鹿8時間耐久レースを制した。カワサキは世界最速と操縦性の良好さを兼ね備えたマシンを開発し、それに「Ninja」という名を与えた。

そこには「伝説」の2文字がある。

そして、「伝説」は永遠に語り継がれるだろう。

【参考】
『RACERS.43(三栄書房)』
XT500 開発ストーリー-ヤマハ公式サイト

▼ポップ吉村の伝説に関する記事はこちら!
乗っ取られたヨシムラを取り返せ!日本二輪車業界最大の危機を、ポップ吉村はこうして乗り切った!
闘争心を燃やしてサーキットを駆け抜けろ!「不屈のバイクオヤジ」ポップ吉村は僕らの生活指導教師だった