Culture
2021.07.25

炎の中でも一切動じず。武田信玄も帰依した国師「快川紹喜」の壮絶な最期とは?

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「言葉」には不思議な力が宿る。
──発せられた言葉通りの内容が、現実に起こるのだと。

まさに、古代の日本では、このような考え方が信じられてきた。有名な「言霊(ことだま)」信仰である。

しかし、これは。
「古代」の、そして「日本」に限ったことではない。ググれば、「魔法の言葉」や「アファメーション」など、今でも言葉による多くのアプローチが生み出されている。どれも、自己肯定感を高める言葉で、我が人生をなんとか操縦しようとする試みだ。自分の言葉で自分を縛る。根底には「言霊」の考え方が見て取れるといえるだろう。

もっといえば。
「言葉」には、さらなる大きな力が隠されている。厳密には、自分自身の言葉である必要はない。他者の言葉から勇気をもらって、実際に行動を起こすことだってあるのだから。いいかえれば、「言葉」そのものに、結果を引き寄せる原動力があるというコト。

さて、今回の記事は。
そんな計り知れない力を秘める「言葉」について。

戦国時代には、多くの武将や妻、そして僧侶らが、今際(いまわ)の際で様々な「言葉」を残している。戦乱の世で、死と隣り合わせの人生を、必死で生き抜いた彼ら。その1つ1つの言葉には、受け止めきれないほどの重みを感じる。

なかでも、今なお有名なのが、コチラの一節。

「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば、火も自ずから涼し」

「快川紹喜(かいせんじょうき)」国師が、炎の中で発したとされる言葉である。快川国師は、「正親町(おおぎまち)天皇」から「大通智勝(だいつうちしん)国師」の称号を賜ったほどの高名な禅僧。あの武田信玄も帰依したといわれている。

彼が遺した言葉は。
現代の私たちに、一体、何を教えてくれるのだろうか。

壮絶な最期を迎えても、決して信念を曲げなかった快川紹喜国師。

彼の生き様をじっくりと辿ってみたい。

※冒頭の画像は「快川国師頂相」(神護山崇福寺所蔵)となります
※この記事は、「竹中半兵衛」「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

「義」を尽くす一本気な性格だった?

まずは、早速だが。
快川紹喜国師が書いた、ある手紙の一節から。

手紙の内容は、戦国時代の武将である「竹中重治(しげはる)」について。どちらかといえば「重治」よりも、通称の「半兵衛(はんべえ)」の方が知られているかもしれない。のちに、黒田官兵衛と共に、豊臣秀吉の「軍師」として名を馳せる人物である。

そんな半兵衛が若き頃。
ある事件が起こる。
「秀吉の軍師」よりも先に、「竹中半兵衛」の名が世に広く知れ渡るきっかけとなった出来事である。

それが、「稲葉山城(岐阜城)の乗っ取り」騒動。

当時の稲葉山城の城主は「斎藤龍興(たつおき)」。
彼は、美濃(岐阜県)のマムシで有名な「斎藤道三(どうさん)」の孫である。

竹中半兵衛は、当初、道三の子である「義龍(よしたつ)」に仕えていた。義龍の死後は、家督を継いだ「龍興」が若き主君に。ただ、日頃から、龍興の寵臣らの言動は、目に余るものがあったという。これに耐えかね、永禄7(1564)年2月、半兵衛は行動を起こす。なんと、わずか十数名で、知略を用いて稲葉山城を乗っ取るのであった。

落合芳幾筆 「太平記英勇伝」「九」「齋藤竜興」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これが、快川国師と一体何の関係が……と疑問に思うだろう。

じつは、当時の禅寺は、情報共有の場、いわば、情報が行き交う中継地点的な存在でもあったという。禅寺同士のネットワークが築かれており、近くで起こった出来事があれば、その情報を互いに共有していたようだ。

永禄7(1564)年であれば、快川国師は、美濃(岐阜県)の崇福寺、もしくは尾張(愛知県)の瑞泉寺のどちらかにいたであろう。寺の近くで「城乗っ取り」などというセンセーショナルな出来事が起こったからには。もちろん、情報共有の対象となるのは必至。

このような経緯もあって。
快川国師は、この出来事を手紙に記す。相手は、飛騨(岐阜県)の「禅昌寺」。事の顛末を簡潔に伝えた内容なのだが、なかには、快川国師の人柄が分かるような箇所がある。その一部を抜粋しよう。

「恥を知らず、義を存ぜざる者共、皆両人の幕下に属す。蒼天々々、恥を知り義を存じ命を軽んずる者、太守に付く也。生を憐れむべし」
(小和田哲男著『戦国武将を育てた禅僧たち』より一部抜粋) 

「太守」とは、斎藤龍興のコト。
つまり、快川国師は、前半部分において、半兵衛側についた者たちを「恥を知らず、義を存せざる者」と酷評。寺同士といえど、まあまあの辛口コメントである。一方で「太守」側、つまり、裏切らずに斎藤龍興側に残った者については、「義」があると一定の評価を下している。

一度、忠義を誓った相手を簡単に裏切るなど、言語道断。状況に応じて、その都度、態度をコロコロ変えるのは、生に執着し過ぎだという考え方なのだろう。

この言葉から、快川国師の真っ直ぐな性格が読み取れる。

迫りくる織田勢に一歩も退かず

本来ならば、一本気な性格は賞賛されるところだが。残念ながら、快川紹喜国師のこの真っ直ぐな性格が、「命取り」になったのはいうまでもない。

ここで、快川国師について簡単に説明しておこう。

快川国師は、臨済宗妙心寺派の禅僧。
美濃(岐阜県)の出身で、守護大名であった土岐氏の一族だったともいわれているが、詳細は分かっていない。京都の妙心寺四派の1つである「東海派」の「仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)」を師とし、その仏法の奥義を継いで法嗣となっている。

経歴としては、美濃の「崇福寺第三世」、同じく美濃の「南宗寺第三世」、また、京都の「妙心寺第四十三世」も務めている。これだけでも、当時、複数の寺から招聘されるほどの高僧だということが分かる。

それだけではない。
あの武田信玄が、是非にと。
甲斐国(山梨県)「恵林寺」の住職に、激押ししたというではないか。

月岡芳年筆 「大日本名将鑑武田大膳太夫晴信入道信玄」「大日本名将鑑」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

こうして、快川国師は、一度は信玄の招きで「恵林寺」の住職となるも、何らかの事情で「崇福寺」に戻ったようである。ただ、その後も度重なる信玄からの懇願もあり、永禄7(1564)年に、再度、恵林寺の住職となる。

どうやら、これには。
信玄もかなりの待遇で、快川国師を迎えたようである。寺領を加増して、恵林寺を自らの廟所とすると決めたのだとか。実際に、信玄が死去した際は、遺言通り、3年待ってから恵林寺にて盛大な葬儀が執り行われた。もちろん、この葬儀での「導師」を務めたのは快川国師である。

これほどまでに、信玄と深い繋がりがあった快川紹喜国師。一方で、見方を変えると、また違った景色が現れる。いうなれば、武田家滅亡に力を入れていた織田家からは、恵林寺と快川国師は注視すべき存在であったようにも思う。

そんな中、風向きが大きくが変わったのが、天正10(1582)年3月11日。武田家を率いていた武田勝頼(かつより)が、相次ぐ家臣の裏切りに遭い、天目山で自刃。織田勢は残党狩りと共に、武田家の菩提寺である「恵林寺」に目を向ける。

織田信長の家臣であった太田牛一が記す『信長公記』には、このような見出しが。

「恵林寺を成敗」

悪い予感ほど当たるもの。
ちなみに、成敗の理由はというと。
反織田勢力である六角義賢の子の「六角次郎(義定とも)」を匿ったからだという。信長の嫡男である「信忠」は、恵林寺僧衆成敗の奉行として、織田元秀ら4名を任命。彼らは恵林寺へと出向き、寺の周りをぐるりと包囲する。

蜷川式胤模筆 「大雲院/織田信忠像」(所蔵 東京国立博物館) 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

悲劇は刻々と迫りくる。
『信長公記』には、その様子が描かれている。

「寺内の僧衆を老若残さず山門に集合させ、二階へ上がらせた。廊門から山門にかけて刈り草を積み、火をつけた。初めは黒煙が立ちのぼって見えなかったが、しだいに煙はおさまって焼け上がり、階上の人の姿が見えるようになった」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

信じられないことに。
最初から、彼らは焼くつもりなのだ。

それにしても、二階に押し込められた人々の絶望は、いかほどのものだったであろう。「焼かれる」と頭では分かっていても、気持ちが追い付かない。煙と熱さで、次第に現実味を帯びる状況。その酷さは、想像に余りある。

ここで、彼らはどのような反応だったかというと。

「そのほかの老若・稚児・若衆たちは、躍り上がり、飛び上がり、互いに抱き合って泣き叫び、焦熱地獄・大焦熱地獄のような炎にあぶられ、地獄・畜生道・餓鬼道の苦しみに悲鳴を上げている有様は、目も当てられなかった」
(同上より一部抜粋)

いつもながら、太田牛一は。
耐えがたい惨状に対して「目も当てられない」との表現を流用しがち。ただ、本当に、直視できない地獄絵図のような現場だったはず。

そんななか、快川紹喜国師はというと。

「快川紹喜長老は少しも騒がず、きちんと座ったまま動かないでいた」
(同上より一部抜粋)

なお、『信長公記』にはここまでの記述しかない。
ただ、恵林寺に伝わる話によれば。

炎に包まれて。
落命の瞬間に、あの有名な一節を残したという。

「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)」
「滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)」

じつは、この言葉。
快川国師が作ったワケではない。宋の時代に作られた仏書である「碧巌録(へきがんろく)」に収められている詩の一部だという。

「心頭」とは、簡単にいえば「煩悩」である。煩悩を滅却する。つまり、煩悩に惑わされず、無念無想の境地に入る。そうすれば、現実世界の様々な雑音を感じなくなるという意味合いだ。快川国師は、最期にこう言いたかったのだろう。坐禅をするのに、必ずしも静かな山中や水辺にいる必要はない。「無」の境地になれば、業火の恐ろしさも感じない。火さえも涼しく感じられるのだと。

じつに、多くの者たちが、炎の中へと消えていった。『信長公記』によれば、快川国師を含め、長老格だけでも11人の僧侶が焼き殺されているという。全て含めれば、その数150名余り。

天正10(1582)年4月3日。
恵林寺は、こうして滅亡したのである。

最後に。
当時、寺には「アジール(聖域)」としての意味合いがあった。世俗の権力が及ばず、いわば、社会的に認められた「避難所」のような存在といえるだろう。和歌山県にある「高野山」などがいい例だ。犯罪者が駆け込める「遁科屋(たんかや)」という建物があったというから、本格的だ。

たとえ戦に負けても、寺に逃げ込めば追及されなかった時代。しかし、このアジールも次第に統制されていく。天下を取る、つまり、権力が一極集中になるというコトは、裏を返せば、他に権力は認められないというコト。

これに、快川国師は身をもって抗議した。
我が身は滅びゆくとも、その精神だけは誰にも侵されまい。そんな生き様は、コロナ禍での現代において、私たちに、そっと心の持ちようを教えてくれる。

周囲の雑音に囚われるな。「無」の境地が大事なのだと。

もちろん、雑音には「気候」も含まれる。
これからが、夏本番。

今年の夏こそは。
さすがに、暑い暑いと、文句を垂れることだけはやめよう。
この記事を書いて、そう心に誓った。

参考文献
『戦国武将を育てた禅僧たち』 小和田哲男著 株式会社新潮社 2007年12月
『あなたの知らない戦国史』 小林智広編 辰巳出版株式会社 2016年12月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月