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2021.08.14

「し~ば~ら~く~」開会式の歌舞伎『暫』のモデル!隻眼の坂東武者、鎌倉権五郎景政を大解説

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東京2020オリンピックの開会式で、歌舞伎役者の市川海老蔵さんが『暫(しばらく)』という演目を演じました。

ストーリーは単純明快な勧善懲悪ものです。罪もない男女が悪人に捕らえられて、今まさに殺されようとしたときに、「し~ば~ら~く~」という掛け声と共に現れた正義のヒーローが、大立ち回りでやっつけます。

そういう演目だったんだ!

元々、登場人物に名前は無く、主人公のヒーローは「暫」、悪人は「ウケ」と呼ばれていました。明治時代の公演で、主人公に「鎌倉権五郎景政(かまくら ごんごろう かげまさ)」、悪人は「清原武衡(きよはら たけひら)」という名前が付けられます。

実はこの名前は平安後期の実在人物名です。歌舞伎の『暫』についての解説は、和樂webライターの中の歌舞伎に詳しい方にお譲りして、私は実在した鎌倉景政について解説したいと思います!

隻眼の坂東武者、鎌倉景政

鎌倉景政は、相模国(現・神奈川県)の豪族でした。元服したばかりの16歳の頃、源義家(みなもと よしいえ)の招集に応じ、東北地方の戦を平定しに出陣します。

この戦は「後三年の役(ごさんねんの えき)」といって、元々は親戚同士のイザコザから発展したものです。義家は清原清衡(きよはら きよひら)に加勢し、清衡の叔父である清原武衡と敵対する事になります。

親戚同士のイザコザ……現代でも遺産の配分とかでモメるよなぁ。

歌舞伎の『暫』で、悪役の名前が武衡なのは、景政が義家の下にいたからでしょう。

後三年の役の鎌倉景政

後三年の役の終盤、寛治元(1083)年。現在の秋田県横手市にあった金沢柵(かねさわさく)という城に、武衡は籠城します。義家は冬が本格的になる前に、どうにか攻め落とそうとして、坂東武者たちに突撃を命じました。

その時にいの一番に駆けだしたのが、鎌倉景政です。しかし、突撃した兵は向こうからは丸見えでした。先頭を真っすぐに駆け抜ける景政めがけて矢が飛んできて、なんと右目に深々と刺さってしまいました。

ギャァ!! 痛いッッ!!!

けれど運よく致命傷には至らず、景政は邪魔とばかりに刺さった矢を折って射返します。すると見事敵に命中し射殺しました。そして本陣へと引き返した所でバッタリと倒れます。

そこに寄って来たのは三浦一族の先祖、イケオジ(*個人の願望です)の三浦為継です。景政の手当てをするために、右目に刺さった矢を引き抜こうとして頭に足を駆けました。すると景政は突然刀を抜いて為継に斬りかかりました。

「なに、なんなのこの子? どうしたの? なんでそんな事するの?」と咄嗟に避けつつも戸惑う為継に、景政は「うるせぇ、顔を足蹴にすんなよオッサン! 顔を踏まれて手当されるぐらいなら、オッサンを殺して、そのまま死ぬわ!」と言いました。

為継は「はぁ、わかったわかった」といって、改めて膝をかがめて顔を手で押さえて矢を抜きましたとさ。

お手てならいいんかいっ!

鎌倉景政の目に刺さった矢を引っこ抜く三浦為継 菊池容斎『前賢故実 巻第6』(国立国会図書館デジタルコレクション

なんというか、16歳ぐらいの反後期真っ盛りの少年と、その扱いに慣れているオッサン具合がほのぼの(?)するエピソードですね!(流血沙汰ですけど)

その後の顛末

そんな鎌倉景政の奮戦があったにも関わらず、金沢柵を落とせないまま冬になってしまいました。そこで義家軍は作戦を兵糧攻めに変えます。城をぐるりと包囲したまま冬になってしまったので、清原武衡たちは食料が尽きてしまいました。

兵糧攻めって、めちゃくちゃ厳しいものみたいですね。兵糧攻めに関してはこちらの記事もどうぞ
秀吉が2年に渡って兵糧攻めを行った「三木合戦」の顛末。別所長治ら戦国武将の凄惨な最期とは

そこで、女性や子どもたちを先に投降してきましたが、なんと義家軍は投降してきた者たちを容赦なく処刑してしまいました。これで投降しても無駄だと悟った武衡たちは恐怖にかられ、城に火をつけて敗走しました。

しかし武衡たちは捕まってしまい斬首されてしまいました。こうして後三年の役は義家軍の勝利となります。

……こうして見ると、無実の者を殺そうとしている「ウケ」って、どうも義家の方に思えてしまうのですが……。なぜ『暫』のヒーローが鎌倉景政になったのか……ちょっと謎ですね。

その後の鎌倉景政

景政は片方の目を失ったものの、無事一命を取り戻したようで、故郷に戻ると土地の開発に尽力を尽くしました。そして景政の死後に、その土地を巡って坂東武者同士のイザコザがあるのですが、今回はそこはちょっと割愛します。

景政の没年は不明ですが、景政は死後も活躍することになります。どういうことかというと……。

死んだ後にどうやって活躍するっていうんだ!?

神となった鎌倉景政

古来、日本には多くの武勇伝を残した人物の顕彰、あるいは無念を残して亡くなった人物の慰霊のために、その人物を「神」として祀る風習がありました。鎌倉景政もまた、子孫によって神となっています。

関東地方の御霊神社

鎌倉周辺にある「御霊(ごりょう)神社」は、鎌倉景政か、その土地にいた豪族の先祖を祀る神社です。けれど元々の御霊神社を崇拝する「御霊信仰」は先祖の霊を神とする神社ではありません。

御霊信仰の発祥は京都で、元々は怨霊となった早良親王を鎮めるための神社でした。それが何故鎌倉に入った時に先祖を祀る神社となったのかは詳しい事は定かではありません。

けれど御霊の「ごりょう」と、鎌倉景政のあだ名である「権五郎」の「ごろう」の読みが似ていることに関連があるのではないか、と多くの研究者は考えているようです。

えっ、なかなかのこじつけ……! そういえば鎌倉時代はこじつけ名人がいたし、こじつけがちな時代なのかな?
ちょっと、こじつけすぎ~!鎌倉時代の不思議な語源辞典『名語記』は、コアな情報系同人誌?

個人的には、「よく知らない昔の怨霊より、そりゃご先祖様の方が有難いし、守ってくれそうだよなぁ……」と思います。

勝利の神・鎌倉景政

御霊神社の祭神、鎌倉景政のご利益は、その武勇伝から「戦勝祈願」と、片方の目を失った逸話から「眼病平癒」があります。オリンピックで歌舞伎『暫』が演じられたのは、景政が勝利の神様だと思うとぴったりのような気がしますね!

なるほどねっ!

製鉄の神・鎌倉景政

また鎌倉周辺以外の地域でも、鎌倉景政が祀られている神社があります。多くは後三年の役の帰り道で立ち寄ったとされていますが、秋田から鎌倉に行くのにそっちには行かないのでは? というルート上にあったりします。

その場合の景政の伝承地には、製鉄の民がいたというパターンがあります。実は民俗学に「一つ目小僧=製鉄の熱と火で片方の目が見えなくなってしまった製鉄の民の姿の神」という考察もあって、片方の目を失った鎌倉景政が、一つ目小僧の代わりに製鉄の神となっていると考えられているようです。

英雄・鎌倉景政

英雄となった鎌倉景政は各地に伝承や祀られた神社が残っています。コロナが収束した後、旅行に行った時に見かける事もあるかもしれません。その時に、コロナの中で開催されたオリンピックを思い出しつつ、彼の人生に思いを馳せてみてください。

旅行に行けるようになったら探してみます!

参考文献

『奥州後三年記』
湯山学『相模武士―全系譜とその史蹟〈1〉鎌倉党』
村上光彦・村上敦子『鎌倉から見た信仰史1』

アイキャッチ画像:後三年合戦絵巻 巻下 (「ColBase」をもとに加工して作成)

御霊信仰の始まりとなった悲劇の皇子、早良親王に関する基礎知識はこちら

実在した祟り神、早良親王とは? 御霊信仰の始まりが3分でわかる記事は以下よりどうぞ!

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