「国内最大級の埋蔵銭を発見」
数年前、各新聞がこのニュースを一斉に報じた。
それは、平成29(2017)年12月25日、埼玉県蓮田市の「新井堀の内遺跡」でのこと。県道の建設工事に伴う事前発掘で、常滑焼の大甕(おおがめ)が発見された。もちろん、それだけではない。その甕の中には、ほぼ隙間なく上からぎっしりと「銭」が入っていたというのである。
この甕、容量は約280リットル。総重量は1トン超え。
のちにX線撮影などで調査した結果、銭の枚数が26万枚以上と判明。国内最大級の埋蔵銭ということで、ちょっとした騒ぎになったのだ。ちなみに発見された場所はというと。伝承では、戦国時代の岩付城主「太田資正(すけまさ)」の家臣「野口多門」の館跡なのだとか。
それにしても、埋蔵銭発見のニュースには、心躍るモノがある。つい、庭を掘ったらザクザク出てきたりしてみたいな。自分が発見するかもという「夢想」。全く考古学に関係ない身でありながら、なぜか期待してしまう。
ただ、発見された側にしてみれば、涙をのむしかない顛末。
今回は、そんな戦乱の世に、多くの犠牲を強いられた人たちにスポットを当てたい。「命と財産」を守るために編み出された、戦国時代ならではの危機管理術。そこに、「ま、まてえぃ」と立ちはだかる戦国武将たち。
彼らのあくなき攻防戦とは?
それでは、早速、ご紹介していこう。
物隠し、物預けに奔走する人々
戦乱の世は、なにも戦国武将だけが大変だったワケではない。
最も被害を受けたのは「戦場」となった場所の住人だ。村や町に「戦がくる」との知らせが入れば、彼らは我先にとその準備に入ることに。
例えば、村であれば。
代官や長老たちが、真っ先に買うモノがある。
「禁制(きんせい、制札)」だ。
いうなれば、軍の統率者が、その村に対して安全を約束した「保証書」のようなモノ。戦乱時での略奪や破壊行為などから、相手を保護する目的で発行される。
からくりは、こうだ。
発行する側は、自軍に「その村で乱暴狼藉をしてはならぬ」と禁止をすればよい。そして、この禁止の見返りとして、村側からカネをもらうのだ。村の代官や長老は、たとえ身銭を切ってでも、村の安全が約束されるなら安いもの。戦国武将にとっても、禁制の発行で戦費を賄うことができる。重要な資金源にもなりうる禁制。パッと見は、両者ウィンウィンのような気がしなくもない。
ただ、よく考えれば。
何の落ち度もないのに、カネを払って安全を買う。なんだか、誘拐犯に身代金を支払うような感覚だ。そんな一方的に不平等な関係を押し付けられた村だって、そうそうやられっぱなしではない。禁制を発行した軍勢が不利となれば、逆に敵方の「禁制」を買うことも。戦でどちらが勝つのか、その行方を見極める村びとたちも大変だったのである。
しかし、である。
これでも、完璧な準備だとはいえない。
村が主戦場となってしまえば、命の保証がないからだ。なかには、自力で戦った村もあるが、本格的な敵軍からの攻撃に耐えるのは至難の業。こうなれば、否応なしに避難するしかない。ということで、彼らは家族と僅かな食料を携えて、城へと逃げ込むことも。
あれれ。
ちょっと待って。
城に持ち込むことのできないモノは、どーすんだ。
彼らだって、色々と蓄えているはずだろう。例えば、ポータブル不可の家財道具や家畜。そして、バレてはいけない内緒の蓄財に大切な証文など。これらを持ち運ぶことができないとなれば。単純に……。
──隠すしかない
じつはコレ、冗談のようでホントの話。
手っ取り早いのは、地下に埋める方法だ。家の床下や周囲に穴を掘る。それも容易に掘り返せないような深い穴だ。そして、この穴に、大切な財産を埋めて隠すのである。
外へと持ち出す事のできない重いモノ、隠しモノであれば、なおさら。冒頭でご紹介した「銭甕(ぜにがめ)」も、まさに地下一択。運び出すだけで奪われる可能性があるのだから仕方ない。
逆に、穴に埋めることができないモノも。
例えば、物理的にみて家畜は不可。それに、隠した場所が敵軍の占領地となる可能性が高い場合も厳しいだろう。隠したところで、取り出せなければ意味がない。
そこで考えられる方法といえば……。
──預けるしかない
ということで、もう1つの選択肢が、他の村や寺社などに「預ける」コト。ちなみに、この場合は、預け先から「預かった」という証文をもらうのが一般的。いわゆる「預かり状」や「請取状」の類だ。こうして、村に戦の知らせが届けば、彼らは慌ててその準備にとりかかる。
これは、町とて同じコト。
その騒乱ぶりは、奈良の興福寺塔頭(たっちゅう、大寺の寺内寺院のこと)「多門院英俊(たもんいんえいしゅん)」らが記した『多門院日記』からも読み取ることができる。その様子を一部抜粋しよう。
「奈良、田舎、所方へ隠物、上へ下へ返しおわんぬ、誠に子を逆に負うと申すは、この時節也」
(藤木久志著『城と隠物の戦国誌』より一部抜粋)
天文11(1542)年3月17日~19日の奈良の様子だという。当時は、室町幕府の権力争いが激化していた頃である。奈良にもその影響が出始めたのだろう。
戦になると予測した奈良の人たちは、家財を隠そうと上へ下への大騒ぎ。まるで赤子を逆さに背負うような騒動っぷりだとか。
どの時代でも、どの場所でも。
辛いのは、巻き込まれる住人たちなのである。
「道具改め」で発覚した意外なモノ
ここで、残念なお知らせがある。
穴を掘って埋めてみたり。寺社に預けてみたり。色々と対策を立てたものの、まさかの味方の軍が敗北した場合は……。
これは、確かに、気になるところ。
一体、どのような処遇となるのだろうか。
ズバリ、結論からいうと。
身も蓋もないが。
──全て「没収」
そんな無慈悲な。
住人たちからは、ため息が聞こえてきそうだが。勝利した敵方からすれば、正直、そこが旨味なワケで。彼らは、戦場となった場所の「隠物(かくしもの)」「預物(あずかりもの)」を探して没収。これで得たモノが、戦の成果物となるのである。
だからなのか、徹底した追及を行うため「預物帳」たる帳簿まで作成して一括管理することも。こうして、戦に勝てば、血眼になって捜索が始まることに。この追及を「道具改め」もしくは「道具尋ね」と呼ぶのだとか。
さて、ここからは。
勝利した戦国大名が出した「引き渡しの命令」をご紹介しよう。
まずは、天下人となる前の豊臣秀吉が出した命令から。
天正2(1574)年正月。
近江(滋賀県)を制圧した豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が出した命令は、なんと竹生島(ちくぶしま、滋賀県)に対してのもの。
「当島に備前(浅井備前守長政)預け置き候、材木の儀、きっと改め、あい渡すべく候、如在(じょさい)においては、曲事(くせごと)たるべく候」
(同上より一部抜粋)
引き渡せと命じた対象物は「材木」。
浅井長政が竹生島に預けていた大量の材木がある。そんな情報を秀吉はキャッチ。すかさず目を付けて、預かり先の竹生島に命令を出したのである。内容は、浅井の材木を調べ上げるからなと、まあまあな脅迫。ラストには、引き渡さずにごまかせば処罰するぞと、キツーイ一言。
それにしても、何に使うのかというと。
長浜城の築城用だとか。全く、秀吉も困ったものである。
さて、お次は、その秀吉の元主君、織田信長である。
天正5(1577)年5月。
信長が自刃する「本能寺の変」の約5年前のこと。先ほどご紹介した『多門院日記』に、その様子が記されている。
「ナラ中ネコ・ニワトリ、安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中ヘ、方々隠了(かくしおわんぬ)、タカノエノ用、云々」
(同上より一部抜粋)
どうやら安土城の織田信長の指示で、奈良にネコやニワトリを取りに来るとのこと。鷹狩りが好きな信長である。飼っている鷹の餌にするという噂が、奈良の町にまことしやかに流れたのだ。これに、奈良の人たちは驚愕。ヤバい、うちのネコやニワトリが……。向かった先は、興福寺。僧らにネコやニワトリを預けに来たというのである。
こうなると、預かるお寺も大変だ。
町中から集まったネコやらニワトリやら。
なんだか、ほのぼのとしているようで。「あっと、そこ、ニワトリを攻撃しない」って。ネコに注意している姿が想像できて、妙におかしい。
ニャーとかコケコッコーとか。
きっと、せわしない有様だったのだろうか。
最後に。
「預けた側」「没収する側」。
この両サイドを見てきたワケだが。何か大事な存在を忘れていないだろうか。
それは……。
戦乱時に大事な物を託された人たち。
いわゆる、「預かった側」である。
先ほどのネコやニワトリでも登場したが。多くは、寺の僧などが人々の大切なモノを預かることに。ここでは、残念ながら、書くことができなかったが。本来、預かった側は、その命を捨ててでも、預物を死守すべきだと考えられていた。
全ては「名誉」のため。
自分を頼ってくれた者たちの信頼に応えるため。
だから、知ってほしいと思う。
我が身を捨てるほどの「預かった側」の覚悟。
彼らの、そんなアナザーストリーがあることを。
参考文献 『城と隠物の戦国誌』 藤木久志著 株式会社筑摩書房 2021年1月