Culture
2021.10.13

自身も被爆しながら救護を続けた「永井隆」とはどんな人?永井隆記念館館長に聞く、功績と魅力

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1945(昭和20)年8月9日、長崎市に世界で2例目の原子爆弾が投下。自身も被爆しながら、懸命に救護を続けた医師永井隆(ながいたかし:1908~1951年)の人生をお伝えします。
コロナ禍で私達のために奮闘されている医療従事者の方々にも、思いを馳せていただければうれしいです。

父の影響で医師を志す

永井隆は1908(明治41)年、島根県松江市に生まれました。翌年、医師である父が開業をするため、同県飯石(いいし)郡飯石村(現、雲南市三刀屋<みとや>町)に転居。旧制松江高等学校卒業後、1928(昭和3)年、長崎医科大学(現、長崎大学医学部)に入学し、医師を志します。長崎市という、キリスト教信者の多い土地柄。合わせてキリスト教(カトリック)へも関心を持ちます。

永井隆博士生い立ちの家 小学校を卒業するまで過ごした家。左の茅葺屋根の家屋は母屋。右の別棟は1階が馬屋で、2階が父の診療所。(雲南市永井隆記念館提供)
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放射線医学の医師、軍医に

1932(昭和7)年、長崎医科大学を卒業した永井は、物理的療法科に入局し、放射線医学の専門医を目指します。
1933(昭和8)年、軍医として満州事変に従軍。この間『公教要理』※を読み、カトリックへの理解を深めます。
翌1934(昭和9)年帰国後洗礼を受け、同じく信徒である森山緑と結婚。
1937(昭和12)年の日中戦争にも軍医として従軍。

医師としての経験を積んでいきます。

※キリスト教の教理を要約した解説書。

医学博士に、しかし白血病の診断を受ける

1940(昭和15)年、戦地から無事帰国し同年助教授に。1944(昭和19)年には医学博士となりました。当時不治の病と呼ばれた結核の治療に、エックス線を使い尽力。家庭では父親として、公私ともに充実していました(以降、永井博士と記します)。

1945(昭和20)年6月、37歳の永井博士は白血病の診断を受け、余命3年の宣告を受けます。当時、多くの医師が招集され現場は人手不足。激務の上、物資不足で直接透視を続けたため、規定値以上の放射線を浴びていたのでした。
今で言うブラックな職場ですが、

私には、どんなにへとへとに弱り疲れていても、患者さんの顔を見ると診療せずにはおられぬ本能があった。いや、私はとにかく放射線の研究が好きで好きでたまらなかったからのことである。 
『この子を残して』「この子を残して」

自身の病状を緑夫人に伝えたところ、

「生きるも死ぬも神様のみ栄えのためにネ」
と言ってくれた。
二人の幼子の行末について相談をしたら、
「あなたが命をかけて研究なさったお仕事ですから、きっと子供たちもお志をついでくれるでしょう」
と言った。
その言葉に私はすっかり落ち着きを取り戻した。
同 

白血病の診断を受けながらも、生きがいを見つけた永井博士。原爆投下の2か月前のことです。

体がつらいのに、他人のため・研究のために動く。私はそこまでできる自信がないかもしれません……。

1945年8月9日、長崎市に世界で2例目の原爆投下

1945年8月9日、永井博士は勤務先の長崎医科大学でレントゲン写真の整理をしていました。11時02分、長崎市に世界で2例目の原爆投下。3日前の8月6日に、世界初の原爆が広島市に投下されたばかり。大学は爆心地から700mの距離にありました。その瞬間を、このように語っています。

目の前がぴかっと閃いた。全く青天のへきれきであった。爆弾が玄関に落ちた! 私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙にふきとばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされていった。
『長崎の鐘』「三、爆撃直後の情景」

吹き飛ばされた永井博士は、右半身に大けがを負ったものの、生き残った医師や看護師と共に必死に救護にあたります。
家族はというと、3日前に2人の子ども達は義母と疎開をしており無事でした。しかし緑夫人は、焼失した自宅の台所付近で亡くなっていました。
悲しみをこらえて緑夫人を埋葬した後も、救護活動を続けます。しかし、9月半ば体調を崩し危篤状態に。幸い一命は取り止めましたが、一時救護の現場からは離れました。無念だったと思います。

医師としての使命と緑夫人の言葉、そして2人の子ども達の存在が、永井博士をここまで突き動かしたのではないでしょうか。

原爆と向き合う決意

現場から離れても、医師としての役目を全うする永井博士。
1945年10月、救護活動の合間に執筆した論文「長崎医大原子爆弾救護報告」を医科大学長に提出。1946(昭和21)年1月には、教授に就任し講義を続けましたが、同年7月長崎駅で倒れ、その後は病床に伏すことになりました。
このような状態になると、全てを投げ出したくなりますが、永井博士は違いました。

患者を診るどころか、顕微鏡をのぞく力もない。しかし幸いなことには、私の研究したい原子病そのものが私の肉体にある。
『この子を残して』「この子を残して」

自分の肉体を観察・実験の対象にして、原子病(原爆症)と向き合う強さが感じられます。

根っからの研究者なんだなあ。尊敬。

如己堂(にょこどう)へ、病床からの執筆

1948(昭和23)年、カトリックの信者仲間達の好意により、永井父子のために二畳ほどの小さな住まいが建てられました。
永井博士は、聖書の「己の如く隣人を愛せよ」という言葉から「如己堂(にょこどう)」と名付けました。

雲南市の如己堂(復元) 永井博士生誕100年を記念し、長崎市永井隆記念館の協力を得て2008(平成20)年建設。(雲南市永井隆記念館提供)

ここのベッドで、原爆症の研究と執筆活動に入ります。周囲には、本や原稿用紙、筆記用具、絵具などが置かれていました。
小説や随筆を意欲的に発表し、『長崎の鐘』『この子を残して』は映画化、『長崎の鐘』をモチーフとした歌謡曲も作られました。作曲は、2020(令和2)年連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルとなった古関裕而(こせきゆうじ)が担当し、大ヒット。著書の印税の大半は、長崎市に寄付しています。

また、如己堂の隣に「うちらの本箱」という私設図書館を設置。戦禍により学校に行けず教育が遅れた子ども達が、自由に学べるようにしました。
永井博士の活動は、国内外に広く知られるようになり、ヘレンケラーが見舞いに訪れたり、九州巡幸中の昭和天皇に拝謁したりしました。

一方で、子ども達とこんなやり取りも。
主治医からは「お父さんの側に、近寄ってはいけません! 」と言われている子ども達。健気に言いつけを守り、少し離れたところから話をします。それでも何かの拍子にお腹に乗られて内臓が傷ついては大変と、永井博士はベッドの周りに本などを並べて、「愛情を隔てるバリケード」を作りました。

本当は近づきたくてたまらないはずなのに……。

また、子ども達にはこんな思いを記しています。

美しい思い出をのこしてやりたい。潔い思い出をのこしてやりたい。ゆかしい思い出をのこしてやりたい。ひとりの父と、ひとりの母―この純粋な親の思い出を……。
『この子を残して』「遺産」

限られた時間を、子ども達と大切に過ごしたい。それが執筆への原動力となったのでしょう。

子ども達を残し、43歳で死去

1951(昭和26)年5月1日、体調が急変した永井博士は長崎医科大学付属病院に緊急入院。祈りの中で、静かに息を引き取りました。享年43。余命3年と言われてから、6年が経過。長崎市による市葬が行われ、緑夫人と共に埋葬されています。
子ども達は叔父夫婦に引き取られ、実子と分け隔てなく育てられました。

雲南市永井隆記念館館長に伺う、永井隆博士の魅力

永井博士の功績を伝える記念館は、2か所あります。1つは医師として過ごした、長崎市の長崎市永井隆記念館。もう1つは生まれ故郷、島根県雲南市の雲南市永井隆記念館。
今回は2021(令和3)年、4月にリニューアルオープンした雲南市永井隆記念館の館長藤原(ふじはら)重信様に、お話を伺いました。

雲南市永井隆記念館外観 入口右側の永井博士の胸像が、来館者をお出迎え。(雲南市永井隆記念館提供)

―― 記念館設立までの経緯を教えてください。
藤原:長崎市での市葬には、出身地の飯石村から参加することはもちろん、同日に地元でも追悼式が行われました。
飯石村では、存命中の1950(昭和25)年に、顕彰会である飯石如己の会を設立(現、三刀屋如己の会)。博士の言葉「如己愛人」から引用しました。

1968(昭和43)年母校である飯石小学校の有志が、「明治100年を記念して“ふるさとの偉人 永井隆博士”の石碑を建立したい」と三刀屋町(当時)に要望。町では「顕彰委員会」を立ち上げ、検討していくうちに「石碑の建立」や「胸像の建立」、「永井隆記念館の建設」と機運が盛り上がりました。そして、全国から集まった5,000件の寄付を元に、1970(昭和45)年10月20日に記念館の竣工式が行われました。同時に1年前にオープンしていた「長崎市永井隆記念館」と姉妹館の締結をしました。

建設から40年以上経ち耐震不足や設備などの不備により、2018(平成30)年度から約3年をかけて整備し、令和3年4月にリニューアルオープンとなりました。

―― リニューアル後の記念館の見どころを教えてください。
藤原:建て替え前の約2倍の大きさとなり、ゆったりとした空間となりました。展示室は全体的に明るくし、「博士の生涯」「今も生きる博士」「博士にふれる」「世界が讃えた博士」の4つのテーマで紹介。写真等にはそれぞれ説明を付け、わかりやすい展示となりました。特に、今回長崎市永井隆記念館にお世話になり、緑夫人の「ロザリオ」を複写させていただき展示しています。

展示室 永井博士直筆の絵はがきや手紙なども多数展示。その人となりが感じられます。(雲南市永井隆記念館提供)

図書室入口 永井博士が開設した私設図書館「うちらの本箱」にならい、記念館内に図書室があります。絵本や児童書の他、永井博士の著書や平和に関する書籍も所蔵。(雲南市永井隆記念館提供)

駐車場付近には、ふるさと納税を利用して「平和の鐘モニュメント」が造られました。

平和の鐘モニュメント 被爆した長崎市の旧浦上天主堂をモチーフに建設。毎日17時、それ以外に博士の命日の5月1日正午、広島原爆投下の日の8月6日8時15分、長崎原爆投下の8月9日11時2分、終戦記念日の8月15日正午に平和を願って鳴っています。(雲南市永井隆記念館提供)

―― 藤原様が思われる、永井博士の魅力を教えてください。
私が思う博士の魅力は、一つは筆まめなところです。学生時代から、故郷の友だちと手紙のやりとりをしていましたが、病臥生活の中でもお見舞いの手紙の返事や、お世話になったことへのお礼をかかさず送っていました。その文面も一人ひとり違った内容で、丁寧に返されていて、よくこれほど書けるものだと感心します。

もう一つは、博士の言葉です。多くの色紙を残されていますが、特に私の心に残る言葉は、「どん底に大地あり」です。心が落ち込んでいる時も、前を向いて進もうという気持ちになれます。

また、著書の『いとし子よ』の中で、残される2人の子どもに対し、「最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、戦争絶対反対を叫び通しておくれ」や、『平和塔』の中で「平和を祈る者は、一本の針をも隠し持っていてはならぬ。たとえ自衛のためでも武器を持っていては平和を祈る資格はない」という言葉を残しています。本当の平和は、こういうことで守られるのだなと感じます。

藤原様、貴重なお話ありがとうございました。永井博士のふるさとを思う気持ち、それに敬意を払う地元の方々の温かさを感じました。

おわりに

自ら選んだテーマでありながら、私は当初書けるか不安になりました。永井博士が病を抱えてシングルファザーとなり、43歳で子ども達を残して亡くなったことに、胸が締め付けられたからです。私は二児の母ですが、子どもとの日常は当たり前ではなく幸せなのだと、永井博士の人生から感じました。ということで、子どもに対し(少しは)小言は控えようかな。

※アイキャッチ画像 雲南市永井隆記念館提供

<協力>
雲南市永井隆記念館  館長藤原重信様

参考文献
永井隆『長崎の鐘 平和文庫』(日本ブックエース、2010年)
永井隆『この子を残して』(ゴマブックス、2010年)
永井隆『いとし子よ』(中央出版社、昭和54年)
永井隆『平和塔』(中央出版社、昭和54年)
永井誠一『長崎の鐘はほほえむ』(女子パウロ会、昭和49年)
日本経済新聞夕刊「被爆・永井博士の遺志継ぐ」(2021年6月4日付)

↑↑↑参考文献で入手可能なものにはリンクをつけてご案内しています(版や出版社が一部異なります)。

▼子供にも伝えていきたい
永井 隆 —平和を祈り愛に生きた医師— (単行本図書)

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。