アニメ世代の「和樂web」読者の人たちにとって、孫悟空といえば漫画『ドラゴンボール』が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。そのモチーフは、中国の明(みん)代に成立した『西遊記』にある。三蔵法師が猿がモデルと言われる孫悟空・豚の妖怪・猪八戒(ちょはっかい)・河童(かっぱ)の沙悟浄(さごじょう)を従え、妖怪や怪物を退治しながらお経をもらいに天竺(てんじく:インドのこと)めざして旅するファンタジックアドベンチャーだ。
ところで、この4人の中でただ一人、固有名詞ではない者がいる。それはだれだろう?
ジャカジャン! 答えは三蔵法師だ。
“三蔵”とは『経(きょう)・律・論』(釈迦の教えやその注釈、僧団における戒律など)を指すが、それらに精通した高僧を指す場合もあり、固有名詞ではない。『西遊記』の三蔵法師には玄奘(げんじょう)という名前があり、玄奘三蔵と呼ばれたりもする。
孫悟空などは架空のキャラクターだが、玄奘三蔵は実在の人物だ。彼が経典を求めてインドに行ったことも史実で、旅の途上で見聞したインドやその周辺各国の様子を詳細にレポートした『大唐西域記(だいとうさいいきき)』は、『西遊記』の成立にも影響を与えたと考えられている。
ところで、日本人でただ一人、“三蔵”の尊称で呼ばれた僧侶がいたことをご存じだろうか。彼の名は霊仙(りょうぜん:霊船・霊宣ともいう)。延暦23(804)年に空海や最澄らとともに遣唐使の一員として唐に渡ったとされるが、帰国することなく唐で生涯を終えた。最澄と空海が主人公のおかざき真理の漫画『阿吽(あうん)』(小学館)にも登場する。彼は唐でどんな業績をあげたのか。なぜ、帰国できなかったのか。“三蔵”と呼ばれるほどの高僧でありながら、日本でほとんど知られていないのはなぜか。知られざる霊仙三蔵の生涯を追ってみた。
※キャッチ画像はJR醒ケ井駅前に立つ霊仙三蔵の像。鈴鹿山系北麓にある霊仙山の方角を向いて立っている。
霊仙は本当にいたのか?
石山寺での大発見
そもそも霊仙は実在したのだろうか。
彼が生きていたと考えられるのは奈良時代末期から平安時代の初期。最澄や空海とともに遣唐使として唐に渡ったとされる延暦23(804)年は、1200年以上昔である。当時の文献や記録で現存しているものはたいへん少なく、ましてや唐で一生を終えたとされる霊仙について記された史料を探すのは至難の業だ。
ところが大正2(1913)年、当時の内務省が滋賀県大津市の石山寺で宝物調査をした際、寺の経蔵からあるお経の古写本が見つかった。『大乗本生心地観経(だいじょうほんじょうしんじかんぎょう)』という、舌を噛みそうな難しい名前である。これは両親家族・社会の人々・国家・仏教という四恩(四つの恩)に報いることの大切さを説いた経典なのだそうだ。この巻一の奥書きには、元和五年(810:この元号は唐のもの。以下元和については同様)7月30日に宮中で梵語(ぼんご)で書かれた同経典が見つかり、唐の都・長安の醴泉寺(れいせんじ)で翻訳がスタートし、翌年3月8日に完成したので、皇帝憲宗(けんそう)に進上したことが書かれていた。梵語とは古代インドで使われていたサンスクリット語のことだ。すなわち長安の醴泉寺で、サンスクリット語で書かれた経典の翻訳事業が行われたのである。
経典翻訳にマルチな語学力を発揮した霊仙
当時、醴泉寺にはインドからやって来た僧・般若三蔵(はんにゃさんぞう)がいて、この翻訳事業は彼によってなされたと考えられていた。ところが奥書きには、般若三蔵以外にも翻訳を手伝った人間が多数おり、上記の内容に続いて翻訳担当者の名前とその役割が列挙されていた。それが次の一文である。
『醴泉寺(れいせんじ)日本国沙門(にほんこくしゃもん) 霊仙 筆受(ひつじゅ)并(並:へい)譯(訳)語(やくご)』
『筆受并譯語』とは、般若三蔵が梵語で読み上げる経文を聴き取って写し取り、さらにそれを漢文に翻訳することである。なんと! 『心地観経』の翻訳で中心的役割を果たしていたのは霊仙だった。しかも、彼は梵語と漢語に精通したバイリンガル、母国語である日本語も入れるとトリリンガルだったと思われる。霊仙は翻訳事業のプロジェクトリーダーであった般若三蔵の弟子だったため、表向きはその他大勢の一人だったが、この業績によって霊仙は皇帝憲宗より“三蔵”の称号が与えられたというのが通説になっている。
それにしても、唐がそれほどまでに経典の翻訳事業に力を入れたのはなぜだろう。実は唐代において国教とされたのは仏教ではなく、神仙的要素の強かった道教であった。しかし、仏教は国を守り災いを沈めるための鎮護国家の宗教として、朝廷や貴族に保護されていた。したがって経典の翻訳や研究は国家を挙げての一大事業だったのである。翻訳には訳経僧(やっきょうそう)と呼ばれた僧侶が従事し、霊仙もその一人だった
最澄の愛弟子・円仁が聞いた霊仙の最期
五台山まで約1200キロを踏破した円仁
石山寺における『大乗本生心地観経』の発見により、霊仙の実在とその業績は証明された。しかし、霊仙とともに遣唐使として海を渡ったという最澄・空海も、残念ながら彼の消息を伝えてはいない。そのため、彼の名を知る人は仏教界でもごく一部であった。
ところが約30年余の後、唐に渡った天台宗の僧侶・円仁は、偶然、霊仙の消息を知ることになり、断片的ではあるが、唐での霊仙のその後を『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』に書き残している。同書は約12年にわたり、唐で求法と巡礼の旅を続けた円仁の詳細な紀行文である。
“円仁”でググると、“マルコ・ポーロを超えた男”というキャッチのついた書名が出てくる。マルコ・ポーロは17年もの間、モンゴルに滞在し、後に『東方見聞録』を著して、日本を黄金の国・ジパングと呼んだ。異国での滞在年数はマルコ・ポーロの方が長いが、確かに自らの足で歩いて各地を見聞したという点では、円仁は彼に勝るとも劣らないかもしれない。
円仁は最澄の愛弟子であり、後に天台座主(てんだいざす:天台宗の法脈の継承者で比叡山延暦寺の住職)となった高僧だ。慈覚大師(じかくだいし)円仁ともいう。遣唐使になったものの、二度も渡航に失敗。承和5(838)年、三度目でようやく成功し、入唐を果たした。
遣唐使船も初期は朝鮮半島沿岸沿いの比較的安全な航路をとっていたようだが、後期になって新羅との関係が悪化したたため、東シナ海横断ルートをとり、海難事故が頻発したようだ。当時は羅針盤もなく、航海術も未熟で、まさに命がけの船旅だった。
円仁は師の最澄が教学を学んだ天台山に行くことを切望するが、短期留学僧であったため許可が下りなかった。天台山は浙江省(せっこうしょう)にある古くからの霊山で、天台宗の根本道場である。最澄は天台山に入山して菩薩戒(ぼさつかい:菩薩として守るべき掟)を受けている。弟子としては何が何でもその目で見たい場所であったに違いない。そこであれこれコネを頼ってなんとか唐に残ることに成功したものの、天台山に行くことは叶わず、代わりに五台山へ行くことを勧められる。五台山もまた中国仏教の聖地の一つであり、実は霊仙がその生涯を閉じたとされる場所であった。
志篤い円仁は、五台山まで約1200㎞余の道のりを約2か月かけて踏破している。
円仁は見た!? 手の皮に描かれた仏の姿
ようやく五台山に到着した円仁は、ここに来た日本人僧侶が過去にもいたことを知る。それが霊仙だった。
円仁は五台山の普通院を訪れる。普通院とは五台山を巡礼する人々が宿泊や休憩などをするための施設であった。その際、西堂の壁面に書かれた次の一文に出会ったという。
日本国(にほんこく)内供奉翻経(ないぐぶほんきょう)大徳(だいとく)霊仙、元和十五年九月十五日この蘭若(らんにゃ)に至る
皇帝の祈祷を司った日本人の高僧で、お経の翻訳にも携わった霊仙が、元和15(820)年9月15日に、人里離れたこの閑静な場所にやってきたと書かれている。円仁はさぞビックリしたことだろう。
この後、彼は五台山の僧侶たちから生前の霊仙についての話を聞き、それを詳細に書き留めている。五台山は文殊菩薩(もんじゅぼさつ:智慧の象徴)の聖地とされ、霊仙が一万の文殊菩薩を見たということ。また、彼は自分の手の皮をはぎとってそこに仏像を描き、その仏像は五台山にある金閣寺の金銅の塔の中に安置されていること。そして、円仁は五台山でその仏像を拝観したというのである。
金閣寺は唐代に建立されたが、近年、文化大革命の際に宗教施設は徹底的に破壊され、寺の中にあった文化財はすべて消滅してしまった。現在の建物はすべてその後に再建されたもののようである。したがって、円仁が見たという手の皮に描かれた仏像が実在したかどうかは確かめる術がない。真偽のほどはともかく、これらのエピソードは霊仙の信仰の強さを物語っているといっていいだろう。
渤海(ぼっかい)僧が果たした霊仙と朝廷の橋渡し
そして、とうとう円仁は、その昔霊仙が暮らしていたという七仏教誡院で、渤海僧・貞素が板に書いた『日本国内供奉大徳霊仙和上を哭(こく)する詩ならびに序』が、壁に打ち付けられているのを発見する。
渤海僧・貞素とは何者か。彼は霊仙とどんな関係にあったのだろうか。
渤海は7世紀後半から10世紀のはじめにかけて朝鮮半島北部から中国東北部、ロシアの日本海沿岸部にかけて存在したツングース系民族国家で、日本とは貿易、国交を含めて緊密な外交関係にあった。唐との関係も良好で、遣唐使を派遣して留学生を送り、唐文化の吸収にも熱心で、政治制度にも唐の律令制を導入している。
霊仙は遣唐使の一員として唐に渡ったというのが通説だと述べたが、語学の習得にはある程度の年数が必要と考えられることから、延暦23(804)年よりもっと早い時期に、渤海の使節団と共に唐へ渡ったのではないかという人もいる。そう考えられるほど、日本と渤海は親密な関係にあった。
そんな中で貞素が果たした役割は、日本の朝廷と霊仙の中継役だった。霊仙の活躍は日本にも聞こえていたとみえて、天長2(825)年、淳和(じゅんな)天皇は、霊仙に届けるようにと貞素に黄金百両を託している。その返礼として、霊仙は貞素に仏舎利(ぶっしゃり:釈迦の遺骨)や経典などを託して日本に届けさせたという。この時点では、霊仙はまだ生きていたことになる。
その後、日本側は貞素の苦労をねぎらい、彼が渤海に帰国する際、新たに霊仙への金百両を託し、日本にいる霊仙の弟妹に、阿波国(あわのくに:現在の徳島県)の稲を千束支給するよう計らった。
天長5(828)年、貞素は託された金百両を持って再び五台山を訪ねるが、この時すでに霊仙は亡くなっていた。彼の死を知った貞素は慟哭(どうこく)し、『日本国内供奉大徳霊仙和上を哭する詩ならびに序』を板に書いて、壁に打ち付けた。円仁が見たのはこれだったのだ。
霊仙は五台山で毒殺された?!
これが史実とするなら、霊仙は天長2(825)年~同5(828)年の間に死んだことになる。その後、円仁は五台山の霊境寺に行き、霊仙の死の真相を知る。それによれば、霊仙は霊境寺の浴室院で毒殺され、遺体を埋葬した場所もどこか分からないということであった。
仏典の翻訳を手伝い、三蔵の名を与えられたとされる高僧がなぜ、唐の都・長安を離れて五台山の辺境の地で毒殺されなければならなかったのか。いったいだれが霊仙を殺したのか。墓の場所もわからないとはどういうことか。
円仁は霊仙の死について、それ以上知ることはできなかった。それからまもなく唐では仏教の弾圧がますます強まり、円仁にも危険が迫っていた。彼は国外追放というかたちで出国を許され、その際強制的に還俗(げんぞく:僧侶から一般人に戻る事)させられている。とにかく、最初から最後まで、ハラハラドキドキの円仁の唐滞在であった。
故国に「大元帥法(だいげんすいほう/だいげんのほう)」を伝えようとした霊仙
霊仙の死のカギを握ると思われる「大元帥法」
ところがこれより約半世紀後の貞観19(877)年、寵寿(ちょうじゅ)という僧侶が朝廷に奏上した『太元法縁起奏上』の中に、霊仙の名が登場する。寵寿の師は常曉(じょうぎょう)という僧侶で、彼は空海の弟子であり、入唐八家(にっとうはっけ)の一人だった。入唐八家とは密教の日本伝来に貢献した8人の高僧のことだ。寵寿にとって師である常曉が「大元帥法」をいかにして日本に伝えたかを朝廷に奏上したのが『太元法縁起奏上』だった。
「大元帥法」とは何か。この書と霊仙の死は何か関係があるのだろうか。
『帝都物語』にも登場した「大元帥法」とは、国外不出の鎮護国家の呪法だった
『太元法縁起奏上』によれば、遣唐使として唐に渡った常暁は、霊仙の弟子だったという3人の僧侶から、大元帥法を修するに必要な曼荼羅(まんだら)や法具などを伝えられたという。霊仙は死に臨み、彼らに「日本から仏法を求める僧侶が来た時は彼に伝えよ」と言い残したのだった。
霊仙は「私が仏法を求めたのは故国日本のためだったが、唐が私を引き留めたため、帰国できず、志を遂げられないのはとても残念だ。仏像や翻訳したお経などはすべて日本へ渡ったが、大元帥法だけは日本に伝わっていない。この法は鎮護国家のための秘法である。宮中以外で行ってはならない」と伝えたとされる。
国外に出すことはタブーだった真言密教の秘法を、霊仙はなんとしても母国日本に伝えようとしていたのだという。決死の覚悟だったに違いない。しかし、果たせず死んだ。彼の毒殺はひょっとするとこのことに関係があったのかもしれないし、霊仙が手の皮をはいで描いた仏像は「大元帥法」の本尊・大元帥明王(たいげんみょうおう)だったのではないかという人もいるようだが、私もそんな気がする。
大元帥明王は国防や国家安泰を祈願する仏法の守護神である。古くは元寇や平将門(たいらのまさかど)の乱、近年では太平洋戦争においても「大元帥法」による連合国調伏の祈祷が行われたという。
かつて荒俣宏(あらまたひろし)の小説で映画化された『帝都物語』という作品があった。太平洋戦争の際、敗色濃い日本軍がアメリカ大統領・ルーズベルトを「大元帥法」によって呪殺しようとする作戦を企てる。まさにこれと同様のことが近代の日本で実際に行われていたというのである。
「大元帥法」は平安の昔から昭和の時代まで、宮中で密かに受け継がれてきた国家機密の呪法だった。ところが平安時代には中宮定子(清少納言の仕えた女性で一条天皇の中宮。藤原道隆の娘)の兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)が藤原道長との政権争いで「大元帥法」を私的に行って大問題となり、処罰されている。
望郷の念を抱いて異郷に散った遣唐使たち
霊仙同様、遣唐使で唐に渡ったが、日本には戻れなかった人々もいた。有名なのは「百人一首」に歌が入っている阿倍仲麻呂だ。霊仙よりも半世紀ほど前の人物だ。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
(はるかかなたの天空を眺めれば月が出ている。あの月は故郷の春日にある三笠山の上に出た月と同じなのだなあ)
彼もまた皇帝の側近にまでなったが、帰国を許されず唐で生涯を終えた。
霊仙もまた、異国の地でどんなにか日本に帰ることを夢見ていたことだろう…
霊仙の出身地は不明 しかし、顕彰活動を行うことで彼が生きた意味を知る
霊仙はどこで生まれたのか
霊仙が自身について書き残したものは現在のところ見つかっていないが、円仁や寵寿が遺した記録をもとに、入唐後の彼の足取りについてはおおよそ知ることができた。ではいったい、彼はどこで生まれ育ち、どういう経緯で唐に渡ることができたのか。これについては昭和9(1934)年に高名な仏教史学者であった元東大教授の高楠順次郎氏による講演が元になって、現滋賀県米原市にある霊仙山(りょうぜんざん)山麓の醒ヶ井(さめがい)を霊仙の出身地とする説が有力となっている。その後、昭和57(1982)年に発刊された薮田藤太郎氏の小説『霊仙三蔵』では、彼の詳細な出身地と本名、両親の名前とともに、その昔、霊仙山にあったとされる霊山寺で教育を受けた後、出家して霊仙となったこと、15歳で奈良の興福寺に入山したことなどが書かれている。しかし小説はあくまでフィクションなので、より現実味を持たせるために著者の想像も交えて書かれていることは否めず、すべてを鵜呑みにはできないが、とにかくこれらがもとになって霊仙の醒ヶ井出身地説はますます広がりを見せた。
ただし、彼の出身地については四国の徳島県説や奈良県説もあり、現時点で本当のところは不明である。
霊仙がゆかりの地のアイデンティティを呼び覚ます
太平洋戦争後、霊仙の顕彰活動はゆかりの地で活発に行われるようになった。霊仙が翻訳した『大乗本生心地観経』が発見された石山寺では顕彰碑が建てられ、昭和62(1987)年には霊仙が生涯を閉じたとされる五台山に、中国仏教協会などの協力を得て顕彰碑を建立した。
醒ヶ井でも本格的な霊仙の顕彰活動が始まった。普門山松尾寺の住職・近藤慈澄氏らを中心に「霊仙三蔵記念堂」の建設が計画され、平成12(2000)年には青山一藏氏を会長とする「霊仙三蔵 顕彰の会」が正式に発足。同16(2004)年3月には霊仙山山麓に記念堂が建立された。また、醒ヶ井の上丹生(かみにゅう)地区には昔から仏壇づくりに従事する職人が多く、木彫の里として知られていた。上丹生出身の彫刻家・森大造(もり たいぞう)氏は「霊仙三蔵」の木彫像を造り、米原市立河南(かなん)中学校に寄贈。本稿でキャッチ画像に使わせていただいた醒ヶ井駅前の霊仙像はそのレプリカだ。
「霊仙三蔵 顕彰の会」では機関誌や出版物の発刊、環境整備事業のほか、これまで7回にわたって中国五台山を訪問。地域を挙げての顕彰活動へと発展しつつある。今回の取材でたいへんお世話になった同会会員で、元「長浜城歴史博物館」館長の江竜喜之(えりゅう よしゆき)氏は「霊仙三蔵がいろいろなメディアに取り上げられ、話題になるのは地元としてたいへん喜ばしいこと。これまでは高齢者が中心だったが、若い人たちにも興味をもってもらえたら嬉しい」と話してくれた。
今後、霊仙の研究がさらに進んで空白の部分が明らかになるとともに、顕彰活動によって地域のアイデンティティが確立され、新たな文化の創造につながることを期待したい。
【取材協力】
米原市教育委員会生涯学習課
江竜喜之氏
【参考文献】
大谷大学公式サイト『生活の中の仏教用語 三蔵法師』佐藤 義寛著
駒澤大学学術機関リポジトリ『霊仙三蔵- 嵯峨天皇御伝のうち』 渡辺三男著
『霊仙三蔵とその顕彰活動』(『霊仙三蔵 ウータンシャンに死す』付記)江竜喜之
『沿革誌 霊仙三蔵顕彰活動の歩み』霊仙三蔵 顕彰の会
地域情報誌『みーな』VOL.90 長浜みーな編集室