新連載 尾上右近の日本文化入門INTOJapaaaaN!第1回の『北斎LOVEな西洋のアーティストたち♡』に続き、第2回は北斎のように人気の高い横山大観がテーマです。山種美術館で開催されている「横山大観ー東京画壇の精鋭ー」を巡ってみました。
山種美術館は、山種証券(現SMBC日興証券)創業者の山崎種二氏が個人で集めたコレクションをもとに、1966年に東京・日本橋兜町に日本初の日本画専門美術館として開館しました。現在は渋谷区広尾にあります。創立者の山崎氏と大観とは大変親しかったそうで、多くの作品を所蔵しています。日本画好きのケンケンも幾度となく通った美術館。今回は、大観生誕150年を記念して、美術館で所蔵する大観の全作品41点を展示するとあり、これは見逃せません!実は、なんと、ケンケンのご先祖である五世清元延寿太夫・六世尾上菊五郎と、横山大観も深〜いご縁で繋がっていたのだそうです。さて、どのようなご縁なのでしょう。この日、三代目の館長の山崎妙子さんがケンケンを案内し、解説してくださいました。
横山大観 『霊峰不二』 1937(昭和12年) 絹本・彩色
さて、「大観と言えば富士」ですよね。大観は生涯に2000点に達するほどの富士を描いたといわれており、近代日本画家の中でも大観ほど数多くの富士図を描いた画家はいないのではないでしょうか。「『霊峰不二』は戦前に描かれた絵です。富士山に日の丸のイメージで太陽を描いています。でも、戦後もずっと富士を描き続け、それで1500点〜2000点近くの富士を描いたともいわれています」と、山崎さん。
「そんなにお描きになっているんですか、すごい。頼まれて描いているうちに好きになったという感じでしょうかね」と、ケンケン。「ところが、実は1度も富士山に登ったことがなかったそうです。『富士は、春夏秋冬、朝昼晩、刻々変化に富んでいて、眺める場所によっても趣が異なるのがいい』と熱心に語っていて、いろんなところから見た富士山を描いています。これは雲海から顔を出す富士の姿ですが、まるで雲の上を飛んでいる鳥の視点で描いたような富士山ですね」と、山崎さん。「鳥の視点ですか。でも、なぜ富士山に登らなかったんだろう…」とは、ケンケンの素朴なつぶやきでした。
第1章 日本画の開拓者たち
菱田春草 『釣帰』 1901(明治34)年 絹本・彩色
「『釣帰』は大観と仲良しだった菱田春草の作品です」と、山崎さん。大観は1889(明治22)年に東京美術学校に日本画科第1期生として入学しました。当時、校長だった岡倉天心のもとで、下村観山や菱田春草らと共に、古画や諸派を学びながら、新たな時代に合った日本画の創造を目指します。1898年に天心が辞職をすると、これに従い、大観らも東京美術学校を去り、日本美術院の創設に参加。岡倉天心は精神的な面でも彼らを指導し、『日本画で大気を描く工夫はないか』と彼らに投げかけたのです。「そこで、輪郭線はほとんどなくて、色彩のぼかしを多用して空気や光を表す描法を試みたのがこの作品です。当時、国内では、朦朧(もうろう)としているから朦朧体だと、揶揄されました」。「ああ、これが朦朧体と言われるもの?でも、近くで見るとちょっと輪郭線がある。濃い線がないだけなんですね」と、ケンケン。当時、酷評を受けた彼らの作品は売れず、彼らの生活は貧窮し、日本美術院も財政難に陥っていきます。しかし明治37年、天心とともにアメリカに渡った大観と春草は、ニューヨークで展覧会を開き、作品を発表。アメリカでは非常に高く評価されます。
「何の世界でもそうですが、新しいことにトライするときは、同時代の人に受け入れられない場合もあります。でも、後になってみると、こういう時代があったんだなという感じで評価された作品ですね」と、山崎さん。ケンケンは「なるほど…」と、春草や大観とともに学んだ下村観山、木村武山などの絵画を眺めながら、「画家は亡くなってからでも評価される可能性があるからいいですよね。歌舞伎役者は絶対無理だもの。シネマ歌舞伎を見て、『今の時代としては、この人はいい』とはならない(笑)」たしかに…。
右:横山大観 『作右衛門の家』 1916(大正5)年 絹本裏箔・彩色 左:横山大観『陶淵明』1913(大正2)年頃 紙本金地・彩色
牧草を刈って家路につく農夫。馬小屋で主人の足音を聞きつけ、耳を立てている馬の様子が微笑ましい。大正期の大観は、伝統への回帰をみせていますが、『作右衛門の家』は、中国の明・清の絵画に影響を受け、江戸時代に流行した「南画」を思わせる一方で、鮮やかな緑色からは日本の伝統的なやまと絵風の華やかさが感じられます。「作右衛門さんがどういう人なのか、画題となった物語が何であるのかは判明していませんが、この作品には、平安時代の仏画などにもみられる、絹の裏側から金箔を貼付ける『裏箔』という技法が用いられていて、木立の奥の仄かな明るさを表現しています」と、山崎さん。「裏から金箔を貼って、金が透けて見える、ということですか?」「そうそう、ほんのり明るいでしょう。それと緑青(ろくしょう)という岩絵具を多用しています。緑青を多用した絵は大正時代に流行りました。そういう流行にも大観はけっこうノってるんですよ」
陶淵明と衣装が似ている!?絵に呼応するようにポーズをとるケンケン。
『陶淵明』は中国・六朝時代の詩人・陶淵明(とうえんめい)の代表作『帰去来辞』を描いたもの。日暮れに、陶淵明が松を撫でながら、山雲や鳥が巣に戻る様子を眺める姿が描かれています。「迫力ありますね。でも、衣装が今日の僕のスタイルに似てます(笑)」と、ケンケン。ほんと!「(笑)。人をものすごく大きく描いているでしょう。人物は、単純化された平明な表現で描かれていて、琳派を意識しています。松も上向きで、幹の描き方も独特。実は、大観は富士山も多く描いていますが、松にもこだわりがあって、自身では『松をいちばんたくさん描いた』と言っています。大観は狩野派のようなごつごつした松ではなく、南画風のおおらかで緩い感じの松を多く描いています」と、山崎さん。
「大観の絵を見ていると、山を描くのが本当に好きなんだろうなという感じがしますね…」と、ケンケン。すると山崎さんが、屏風の中央に大きく描かれた山を指差し、「何色に見えますか?」と。しばらく凝視してから「鼠色?」。「これね、ブルーなんですよ」「色覚テストみたいです(笑)。青と言われれば青にも見える」。山崎さんは「私、かつて芸大で勉強していたとき、平山郁夫先生に『山は青く描くんだよ』と教えていただいたんです。それまで、山は緑と思ってました。遠くの山を青く描くと、うまく描けるらしい。それで、手前に飛んでいる鳥は詳細に描いて遠近感が出てますよね」。「ほんとうだ、鳥はずいぶん細かく描いてますね」。
横山大観 『木兎』 1926(大正15)年 絹本・墨画淡彩
『木兎』は、暗がりの中で、枝にとまるミミズク。「かわいい!」と、ケンケン。大観の邸宅の庭には竹薮があり、ミミズクの姿を見る機会もあったようです。目の虹彩には金が用いられ、闇に光る感じが強調されています。「そういえば、僕の先祖の五世延寿太夫の下田(伊豆山)の別荘と、大観の別荘は隣同志だったらしいんです。で、五世も絵が好きで、魚の絵を描いて大観に見せたら、『目が死んでいる』と言われて(笑)、釣ったばかりの魚をもう1度描いて見せに行ったという話があります」と、ケンケン。山崎さんは「交流があったんですね!」と、驚きの表情。「そうみたいです。隣の家で歌う五世の声は、お風呂の扉が揺れるぐらい大きかったと(笑)。だから、なんとなくご縁があると勝手に感じているんです」
横横山大観 『燕山の巻』 1910(明治43)年 紙本・墨画
大観は、明治43年の中国旅行の体験をもとに初めて水墨画巻(2巻1組)を描きました。『燕山の巻』には、中国の雄大な風景の移り変わりが、のどかな風俗を交えながら描かれています。「うわー、すごい。人の暮らしを描いたあたり、いい感じですね。ロバに乗った人とか、可愛らしい雰囲気もある」と、ケンケン。「風景も墨の濃淡を駆使して遠近感が表現されています。雪舟の影響なんかも大きいんじゃないかな。明治期には岡倉天心の薦めで古画模写事業をやって、古い仏画やいろんなものを模写して、技法を身につけています。雪舟の作品の模写もしているんですよ」と、山崎さん。
横山大観 『竹』 1918(大正7)年 絹本裏箔・墨画
水墨を生かした竹林の描写は大観が得意としたところです。「『竹』の屏風を実際にご覧いただけてよかったです。というのは、写真ではほとんどよくわからないんですよね。実際に見るとすごく奥行も感じるでしょう。絹の裏に金箔を貼った「裏箔」という技法を使っていて、ほのかに竹林の光みたいなものを描こうとしたのだと思います」と、山崎さん。ケンケンは見る位置を前後しながら、「そうですね。このへんから見るのが、いちばんいいかな。これは実際の景色を見ながら描いたんですか?」。「とくにスケッチは残っていませんが、おそらく。ご自宅の庭にも竹林はあったようです…」と、山崎さん。墨の濃淡の諧調を使い分け、光に包まれた竹林の幻想的な光景が描き出されています。また、幹の上下を断ち切るような構図は、琳派を意識しています。是非、実物をご覧いただきたい作品です。
第2章 大観芸術の昇華
横山大観 『松』 1940(昭和15)年頃 紙本・墨画淡彩
昭和期の大観は、精力的に作品を発表しながら日本の美術界をリードする存在となっていきました。古画に学びながら、独自の表現を探究し、墨の濃淡を駆使した力強い山々や水景を数多く描いています。『松』の前に立ち、「大観の松はちょっと独特ですね、この濃淡も…」と、ケンケン。
「そうですね。いわゆる一般の人が考える松とはちょっと違う。奥は墨で描かれていますが、手前は群青とか緑青の絵具です。これらの絵具をフライパンで焼くとだんだん色が濃くなり、黒い絵具として使えます。墨と異なり、焼いた岩絵の具は粒子があるのでちょっと手前にあるように見えるんですよ。そういう工夫をしています」。「なるほど、そういうことなのか。すぐにパッと描けそうな気もするけど(笑)。どのくらい時間をかけて描いているんでしょうね…」と、ケンケン。「大観は助手がいなかったそうです。絵具を溶いて準備したり、お皿や筆を洗ったり、それを全部自分でやっていたので、意外と時間がかかったかも…。助手は取りたくなかったようですね」と、山崎さん。「そうなんですね。助手になりたい人はいっぱいいたでしょうに…」
横山大観 『松竹梅のうち「松」』 1934(昭和9)年
こちらの「松」は、幹のところに群青を、「たらしこみ」という技法を使って、わざと少し滲ませる感じで入れています。「墨の中でも、青っぽい墨と茶色っぽい墨があります。松からできた松煙墨が青っぽくて、大観の墨画はほとんど松煙墨を使用しています。川合玉堂は、茶色っぽい墨が好きでした。色感の好みは人それぞれ違いますね」と、山崎さん。落款が、松の幹の脇にあります。「落款の位置も面白いですね。真ん中に来ちゃってる、遊んでますね。自由だな、やっぱり好きなんだなあ」と、ケンケン。
大観が描いた富士と桜コーナー
横山大観 『山桜』 1934(昭和9)年 絹本・彩色
ケンケンは、風に吹かれる桜の木の傾きに合わせて身体を傾けながら、「この『山桜』、品があって、きれい。花びらが白いんですね、はらはらと散っている感じが、寂しいような感じもします」と。山崎さんは「染井吉野や枝垂桜とはまたちょっと違う趣ですよね。山桜を日本人の心の象徴として描いたのではないかと思います」と、山崎さん。ケンケンは風の流れを指でなぞるような仕草をして、「すんなり入ってくる流れがすごいな。山桜の自然な感じというか、こちらから風が吹いて散ってるという。この絵は、見る側の心地よさと、描いている人の心地よさが一致していると思うんです。舞台でもそうだけど、自分が楽しいことが、人が見ても楽しい。いちばんいいかたちだと思います」と、ケンケンはしばし絵の前に佇むのでした。
左:横山大観 『富士山』 1935(昭和10)年頃 絹本・墨画淡彩 中:横山大観 『心神』 1952(昭和27)年 絹本・墨画淡彩 右:横山大観 『富士山』 1933(昭和8)年 絹本・彩色
中央の『心神』は雲海からのぞく富士を中心に、周囲には金泥を刷くことで神々しさを強調しています。「この絵を84歳で描いてからずっと手元に置いていたそうですが、山種美術館の設立のとき、美術館にするのであれば買わせてあげますよと言われて私の祖父が買ったそうです。一般の人には売りたくないけど、美術館で多くの人に見てもらえるのならいいという意味で…」と、山崎さん。「買わせてあげますよ、って言ってみたいなあ(笑)。でも、それだけの自信みなぎる絵であることはたしかですね」。大観は富士山を『心神』と呼び、自分の中の精神的な拠り所のように考えていたようです。その言葉からは、純粋に富士を愛した一人の画家の姿が浮かび上がってきます。
左:横山大観 『松竹梅(書)』 1955(昭和30)年 中:横山大観『松竹梅のうち「松(白砂青松)」』 1955(昭和30)年 絹本・彩色 右:横山大観 『松竹梅(書)』 1957(昭和32)年 紙本・墨書
1955年に、山種美術館の創立者・山崎種二の希望で、横山大観、川合玉堂、川端龍子による「松竹梅展」が企画されました。3人の画家が松竹梅の画題を毎年交代で担当して、3年間にわたり開催。写真左の『松竹梅(書)』は第1回展の書で、3人がそれぞれ担当した画題の文字を書いていて、大観は「松」の字を書きました。そして、写真右の『松竹梅 (書)』が第3回展の書で大観は「梅」を担当。これを見るなり、ケンケンは「かっこいいですね、書の合作だ!大観が松、玉堂が竹で、龍子が梅。あれ?第3回展の大観の「梅」という字では、ちょっと飽きてきた感もある(笑)、でも、この力の抜け方が好き。書にも画家の人柄や心が出ますね」。「遊び心ですよね。玉堂がいちばん達筆じゃないかしら…。ただ、玉堂は3年目の展覧会の年に亡くなったので、最後の力をふり絞って書いてるんだと思います」と、山崎さん。中央の絵は、第1回で大観が描いた「松(白砂青松)」。「何度かこういう展覧会をやったんですが、そのときは大観の作品の評判がとてもよかったそうですよ」と、山崎さん。画家たちと家族ぐるみで親交してきた山崎家代々ならではの貴重な解説、ありがとうございました。
今回の展覧会では、別室に大観と同時代に東京画壇を牽引した川合玉堂はじめ、ケンケンの大好きな東山魁夷、小林古径、奥村土牛など錚々たる画家の作品が展示されています)。
展覧会は、2月25日(日)まで好評開催中です!生誕150年記念 横山大観ー東京画壇の精鋭ー
絵を楽しんだあとは
特製和菓子 左上から時計回りに 葉かげ(緑)、不二の山(水色)、冬の花(黄)、花の色(ピンク)、雲の海(白・中央)
絵画鑑賞の後は、1階のカフェ椿で特製和菓子をいただきました。山種美術館で開催中の展覧会の出品作品をモチーフにしてつくられた和菓子。今回は大観の絵にちなんだ5種類の生菓子だそう。
ケンケンが選んだのは「雲の海」。白い雲から羊羹の富士山が顔をのぞかせていました。
観賞後の対談
山崎 大観の別荘と右近さんの曾祖父様の別荘がお隣だったとお聞きし、驚きました。大観は私の祖父の来宮の別荘に5年間住んでいらいらしたのですが、その経験から熱海が大好きになって、あとから伊豆山に別荘を建てたと聞いています。その別荘が曾祖父様とお隣だったんですね。
右近 五世延寿太夫は「累」を語ったときに、役者たちと一緒の地域にみんなで家を買ったらしいんです。そういう時代だったんですね。それにしても、こうして時空を超えてその人の芸術に触れられるって、やっぱり絵はいいなと思います。六世菊五郎も絵が好きでした。まずい絵を描いたなと思いながらも成り行きで人に差し上げたら、「気に入った」といって床の間に飾られるとマズい、ずっと残ってしまう。「舞台ならば間違えても残らない…」と大観は言い、「逆に、うまくいっても、舞台はかたちに残らない。けど絵はかたちに残せる」と、六世。さて、どっちがいいんだろう、という話を六世と大観さんが話したというエピソードがあります。
山崎 本当に親しかったんですね。
右近 ええ。六世菊五郎が大観さんに手伝ってもらいながら描いたといわれる富士山の絵もあります。それにダメ出しの手紙がついていて、富士山がちょっと曲がっている(笑)。この線はいいと思うけどここはまずいとか、六世菊五郎宛に大観が書いた手紙があるんです。
山崎 それはすごいですね。
右近 横山大観、やっぱり重みと大きさを感じますよね。それと松や山と、かたちを変えながらも一つのものを描き続けているのところに、「すごく描くのが好きなんだな」と感じるし、歳を重ねてどんどん子供みたいな自由さが出ていくのが不思議ですね。そういえば、速水御舟が舞妓の絵を描いて、(日本美術院を)追放されそうになったんですよね。
山崎 そう。御舟が『京の舞妓』を描いたとき、「こんなの日本画じゃない」と言って、御舟なんか院展から辞めさせろと大観が言ったんですよ。
右近 すると『御舟君をクビにするなら僕は辞める』と、みんなが言い出して、大観を困らせて御舟を残させたという話。
山崎 ええ、『古径もいなくなりますよ』と他の人が言うから、古径がいなくなっては困るということで…。
右近 御舟は院展でただひとり20代でとても若かったんですよね。僕も、そういう若手になりたいと思いますもん(笑)。でも、芸術家同士のぶつかり合いというのはいいですね。おそらく新しい感性でやってきた大観が、さらに新しい感性が出てきて許せなかった。すごく不思議な話ですけど、きっと、かつて自分が経験したことのある痛みも忘れてしまうくらい傷ついたんだと思いますね、先輩として。
山崎 そうね。大観はそれこそ朦朧体のときなんか、日本では絵が売れなくなるくらいでしたからね。そんな経験をしてるのに…
右近 いつの間にかいちばん上になっていたという話でしょうね。大観は「ミスター日本画」みたいな感じで、国民的な画家ですよね。横山大観と東山魁夷はほとんどの人が名前を知っているし、絵も見たことがある。でも、実は大観は富士山だけじゃなくて、若いときからいろんなものにトライしたというところが、今回拝見していて面白かったですね。
山崎 基本的な技術は身につけていた。たぶん歌舞伎もそうだと思うんです。基本ができてないことには、なかなか芸術というのは大成しません。
右近 そうですね。難しいのは、基本を習得するだけでもすごく年月がかかると思うんです。でも、生きているうちにその先に行かなければいけない。結局、早回しじゃないと次の段階に行けないから、一生じゃ足りないという話になっちゃう。だから結局は、すごく真っすぐで、人の意見よりも自分がどう思うかという人じゃないと、そのペースでは行けないと思う。
山崎 あんまりいい人すぎるのもダメね。御舟はいい人すぎたんです。
右近 そうなんですってね。針を真綿でくるんだような人って。
山崎 そうそう。ものすごくいい父親で、いいご主人で、奥さんのお兄さんがマネージャーのような感じでやっていて、いろいろ無理も言われたけれど、すぐに断れなくていろいろ葛藤があった。奥様が長生きされたので後にうかがったのは、やっぱり大腸癌だったんじゃないかと…。
右近 腸チフスじゃなくて。
山崎 本当によくご存知。あまりにもいい人すぎて、一生懸命、真っすぐにとらえていくのでストレスがけっこうあったそうなんですよ。
右近 それでも、僕はなんか好きですけどね。自分に厳しく、自分も許さないことはたしかじゃないですか。
山崎 私も御舟が好きなの。実は、かつて私は大観をそれほど好きじゃなかったんです。それが芸大の修士課程の頃、岡倉天心が大観や春草に命じてやらせた古い絵の模写を調査していたとき、大観の作品を見るとあまりにもうまいので驚いてしまって(笑)、それから大観を見る目が変わりました。大観は模写をしていろいろな技法を体得していったんです。
右近 体得したうえで自由にやっている。すごいですよね。やはり、90歳まで生きないと到達できないですよね(笑)。
美術館でお花見!桜 さくら SAKURA 2018
山崎 以前、美術館にはお母様とお見えになっていたそうですね。
右近 2002年の桜展。母は僕が連れてきました、正しくは(笑)。兄とも一緒に来ました。歌舞伎舞踊の「吉野山」は清元の曲で、僕の実家の家業の音楽の歌舞伎舞踊ですから、吉野にすごく関心があります。僕の自主公演の第1回でも「吉野山」を踊らせていただきましたし、清元の曲には桜が出てくるものが多いので、とても思い入れがあるんです。中でも、奥村土牛の『吉野』に魅せられ、クリアファイルを買ったほどです(笑)。
奥村土牛『吉野』1977(昭和52)年 紙本・彩色
山崎 それはありがとうございます(笑)。大観展のあと、3月10日〜5月6日まで、また久しぶりに桜展をやりますよ。
右近 あ、絶対に見に来ます!歌舞伎舞踊「吉野山」では、静御前が花道へ出てきて客席のほうを見るんですが、ほんとうに見ている景色は、吉野の山をようやく登ってきて、膝が疲れたと言ってふと遠くを見ると吉野の山がパーッと広がっているという感じなんです。山の上にいるのだから目線は下じゃなきゃいけない。でも、うまくないと鼠を探しているように見えたりするものだから、それが怖いから上を見たりするんですが…実は噓なんです。
山崎 それは、面白いですね!
右近 あと、いつか奥村土牛さんの『醍醐』の桜を舞台の道具にして、素踊りをやらせてもらったらいいなと思いました。
山崎 それは是非観たいですね。桜展では、奥村土牛の『吉野』も『醍醐』も出展します。是非お越し下さい。
奥村土牛『醍醐』1972(昭和47)年 紙本・彩色
桜 さくら SAKURA 201ー美術館でお花見!ー
会期:2018年3月10日(土)〜5月6日(日)
会場:山種美術館
山種美術館創立者の山崎種二氏および館長 山崎妙子さんの「崎」の本来の表記は「山」偏に「竒」ですが、読みやすさを優先し「崎」を使用しています。今回ご紹介した作品はすべて山種美術館所蔵となります。
尾上右近プロフィール
歌舞伎俳優。1992年生まれ。江戸浄瑠璃清元節宗家・七代目清元延寿太夫の次男として生まれる。兄は清元節三味線方の清元昂洋。曾祖父は六代目尾上菊五郎。母方の祖父は鶴田浩二。2000年4月、本名・岡村研佑(けんすけ)の名で、歌舞伎座公演「舞鶴雪月花」松虫で初舞台を踏み、名子役として大活躍。05年に二代目尾上右近を襲名。舞踊の腕も群を抜く存在。また、役者を続けながらも清元のプロとして、父親の前名である栄寿太夫の七代目を襲名10月1日(月)〜25日(木)は御園座の顔見世公演に出演予定。【公式Twitter】 【公式Instagram】 【公式ブログ】
文/新居典子 撮影/桑田絵梨 構成/新居典子・久保志帆子
【尾上右近の日本文化入門】
第1回 北斎LOVEな西洋のアーティストたち♡
第2回 大観と言えば富士?!
第3回 東博に超絶御室派のみほとけ大集合!
第4回 ケンケンが刀剣博物館に!
第5回 錦絵誕生までの道程 鈴木春信の魅力
第6回 日本建築とはなんぞや!
第7回 国宝「合掌土偶」が面白い!
第8回 永青文庫で、「殿と姫の美のくらし」を拝見