敵討ちに寛容だった江戸時代の日本
殺された親兄弟の加害者を自らの手で倒し、亡き人の遺恨を晴らす…これを敵討ち(かたきうち)または仇討ち(あだうち)と呼び、洋の東西を問わず古代から記録に残されてきました。
しかし、法律が整備されて、加害者を捕らえ罰するのは、政府の治安・裁判組織の役割になると、世界的に敵討ちは禁止されるようになりました。
その例外の一つが、江戸時代の日本です。
この時代に武士道が確立されたことで、武士階級の人たちは、殺された親兄弟の敵討ちをすべきものと刷り込まれました。敵討ちは、ある種の義務・使命となったのです。
あまりにも有名な敵討ち譚として、「赤穂浪士討ち入り」があります。歌舞伎やテレビドラマなどで後世にまで語り継がれる事件でしたが、親族ではなく主君の敵討ちであること、その主君(浅野内匠頭長矩)は殺されたのではなく切腹であったことなど例外が多く、敵討ちの「典型」と呼ぶには無理がありそうです。とはいえ、この事件の後に農民階級の人たちの敵討ちが増加したので、「お手本」として当時の庶民にいかに影響を与えたかがわかります。
お上の許可を取る必要があった
個人の敵討ちが公認だったとはいえ、法制度がきっちり確立されている時代ですから、ルールというものはありました。
ルールの中でも大きなウェイトを占めるのが、きちんと届け出をして許可を得る、というもの。武士といえども、これを遵守するのが基本です。
例えば、藩士である父が、道端で喧嘩沙汰に巻き込まれ斬り殺されたとしましょう。目撃証言から犯人の身元は割れていますが、行方知れずです。
この場合、息子は、直属の上司に敵討ちをする旨、願い出ることになります。その上司は重臣に伝え、会議の席で藩主が許可してはじめて敵討ちが許されます。
とはいえ、犯人の居場所がわかっていて、今にも逃亡しそうだという緊急時は、許可を得ないで、上司に「願い捨て」だけしてもOKでした。
ただし、父親以外(母や兄など)の敵討ちの場合、会議の席で不許可となる可能性もあり、願い捨てはダメ。許可を待たずに、犯人を追って遠方へ行ってしまうと脱藩とみなされてしまいます。
敵討ちを果たすまで何年もかかることも
さて、首尾よく許可を得たものの、犯人はどこか遠くに逃げ去っていたら、どうすべきでしょうか。
例えば、今住んでいるのが京都。しかし、犯人はどうやら大坂にいるらしいと判明したら?
この場合は、大坂城代に出向いて届け出をします。逆なら、京都所司代です。要するに、その地の支配層や治安組織のトップに届け出をするわけです。
モータリゼーションの「モ」の字もない時代のこと。犯人がどこへ逃げたか皆目見当もつかないなか、噂では「江戸にいるらしい」「仙台に潜伏しているようだ」との情報だけが流れてくる状況だと、苦難の旅確定です。
犯人を見つけ出し、親の仇を取るまでの期間は、2年3年は当たり前。5年とか10年とかかかった人もざらにいます。
仇敵にまみえるまで、なんと50年もかかったという実話を紹介しましょう。
1604年のこと。相馬中村(今の福島県相馬市)に住む佐藤義房が、なにかトラブルがあったのか、手塚兵衛という者に殺されます。この時、義房の息子の義清はまだ5歳でした。
義清は、18歳になってはじめて、母から父の死のことを聞かされます。兵衛は、常陸水戸(現在の茨城県)にいるらしいとの情報をもとに、義清は敵討ちの旅に出ます。
しかし、兵衛の姿はそこになく、わずかな手がかりをたどって西へ西へと歩みを進めたものの、見つけ出すことはできませんでした。
それから幾星霜。義清は、敵は既にこの世になきものと断念し、故郷近くで田畑を耕す農民として暮らしていました。
1656年のある日のこと。義清は、母の法事のため同じ村にある高知寺の住職を招き寄せ、読経してもらいました。
翌日、その住職の招きで高知寺に赴いた義清は、そこで衝撃の事実を知らされます。
われこそはその昔、手塚兵衛といった者でな…。佐藤義房を討って久しくして一念発起し、相馬中村に戻り、義房の妻子に討たれたいとしたが、もうおらず、行先も知らなかった。そのまま出家してから、この寺にとどまっていたのだ。それが昨日の法事で仏壇を見ると、佐藤義房の位牌がある。それでそなたが義房の遺族と知った…。父の仇はここにおる。討つがよい。
こう打ち明けた住職は、首をさしのべます。
義清は涙をこぼしながら、こう返答しました。
今となっては、どうして討つことができましょう。数十年、天下を漂泊したのですが邂逅できず、ここで生計を立てています。恨みつらみは一夜の夢のようなものでした。
義清は住職をなだめ、これより後、2人は仲の良い友人以上の間柄となったそうです。
このように、超ロングスパンのこともある敵討ちですが、お上から許可が下りたところで、旅費などが支給されるとは限りません。時には当人や家族に月々の手当が出ることもあります。ですが大半は、無給の休職扱いとなり、自弁でやりくりせねばならなかったようです。「お金がなくなって敵討ちを諦めました」とも言えず、浪人同然の身で諸国をさすらうことも少なくありませんでした。しかも、首尾よく本望を遂げたとしても、何年も経った後となっては、帰参(復職)できるかどうかも定かではありません。
この一点だけを見ても、敵討ちとはとても困難なものであるわかりますね。
奉行所が敵討ちの場を用意することも
もう1つの特徴的なルールとして、一部の場所では敵討ちが禁止されていたというのがあります。
例えば江戸では、江戸城や上屋敷が立ち並ぶ中心部では不可でした。また、江戸に限らず、神社やお寺の境内も神聖な場所ということでNG。
親の仇が、神社で参拝しているのを偶然発見しても、そこで刀を抜いて斬る…というのはダメなわけです。そこで、門前まで出てきたところで、名乗りを上げて斬りかかるということになります。
逆にいえば、禁止されている場所以外ならどこでもOKということです。逃げ場のない路地の袋小路や人でにぎわう商店街など、そのへんは討ち手の考え次第でしょう。
レアケースですが、役所が敵討ちの場をセッティングするという実例も残っています。
郡上八幡(今の岐阜県郡上市)の城下に住む武士の遠藤嘉平次には、ちかという名の妻がおり、2人の幼子がいました。このちかに横恋慕したのが、嘉平次の同僚の広瀬郡蔵です。
1665年、ちかのことで嘉平次と郡蔵は諍いになり、嘉平次は死亡、郡蔵は逃亡しました。
このことを知った、嘉平次の弟で視覚障害のある新七は自殺します。目が不自由な身では、兄の仇を取ることはできない、とはかなんでのことでした。
月日が経ち、ちかの長男が元服し、母方の姓を名乗って最上幡五郎となりました。幡五郎は妹とともに剣術を学び、いつか来る敵討ちの日に備えていました。
それからさらに3年。郡蔵が偽名を使って、駿府城に勤務する旗本の家来になっているのが判明。幡五郎は、仇を討って親の孝を立てたいと町奉行に訴え出ました。
町奉行は、郡蔵と名指しされた者を問いただすと、嘉平次を殺したことを自白。それが幕府に伝わると、幕府は敵討ちの許可を出しました。
1675年の嘉平次の命日。町奉行らが、安倍川の河原に竹で囲いを築きます。この場で、町奉行の与力・同心ら関係者が見守るなか、敵討ちを行うものとされました。
太鼓の合図で、東の入り口からは幡五郎とその妹が、西の入り口からは郡蔵が入場。3人とも刀を持ち、いざ立ち合いとなりました。
結果、郡蔵は斬り倒され、幡五郎は軽傷を負い、妹は無傷でした。
まるでローマの闘技場の剣闘士の戦いみたいな印象を受けますが、実際にあったことでした。
無念にも返り討ちや相討ちに終わることも…
敵討ちの場面は、殺された親の子VS下手人の1対1のことが圧倒的に多く、上の例のように兄弟姉妹が助太刀として参加するのは稀でした。
そうなると、下手人の方が剣の腕が立つ場合、返り討ちになってしまうリスクがありました。
実例を挙げると、下手人が剣術指南の道場の主で、門下数十人を抱える剣豪であり、仇を討つべき側は、その方面では素人同然というのがありました。これは、下手人の方から果たし状が送られ、果し合いの場では門下生7人の助勢まであって、あえなく返り討ちとなってしまいました。
しかし、この道場の主は、世間の評判が地に落ちて、最後は切腹します。
では、もしも双方の実力が拮抗する場合はどうなるか?
その場合は、以下のように凄惨な場面が現出されます。
荘内藩(今の山形県鶴岡市)の土屋九右衛門は、妾との間に2人の息子と3人の娘をもうけました。息子の兄の方は萬次郎、弟は虎松という名です。
萬次郎は放蕩が激しく、一族の厄介者となったため座敷牢に閉じ込められます。それを不憫に感じた虎松は、兄を座敷牢から連れ出して、ともに逃亡します。
日雇い生活をしながら糊口をしのぎますが、食いつなぐのも限界となり、萬次郎は親戚を頼って金を借りようと画策します。
それが運の尽きとなりました。実家から、萬次郎を連れ戻そうとやってきた、いとこ2人と揉み合いとなり、萬次郎は斬り倒されます。
後日、兄の死を知った虎松は、敵討ちを決心します。彼は変名を使い、江戸の旗本の若党となり、5年近くも武芸の鍛錬にいそしみます。
1811年、虎松は休暇をもらい故郷に戻ります。兄の仇のいとこの1人は江戸に出かけて不在。そこで、もう1人の丑蔵に狙いを定めます。
9月22日。父の九右衛門の忌日なので、丑蔵は墓参に訪れるに違いないと、虎松は菩提寺そばの菓子屋で見張ります。
果たせるかな、寺の本堂から出てきた丑蔵を見咎め、虎松は「拙者は土屋萬次郎の弟の虎松である。尋常に勝負されよ」と言って柄に手をかけました。
丑蔵は当然驚きますが、一呼吸おいて、「主君に仕える身で勝手な勝負ができるか」と相手を諫めつつ、距離を置こうとします。
数人の見物人がいるなか、虎松は、問答無用とばかりに近づいてきたため、丑蔵は虎松の襟をつかんで引き倒そうとします。
虎松はそれをかわします。
これが合図であるかのように、両者は刀を抜いて斬り合いとなりました。
剣術の力量は同等とみえ、戦いは1時間余りも続き、双方とも傷だらけとなり、同時に力尽きました。
丑蔵は、地面に横たわる虎松にこう言います。
拙者は、右腕に深手を負い、もう御奉公が勤められまい。貴様の兄を想う心に感じたれば、萬次郎の墓前に行って差し違え、本望を達しさせたい。
青息吐息の虎松は、こくりとうなずきました。
丑蔵は虎松に肩を貸し、父の墓のところまでなんとかたどり着いたところで、互いの刀で差し違えて果てました。
明治時代に入ってしばらく経った1875年に敵討禁止令が公布されました。それまでの間、記録に残るものだけでも100件を超える敵討ちが、江戸時代には起きていました。それぞれに壮絶なドラマというべきものがあり、血生臭い復讐というより、何か格式というものが見え隠れします。これも昔の日本の特異な文化として、記憶にとどめてもよいのではないでしょうか。そう思わずにはいられません。
主要参考文献
『敵討の歴史』(大隈三好著/雄山閣)
『日本敵討ち集成』(長谷川伸著/KADOKAWA)
『日本敵討ち異相』(長谷川伸著/国書刊行会)