毎年、近所にある小学校の玄関には雛人形が飾られます。最初は一番上の段、次の日は二段目、と、少しずつ完成されていく様子は、一歩一歩自分のところへ春が近づいてくるようで、なんともワクワクした気持ちになります。連載「年中行事で知る日本文化」では、彬子女王殿下がお父様との大切な思い出とともに、雛人形について解説してくださります。
父とお雛様との思い出
文・彬子女王
今から10年前、根津美術館で開催されていた「虎屋のお雛様」展の内覧会に行ったときのこと。とにかく精緻な小さいものが大好きな私は、展示ケースに張り付くようにしてお雛道具を眺めていた。ふと顔を上げると、向こうの方から私を手招きしている人がいる。虎屋17代当主の弟で、父の同級生かつ悪友であった黒川光隆おじちゃまだった。近寄っていくと、笑いをこらえられないという顔をして、「ねえ、この人形トモさんにそっくりだと思わない?」と言われるのである。「どれどれ?」とのぞき込んでみると、そこにいたのは鍋を囲んで仲間と酒盛りをしている仕丁(しちょう)のひとり。まん丸の顔、三角に上がった眉毛、口元に蓄えられた髭。どう見ても父だった。「本当だ!」二人で顔を見合わせて大爆笑した。
「それもさ、これ雑用係でしょ。宮様なのに、一番下っ端に似てるって言うのが笑えるよな~」と、悪友の顔をしてクックックと笑っておられる。すぐにご入院中だった父の病室に行き、「これおとうま(父のこと)にそっくりだって、ちゃーおじ(光隆おじちゃまのこと)が仰ってましたよ」と図録をお見せすると、一瞥をくれて、にやっと笑われた。否定も肯定もされなかったけれど、あれはご自身でも似ていると絶対に思われたはずだ。思い返せば、あれが父と意思の疎通ができる会話ができた最後の頃。父と黒川家、そして父と悪友の不思議な因縁もなんだか改めて感じるのである。
ミニチュアやジオラマ好きになったきっかけ
虎屋のお雛様は、14代当主黒川光景が娘のために集めたもので、10段以上ある豪華な段飾りである。男雛女雛にご家来衆の人形はもちろん、小さな屏風や化粧道具、牛車や盆栽、貝桶、食器など、多種多様なお道具類が本物と見紛うばかりのミニチュアサイズで所狭しと並べられている。台所道具が多いのに、なんだか虎屋らしさを感じる。虎の蒔絵がしてある立派なお重箱を見て、虎屋の黒い紙袋の段々のデザインは、このお重箱の段の線だと知ったのもこの時だった。
棚や引き出しの中には、小さな小さなお茶碗や急須、鋏や針、糸などがきっちり入っており、私は全部開けて見たい衝動に駆られてしまう。学芸員さんが、「一つ一つピンセットを使って並べないといけなかったりするので、展示するのもしまうのも本当に大変なんですよ!」と苦笑いされたのを見て、はたと思い出した。私がミニチュアやジオラマが好きになったのは、お雛道具がきっかけであったことを。
子どもの頃、秩父宮妃殿下にお招きいただき、妃殿下のお嫁入り道具のお雛様を見せて頂いたことがあった。私が大興奮して一つずつ引き出しを開けるのを、妃殿下がおやさしい笑顔で見守ってくださっていたことを思い出す。心の内でははらはらしておられたに違いないけれど、「危ない」とか「気をつけて」などとは一言もおっしゃらなかった。これ以来、私は大きなものを小さく作ったものに俄然興味を持ち、博物館などで江戸時代の街並みや古墳を再現したジオラマを見かけたり、ドールハウスを見たりすると、その前から動かなくなる子どもになった。妃殿下が子どもの興味の目を摘まずに育ててくださったことを今ありがたく思うのである。
上巳の祓のために贈られた人形が神聖なものへと変化
3月3日の上巳(じょうし)の節句に、こうした豪華な雛人形を飾るようになったのは江戸時代になってからのことだ。平安時代の宮廷の階層を模して雛段を作って飾るようになったが、元々雛人形は、祓のときに使われる人形(ひとがた)である。夏越の祓や大祓のときに、体に触れ、息を吹きかけて罪穢れを移し、水に流すあの人形。『源氏物語』でも、源氏が須磨の海岸で上巳の祓を行い、人形を海に流す場面があるが、上巳の節句の日に曲水の宴が行われるのも、このような理由があるからである。上巳の祓のために贈られた人形が、行事の後に神聖なものとして翌年も使われるようになり、次第に一年に一度3月3日に娘の幸せを祈って飾るという習慣になっていく。京の文化が江戸へと伝わり、工芸の技術も高まるに従い、戦のない平和な江戸時代には大いに盛んになったという。
この雛人形、男雛は天皇、女雛は皇后を模しているわけだが、本物の天皇皇后がおられる宮中では飾る必要があったのか、ふと気になって調べてみた。宮中では、表向きには雛祭の儀式はなかったが、雛人形が飾られたことはあったという。もちろん公家の装束を忠実に模して作った有職雛であるが、飾り方が民間とは異なる。畳の上に赤い毛氈を敷いて、その上に人形を並べるのだそうだ。民間では、位の高い天皇皇后の雛人形を自分の目線の位置に置いておくのは失礼と言うことで、段飾りにするわけだが、宮中では雛人形は天皇皇后と同列であるので、畳の上に直接置くのである。お人形がたくさん飾られたのでにぎやかであっただろうし、天皇に差し上げるのと同じように、赤の御膳(小豆飯)も雛人形に供され、春がきたという空気があたりには満ち満ちたことだろう。
このとき雛人形と一緒に飾られていたのは桃の花。伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰るとき、追手に投げつけて追い払ったのが桃の実だった。こういった伝承から、桃は邪気を払う力があるとされ、上巳の節句には桃の花を飾り、花びらを浮かべた桃花酒を飲んで厄除けをしたのだという。桃や小豆が厄除けの赤であることも、無関係ではないだろう。宮中でも、この日は桃御献を召されたそうだ。桃花酒を片手におしゃべりに興じる女官たちの華やかな様子が目に浮かぶようだ。
毎年飾っている私の雛人形は、男雛女雛だけで、お雛道具はついていない。でも、私はよかったと思っている。秩父宮妃殿下や虎屋のようなお雛様が我が家にあったら、その時期私はその前から離れられなかっただろうから。
アイキャッチ:『千代田の大奥』 楊洲周延 国立国会図書館デジタルコレクション