愛知県岡崎市にある岡崎城は、江戸幕府を開いた徳川家康が誕生した城です。260年余も続く泰平の世を築いた徳川家康ゆかりの地とあって、現在、歴史資料館となっている岡崎城や「三河武士のやかた家康館」は、松平・徳川家の歴史について詳しく知ることのできる施設となっています。
さらには徳川家康の銅像や家康の誕生時、産湯に使ったとされる「東照公産湯井戸」や、えな(胎盤)を埋めたと伝えられる「東照公えな塚」など、家康のことを知るなら岡崎城へ!というほど家康尽くしのスポットとなっているのです。
岡崎城の起源は古く、1455(康正元)年に、三河国の守護代であった西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)によって砦が築かれました。本丸北側には、西郷時代に造られた清海堀(せいかいぼり)と呼ばれる空堀や石垣が残っており、歴史の深さを物語っています。
6歳にして織田家の人質となった徳川家康が返り咲いた岡崎城
岡崎城は松平家が城主を務め、1524(大永4)年に家康の祖父、松平清康が城主になると、大規模な改修・拡張がなされました。次いで父、広忠が城主を務めていた1542(天文11)年12月26日に家康が岡崎城で誕生します。
その後、家康は6歳で織田信秀(信長の父)の人質となり、8歳で今川義元の人質として、駿府城で18歳まで過ごすという不遇な人生を送ります。しかし、今川義元死後、今川家が撤収した岡崎城に戻り、城主となって西三河国を平定しました(三河一国の平定は1566年頃)。その後、1570(元亀元)年に家康が浜松城へ移る際、嫡男・信康の居城となりました。
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豊臣秀吉の家臣で、後に家康の家臣となる田中吉政が近世城郭へと改修
1590(天正18)年、小田原征伐後、天下統一を果たした豊臣秀吉は、家康に関東移封を命じ、豊臣秀吉の家臣であった田中吉政を岡崎城に入封させます。田中吉政の時代に、岡崎城は近世城郭へと改築されました。岡崎市の中心を流れる矢作(やはぎ)川と乙(おと)川を天然の堀とした平山城で、本丸、二の丸、三の丸、浄瑠璃曲輪などを配した壮大な城郭が築かれます。本丸を中心に南、東には三重の、北は四重、西は八重の堀と川に囲まれるなど、田中堀と呼ばれる強固な防衛の城と城下町を形成し、江戸城や名古屋城に次ぐ、規模を誇りました。現在でも岡崎公園や乙川周辺はその面影を残しています。
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大火や地震に合うこともなく、明治維新まで存続
関ヶ原の戦い以後、神君出生の城として神聖化された岡崎城には、徳川家の家臣であった本多氏(康重系)、水野氏、松平氏、本多氏(忠勝系)といった格式の高い譜代大名らが城主となりました。このため歴代城主によって改修された城郭の変遷も見どころの一つとなっています。多くの城が、大火や地震などに襲われる中、岡崎城は無傷のまま明治維新を迎えました。1873(明治6)年の廃城令で解体されると、本丸、二の丸跡は、公園となります。徳川家康公誕生の城として、岡崎市民の強い要望もあり、3層5階の天守を1959(昭和34)年に復興しました。
岡崎城の特徴として、まず目を見張るのが、城内のあちこちに残る石垣です。岡崎は茨城県真壁、香川県庵治と並び、花崗岩三大産地の一つです。石垣を造る材料に恵まれ、花崗岩の自然石を積み重ねて石垣を築き、天守があげられました。当時、巨石は権力や経済力の象徴と言われ、本丸天守台の石垣の前には、約2m×2mの鏡石が鎮座しています。また、石垣の表面に城を造る時に大名、家臣、石工集団が刻印したとされる家紋や記号が見られる石もあり、石垣を巡る探索も城好きには楽しみの一つとなっています。
岡崎城は天下統一を果たした徳川家康が誕生した城ということもあってパワースポットとして親しまれています。中でも岡崎城下に建てられた龍城神社(たつきじんじゃ)には、家康が誕生した朝に、「城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天した」という伝説の残る場所。ぜひ、開運試しに訪れてみてはいかがでしょう!
写真提供:岡崎市
主要参考文献:デジタル版「世界大百科事典」
デジタル版「百科マルチメディア」