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2021.07.29

戦国の出世頭・田中吉政とは?名バイプレーヤーのちょっといい話を紹介!

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「あれっ…。あの人って…」

間違いない。今週、どこかで絶対に「彼」を見た。そう確信はできるのだが。全くもって、どこで見たのか思い出せない。ちなみに先に断っておくが、断じて、これは私の加齢のせいではない。うますぎる「彼」のせいなのだ。

最近になって、脚光を浴び始めた「バイプレーヤー」。助演者や脇役といった意味合いで使われている言葉である。じつに、演技がうまい人ほど、多くの映画やドラマに引っ張りだこ。だから、1日に何度も目にすることだって。

そんでもって、視聴者はというと。
確か…この前の作品では主人公の父親役で、今回の作品は部長検事の上司役。じゃあ…と、つい、そんな「彼」を探してしまう。コロコロと役どころが変わる「バイプレーヤー」が気になって仕方がない。目が離せないのである。

さて、戦国時代でも。
いわゆる、多くの「バイプレーヤー的武将」が存在した。戦乱の世を生き抜いた彼らに対して知名度が低いからと、いきなり「バイプレーヤー」呼ばわりするのは、大変失礼な話なのだが。なにしろ、戦国時代はスターばりの武将がことのほか多い。

一方で、戦国時代の「バイプレーヤー」たる武将だって大忙し。この戦にも、あの戦にもと、登場場面がいかんせん多い。そして、今回、ご紹介する方も。歴史的大事件の際に、しばしばお見かけするお方。

その名も「田中吉政(たなかよしまさ)」

「田中」という姓だからか、あまり戦国武将っぽくない印象を受ける。ぶっちゃけ、現代でも通用しそうな感じ。しかし、じつをいうと。田中吉政は、非常に優れた戦国武将なのだ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕え、果ては筑後国(福岡県)柳河(柳川)に32万石を与えられた出世頭の1人。

今回は、そんな田中吉政の「バイプレーヤー」的要素を取り上げたい。歴史的大事件の要所要所で、いい味を出しながら登場するのには、ワケがある。その驚くべき役割と大いなる謎を、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、広重筆 「六十余州名所図会 筑後 簗瀬」 出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります
※この記事は、「田中吉政」「豊臣秀吉」「石田三成」の表記で統一して書かれています

石田三成とは同郷のよしみの間柄

「田中吉政」の名前で、最初に思いつく出来事といえば。
ダントツで「関ヶ原の戦い」をあげる方が多いのではないだろうか。

うん?
「関ヶ原の戦い」って、あの、天下分け目の戦いっていわれたヤツよね…。ええっと、「田中吉政」なんか、出てきたっけ。途中で裏切ったって思われてる、あの「小早川秀秋」なら分かるんだけど。と、まあ、大体がこんな感想をお持ちではないだろうか。

「関ヶ原の戦い」とは、天下人「豊臣秀吉」の死後に起こった、日本全国を巻き込んだ権力争いの戦を指す。起こったのは、慶長5(1600)年。東軍を率いたのは、のちに江戸幕府を開く「徳川家康」。一方、西軍はというと。大将は「毛利輝元」。しかし、実際に西軍を率いていたのは秀吉の佞臣といわれた「石田三成」。

一体、誰が天下を取るのか。
一族郎党、我らは、どちらに味方すればいいのか。
非常に難しい決断を迫られた多くの戦国武将たち。彼らは背に腹は代えられぬ思いで、「東軍」と「西軍」を選択することに。

なお、「豊臣側」だから「西軍」、「徳川側」だから「東軍」などと、単純に分かれたワケではない。例えば、福島正則、加藤清正ら豊臣秀吉の子飼いの武将といわれた有名どころ。彼らは、揃いも揃って徳川家康率いる「東軍」へと流れる始末。コトは複雑な様相を見せ始めるのである。

福島正則像(摸本)東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

ちなみに、田中吉政も大いに迷っただろうか。

吉政も、もとは豊臣秀吉の家臣。
近江国(滋賀県)出身で、当初は浅井家の家臣である「宮部継潤(けいじゅん)」に仕えていたのだが。秀吉の調略により宮部が離反。吉政もその家臣として、浅井側から織田信長軍へと下る。

のちに豊臣秀吉に仕え、次第にその頭角を現していく吉政。秀吉の甥の「秀次(ひでつぐ)」の筆頭家老となり、その後は三河国(愛知県)岡崎城主に。秀吉死後は、そのまま「西軍」へと与するかと思いきや、「関ヶ原の戦い」では「東軍」に。

ちなみに、彼がどうして「東軍」へと参戦したのか、その経緯は定かではない。徳川家康のお膝元であった「岡崎」の地に入城したからか。実際に岡崎を統治してみて、家康を「絶対に敵にしてはならない相手」だと悟ったのかもしれない。

いずれにせよ、吉政は「東軍」へ。
近江国出身で、共に秀吉に取り立てられた同郷の「石田三成」ではなく、「徳川家康」を選ぶのである。

「徳川家康」 徳川治績年間紀事・ 初代安国院殿家康公 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

覚悟を決めたとなれば。
まずは、徳川家康の信頼を勝ち取るしかない。田中吉政は考える。どうすれば、自然な流れで「東軍」へと与することができるのかと。そこで目を付けたのが「接待」。

秀吉の政権下で、同じ「五大老」であった「上杉景勝(かげかつ)」。徳川家康は、この上杉討伐のために、京都伏見から江戸へと帰国するのだが。街道沿いの武将らは、家康が立ち寄ることを見越して「接待」をする。田中吉政も、なんとか家康を接待して、その足掛かりを掴もうとするのだが。

このとき、予想外の出来事が。
なんと、家康は吉政のいる岡崎城を避けるルートを選択したのである。確かに、吉政は、石田三成と同郷のよしみ。そんな吉政を、単に警戒して回避した可能性もある。

しかし、吉政はというと。
家康の考えを見越したのか。じつに、その先をいく。

家康の船が着く「佐久島(愛知県)」で、彼を出迎えたというのである。

これには、さすがの家康も驚いたのだとか。
こうして、「東軍」へと与した吉政は、家康を裏切ることなく。戦場では石田三成軍と真正面から戦ったのである。

「関ヶ原合戦図屏風」 出典:関ケ原笹尾山交流館

そして、運命のあの場面。

たった1日で決着がついた「関ヶ原の戦い」。
敗走する「西軍」の石田三成。
そんな彼を捕縛したのが、なんと、この田中吉政だったというではないか。

この三成が捕縛されるに際して、じつは、1つの有名な逸話がある。

絶対に、再起をかけてみせると。
この状況でも、石田三成は全く諦めていなかったとか。逃げ延びるために、彼も必死だったようだ。しかし、食料も尽き、状況はさらに悪くなる。ひどい腹痛に苦しみ、精も根も尽き果てた。そんなところで、吉政の家臣に捕縛されるのである。

地位も名誉も落ちに落ちて。無様な姿で連れてこられた三成。彼を見て、吉政はどのように思ったのだろうか。今回は敵側となってしまったが、もとは同郷のよしみ。出世頭だったあの三成が、ズタボロの恰好で「敗将」となる。そんな姿を目にするのは、忍びなかったに違いない。

このとき。
吉政は、三成が所望したとされる「ニラ雑炊」を出して、慰めたという。互いに、言わずもがな。この先、過酷な運命が待ち受けていることは分かっている。だからこそ、せめてものという吉政の真摯な思い。

三成にとって。
吉政の気遣いは、心に染み入るものだったのかもしれない。

伝えられる話では、三成は、吉政に短刀を渡したという。
その「名物石田貞宗(さだむね)」は、現在、東京国立博物館に所蔵されている。

どうして「連座」ではなく「加増」なのか?

なんだか、「バイプレーヤー」を通り越し、主役級に躍り出てしまった勢いだが。注目度の高さは、これにとどまらない。次にご紹介する出来事で、なお一層、興味を惹かれるのではないだろうか。

というのも、先ほどご紹介した田中吉政の経歴。
この中で、あえてサラリと触れた箇所がある。それがコチラ。

──秀吉の甥の「秀次(ひでつぐ)」の筆頭家老

豊臣秀吉の甥である「豊臣秀次」。
日本の歴史上、天国から地獄へと、これほどまでに境遇の落差が大きい人物もいないのではないだろうか。過酷な運命をたどった悲運の武将。そんな彼の筆頭家老が、先ほどから出ずっぱりの「田中吉政」というのである。

うん?
あれっ?
2回目の疑問である。

確か、秀次の最期は、和歌山県の高野山での切腹だったはず。側室の淀殿に「秀頼(ひでより)」が誕生し、何かとギクシャクした関係となった秀吉と秀次。結果的に、秀吉より謀反の疑いをかけられ、文禄4(1595)年に切腹。

秀吉に命じられたのか、自身で行ったのかは、未だ学説の分かれるところ。ただ、この出来事により、多くの者が「連座」して、命を失ったのではなかったか。秀次の妻子らは、無残にも処刑され、秀次と関連のあった者たちも、悲劇を免れることはなかった。

城主クラスでは、伊勢松坂城主の「服部一忠(はっとりかずただ)」などが自刃。秀次つきの家老なら、基本的には、その運命を共にするだろう。

しかし、田中吉政は、「連座」することはなかった。
そして、信じられないことに。
秀吉より、2万8000石を「加増」されたのである。

芳年筆 「月百姿」「おもひきや雲ゐの秋のそらならて 竹あむ窓の月を見んとは 秀次」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

またしても、「バイプレーヤー」を通り越してしまった「田中吉政」。それにしても、どうして、秀次の筆頭家老たる者が、運よく災難をすり抜けることができたのだろうか。

これは、田中吉政の立ち位置の捉え方の問題といえるのかもしれない。

見方を変えれば、分かりやすい。そもそも、秀次の筆頭家老だと、言葉通りに受け止めるから、誤解してしまうのだ。遡れば、秀次の筆頭家老にしたのは、あの天下人「豊臣秀吉」。つまり、田中吉政の主君は、あくまで「秀吉」なのである。

そして、田中吉政が秀次の筆頭家老となった背景には、とある事情が。
吉政は、当初「宮部継潤」に仕えていたことがある。のちに、秀吉が彼を調略するのだが。このとき、秀吉は宮部継潤の信頼を得るため、当時3歳だった「秀次」を人質として差し出しているのだ。

つまり、秀次は、幼い頃に「宮部継潤」の養子となり、この「宮部継潤」に仕えていたのが、田中吉政。幼い頃から秀次のことを知っている人物だといえるだろう。このような経緯もあり、吉政は、秀吉と秀次の橋渡し的な役割を期待されつつ。秀次を監視しながらサポートする傅役として、筆頭家老となったようだ。

三島霜川著 『太閤秀吉』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

さて、秀次に関白職を譲ったところまでは良かったが。

そんな矢先、待望の実子「秀頼」の誕生によって、秀吉の将来のビジョンに変化が生じる。もはや甥ではなく、可愛い我が子に天下を取らせたい。当時、子がいなかった秀吉ならば、余計にその思いは強かったはず。

ただ、だからといって、すぐに、跡を継がせることはできない。秀吉も、そこは十分承知していたであろう。何しろ、「秀頼」は幼いし、関白職も既に譲っていたのだから。

そういう意味で、「秀次」の存在は決して邪魔ではなかったと推測できる。ただ、「秀頼」の将来を考えるならば。秀吉は、秀次がのちに秀頼に関白職を譲る確約が欲しかったに違いない。

そのため、田中吉政は秀次に対して、どうやらある諫言をしていたという。

「秀頼様が成人すれば、関白職を譲ると約束すべき」だと。

しかし、その約束は実現されぬまま。
ましてや、そもそも結ぶことさえできずに。
無情にも、タイムアップ。

ご存知の通り、秀次に悲劇が訪れるのである。

そして、一方で。
田中吉政はというと。
これを機に、豊臣秀吉から「加増」され、翌年には、一気に10万石の大名となるのであった。

最後に。
「バイプレーヤー的武将」田中吉政の活躍をもう一押し。

じつは、彼には別の名前がある。
その名も、「バルトロメヨ」。
キリスト教の洗礼名である。

キリシタン大名でもあった吉政は、キリスト教を奨励。なんなら、家臣が洗礼を受けることも認めていたという。江戸時代とキリスト教弾圧は切っても切れない間柄。そんなテーマでも、吉政の名は登場する。

他にも、忘れてはならないのが「柳河(柳川)」。
「柳河(柳川)」といえば、名将として誰もが認める、あの「立花宗茂(たちばなむねしげ)」を思い浮かべるだろう。ただ、「関ヶ原の戦い」ののち、「西軍」に与した宗茂は、所領を没収されてしまう。その所領を引き継ぎ、柳河(柳川)城主となったのが、またまたご登場の「田中吉政」である。簡単にいえば、立花宗茂の後釜的な存在。ここでも、立花宗茂と関連した人物として登場する。

しかし、彼は、いつまでも「バイプレーヤー」に甘んじているワケではない。

現地の福岡県では、田中吉政はヒーロー的な扱いだ。立花宗茂の代わりというよりは、河川改修や領内の産業振興で成果をあげた「名君」だとの評価も。

田中吉政にまつわる逸話の数々。
ここで全てご紹介できないのが、なんとも口惜しい。

いつの日か、再度、田中吉政の記事を書けるなら。

そのときは、「バイプレーヤー」ではなく。
筑後国の基盤を整備した名君として。
是非とも、満を持して「主役」でご登場頂きたい。

参考文献 
『トップの資質 ―信長・秀吉・家康に仕えた武将、田中吉政から読み解くリーダーシップ論』 半田隆夫著 梓書院  2015年2月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月など
『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月

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