▼過去のシリーズはこちら
黄泉の国からほうほうの体で地上に戻ってきた「古事記」版イザナギ氏、亡き妻奪還作戦が取り返しのつかない破局に終わるとは想像すらしていなかっただろう。骨折り損のくたびれ儲けどころではない。
気分は最低だった。
不快感マックス! 汚れたイザナギは禊へ向かう
「吾は、いなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。故(かれ)、吾は御身の禊せん」
教科書的に訳すなら、
「私は嫌な汚れた醜い不浄な国に行ってしまったことだ。よって、私は禊をして我が身を清めよう」
ってところだろう。
けど、フィーリング的にはもっと強い。
「いやもうまっじで超ヤバい最悪の国行ったわ、オレ。さっさと風呂入ってさっぱりするべ」ぐらいな感じだったんじゃないかなと思う。なぜなら「いなしこめしこめき」という表現は、醜悪を意味する形容詞「しこめし」に、強調の接頭語である「いな」をくっつけ、さらに「しこめ」を二度繰り返してダメ押ししているからだ。大事なことだから二度言いました、みたいな。
たぶん、古典作品史上最強の嫌悪表現なんじゃないか、ってぐらいストロングなのだ。
でも、この強調も重要な伏線だ。身の内に溜まった負のエネルギーが、次なる展開を呼ぶからである。
イザナギは、「いなしこめしこめき」国で汚染されてしまった我が身を、元通りきれいにしたかった。
なので水浴びをすることにしたのだ。
とはいえ、単なる沐浴ではない。禊は呪術的行為であり、「再生」「新生」を意味する。つまり、穢い国に行ってしまったがために衰えた神様エネルギーを充填するための行為なのだ。まあ、ハートブレイクを癒やしたかったのもあると思うけど。
そもそも、日本の神様は基本的に「穢れ嫌いの禊好き」だ。不潔を憎み、清浄を好む。
早朝の神社に行くと神職や近所のご老人たちが一生懸命お掃除をなさっている光景を見かけることが多いが、あれは単なる町内清掃ではない。掃除そのものが神に仕え、神を喜ばせる行為なのだ。
伊勢神宮なんかは代表例といえるだろう。参拝経験がある向きならご存知だろうが、それはもう空気さえ磨き上げたような清浄感が神域全体に漂っている。西行法師は「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と詠んだが、汚れちまつている私なんぞは「何者の 掃きたるものか 知らねども あまりの清きに 吾が身縮まる」と思ったものだった。
そんなわけなので、本来、神前に出る際には、きちんと禊をして、心身ともに穢れなき状態にしておかなければならない。とはいえ、現実問題として参拝のたびにいちいち水垢離(みずごり)(ほら、この言葉も垢が離れるって書くでしょ?)もしていられないので、せめて御手水場で手を洗い、口を濯ぐのだ。神に対し、精一杯の誠意を示す。これこそが“マナー”だ。
ところが、近頃は御手水を使わずにお参りする人が増えているような気がする。
平成に入って整列参拝だの鳥居の前で一礼だの、昔は無かった謎マナーが新たに生まれ、従順にやる人が増えた。それなのに御手水は使わない。これはおかしい。
一番大切なお清めはスキップするくせに、誰が言い出したかわからないような「参拝マナー」は守る。実にトンチンカンだ。神詣での本質を理解していれば、惑わされないはずなのだが……。
イザナギの敬語に注目すると…神様は自己肯定感もド級!
……イザナギのセリフに戻ろう。
もう一つ、見ておきたいのが自身の身体に対して「御身」と敬語を使っている点だ。
一般的な日本語ルールでは、自分自身に敬語を使うのはNGのはずである。
もし「私は今、大変お腹がお空きになっているので、何か召し上がりたいとお思いでいらっしゃるんですよ」なんてことを人前で言ったら、確実に馬鹿にされる。社会人失格だ。
ところが、神はその身があまりに尊すぎるので、自分自身に敬語を使ってもいいのである。「私は今、大変お腹がお空きになっているので、何か召し上がりたいとお思いでいらっしゃるんですよ」も、神様なら許されるのだ。
こういう言語感覚、とってもおもしろいな~と感じるのは私だけだろうか?
ある意味、自己肯定感爆発というか、完全無欠の唯我独尊だ。だから、もし「我は神ほどに尊い」と確信している向きがいれば、今後は自分自身に敬語を使ってみてもいいかもしれない。自己評価低めな現代人にはなかなかハードルが高いけれども。
なんだか話が横道に逸れたので古事記本文に戻ろう。
とにかく清浄な体に戻りたいイザナギは、禊にうってつけの場所に向かうことにした。
どこなのそれ、って?
待て、次回。