JR大井町駅の100mほど東にあるなだらかな坂は、「ゼームス坂」と呼ばれ、その通りは「ゼームス坂通り」という名前がついています。
明治時代、浅間坂と呼ばれたこの坂下付近に住んでいた英国人ゼームス(John Mathews James)が、私財を投じて緩やかな坂に改修し、それ以来この坂は「ゼームス坂」と呼ばれています。現在の表記ではジェームスが一般的ですが、今回はゼームスと表記します。
ゼームスは幕末に来日し、1873(明治5)年から長きにわたって海軍省などに雇い入れられ、測量調査や航海術の指導を行い、様々な形で日本に貢献した人です。大変に親切である上に温厚篤実な紳士で、海軍に関することではずいぶん役に立つ存在だったと言われています。今回はそのゼームスと海軍の関わりと、その晩年を追ってみたいと思います。
幕末のゼームス
ゼームスは1838年11月3日、英国コーンウォールのペンザンス近郊の村、チャンドゥールに生まれ、6人兄弟の5番目、裕福な家庭に育ちました。14歳でインドに渡り海軍に入隊したという説もありますが、現地の戸籍などを調査して、ゼームスに関する記事を書いたSebastian Dobsonによれば、明らかなのは、1854年8月にモーリシャス行きの貿易船の乗組員として登録されたときで、その後もインドにわたり海軍中尉で退役し上海にいたという話もあるがこれは明確ではないと述べています。
その後の消息は、1862年末に香港で、ジャーデン・マジソン商会が保有する蒸気船「カーセージ号」Carthageの船長になりました。
ゼームスはマジソン商会保有の船で度々日本を訪れており、マジソン商会長崎支店のトーマス・グラバーの下で勤務したとも言われています。グラバーは、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した人物で、長崎のグラバー園などが有名です。しかし、グラバーの経営する「グラバー商会」はマジソン商会の長崎代理店でもあったので、ゼームスは親会社のマジソン商会にやとわれた船長としてグラバーと交流があったということになります。ゼームスの墓碑には慶応2年に28歳で来日したと書かれていますが、それ以前の1865(慶応元)年にゼームスとトーマス・グラバーは、長州藩の海軍整備計画に協力しており、ゼームスは、長州藩の開いた「外人接待所」の常連でした。外人接待所とは、表向きは馬関戦争の結果、下関を通過する外国の艦船に必要物資を供給する所とされていますが、実態は長州藩の密貿易の場となっていました。大体、このあたりがゼームスの日本での活動のスタートだったのでしょう。
軍艦「龍驤」の回航
明治維新後、ゼームスと海軍の関係は、熊本藩(細川藩)が購入した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」を英国から日本に回航したことに始まります。熊本藩は、グラバー商会の仲介により、1868(明治元)年に英国に軍艦を発注しました。そして、英国アバディーン造船所で建造されたのが龍驤です。ゼームスは翌1869(明治2)年に完成した龍驤の日本回航の任に就きます。8月に英国を出発し、長崎に着いたのは翌1870(明治3)年で、3月に熊本藩が正式に購入しました。この龍驤は、当時の日本では最大の軍艦(2520トン)でした。このとき、ゼームスは、熊本藩に雇われたのではなく、グラバー商会もしくは、マジソン商会との契約に基づく仕事でした。
国内では、1869年6月に版籍奉還が勅許されたこともあり、熊本藩は龍驤を受領したものの、翌月の1870年4月には政府への献納を申し出、5月8日品川で、乗組員とともに政府に引き渡しました。品川までの回航は熊本藩の牛島五一郎を艦長とする回航員で、そのまま政府務めとなりました。この品川への回航までゼームスが乗艦して支援した可能性はありますが、詳細は明らかではありません。明治海軍創設時の軍艦は幕末から使用されていて旧式と言われていますが、この龍驤だけは木造ながら、鉄帯により装甲を施していた日本海軍最大の最新鋭艦だったのです。
その後の龍驤
話は逸れますが、ゼームスが回航し、そして政府に献納された龍驤について、少し紹介したいと思います。
普仏戦争に際し日本が局外中立を保ったことで、海軍は各地の港に警備のために1870年8月から1871年3月にかけて軍艦を派出しました。龍驤には中牟田倉之助(佐賀藩出身)が指揮官として乗艦し、「延年」、「電流」(いずれも佐賀藩の船)を率い長崎で警備にあたりますが、龍驤は横浜警備を補強するため、9月に横浜へ移されました。その警備任務中の11月に艦長の牛島から免職願い、さらに乗組員の帰国の願いも出され、12月に艦長の牛島をはじめとして士官11名、水夫など合計76名が龍驤を退艦して熊本へ帰ってしまいました。横浜での任務中にトラブルでもあったのでしょうか。そのあたりは定かではありません。
軍艦の献納は乗組員も併せてなので、そのまま明治海軍に所属するのが通例とされていますが、艦長以下多くの乗組員が帰郷を願い出るケースもあったのです。このため龍驤は熊本藩からの献納でありながら、その乗組員には薩摩、長州、佐賀藩出身者が多く任命され、運航されました。
牛島のあとの艦長は、横浜警備の指揮官であった中島四郎(長州藩)となり、副長は伊東祐麿(薩摩藩)、その後、警備任務終了後の1871年3月に伊東祐麿が艦長となり、1872(明治5)年7月に相浦紀道(佐賀藩)が艦長となりました。当時日本海軍最大、最新の軍艦だっただけに、龍驤は艦隊旗艦となり、天皇の西海御巡幸などではお召艦を務め、黒田清隆弁理大臣の朝鮮訪問をはじめ清国へも度々航海していったのです。
また、1870年12月からは、ゼームスとともに龍驤を回航してきた英国海兵士官のホーズ大尉を教官として艦上での砲術教育が始められました。ここにはイギリス留学前の東郷平八郎も少尉として参加しています。
その後、ゼームスは引き続きマジソン商会の船で船長を務め、工務省の灯台見回りの任に当たっていたようです。1871年に灯台寮(後に工務省・逓信省)に雇われ、灯台船「ゼーホア」に乗って日本沿岸を巡航し測量調査を行ったとされていますが、灯台寮、工務省の記録にはありません。
海軍お雇い外国人となる
ゼームスは、1872(明治5)年5月28日に海軍に雇い入れとなりました。最初の仕事は同年5月から7月にかけて、約2か月間、明治天皇による西海御巡幸が挙行されたときでした。この西海御巡幸は、明治天皇がお召艦「龍驤」に乗艦し、その他「筑波」を含む7隻の軍艦(護衛)と運送船の9隻を随行させて、鳥羽、長崎、鹿児島、兵庫などを巡幸した航海です。このときゼームスは、航海術教官として「筑波」に乗艦しました。筑波は前年に海軍がイギリス人から購入した退役軍艦で、主に海軍兵学校の教官らが乗艦していました。
巡幸中、ゼームスの存在は大変有意義であり、巡幸後の7月18日、「当分の間、航海指導のため、そのまま筑波に乗組み」という指示が海軍省から出されました。海軍は明治4年にそれまでのオランダ様式からイギリス様式に変更することを決定しており、この方針を実現化するために、在英国の日本公使館を通じて、英国からの教師の招聘を要望している最中でした。その意味でもゼームスによるイギリス式の航海術の指導は時機を得たものといえるでしょう。
その後ゼームスは、航海のないときは海軍省に出勤し、朝鮮や清国に航海する際には、筑波だけでなく、開拓使所属の玄武丸に乗船してその航海を支援し、1877(明治10)年に発生した西南戦争にあっても玄武丸に乗って輸送任務に当たっていました。
清輝の航海費用の算出と解雇
1877年9月に西南戦争が平定され、ゼームスに対して、翌1878(明治11)年1月から清輝がヨーロッパへ航海するための費用の調査依頼が出されました。
そしてその回答として、海軍省の会計局長あてに提出されその調査報告書(明治10年10月23日付)が残されています。
ゼームスが算出した諸経費は、石炭、水先人の費用、スエズ運河の通航料などであり、香港から出発し、10ヶ月の航海の後に再度香港に帰港するまでの費用を24,565ドルと見積もりました。会計局は、この額に、真水と食料及び機関用の部品、さらに乗組員への加俸、増食糧費、臨時諸品の購入などを加えて、総計を95,170ドルと算出しました。
余談ではありますが、この費用を米の値段を指標に現在の価値に換算してみます。当時の米の値段は、1升あたり11銭であるので、これを現在の値段(10キログラムあたり4千円)で換算すると、約5億円程度となる。実際の航海は5か月延長されて、費用もかさんだのですが。
そして、ゼームスは1880(明治13)年に海軍を解雇となりますが、日本での活躍はまだ続きます。
明治丸
ゼームスは、1882(明治15)年2月18に「明治丸」の船長となりました。
明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に灯台視察船として発注し、1874(明治7)年に完成した鉄船で、翌年8月横浜に回航されました。初代船長はビートルスという英国人で、英国で完成した1884(明治7)年12月から約7年間船長を務めていました。当時、明治丸の主な士官及び一部の乗組員には英国人が雇われていたのです。
当初、明治丸は、灯台の建設・維持を任務とする灯台寮に所属しますが、灯台業務の担当省庁が変わることで、その所属も工務省、逓信省と移っていき、1886(明治29)年に商船学校(現東京海洋大学)に貸与(その後譲渡)されました。それからは係留練習船として1945(昭和20)年までの約50年間に、5000余人の海の若人を育て、1988(昭和53)年には、国の重要文化財に指定され、現在、東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。
明治丸は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の船だったので、灯台視察に限らず明治天皇の、御召船の役目も兼ねていました。1875(明治8)年3月に初の国産軍艦である清輝の進水式の際、明治天皇は横浜から龍驤により横須賀造船所へ移動し、帰りは明治丸により戻ったことが記録されています。
さて、ゼームスが船長となった1882(明治15)年、朝鮮壬午事変が発生しました。公使の花房義質は難を逃れて帰国しますが、その後、京城へ帰任しようとする花房公使に加え、高島鞆之助陸軍少将を乗せて、軍艦4隻とともに下関を出港し8月仁川に入港しました。そして一旦明治丸は下関に戻り、破壊された公使館を再建築するための資材を積載して再び仁川に赴き、今度は東京に帰る花房公使及び朝鮮国王からの特使を乗せて、9月末に横浜港に帰港しました。西南戦争以来の有事にあって、海軍の軍艦に劣らない活躍をしますが、ゼームスが船長を務めたのはわずか1年で、翌1883年1月に解雇となりました。
研究者としてのゼームス
その後もゼームスと海軍との関わりは続きますが、長くなるので以後は割愛してゼームスの別の顔を紹介します。
ゼームスは熱心な研究者であり、日本語を完全にマスターし、翻訳も手掛けていました。そして、日本アジア協会に入会し、1879(明治12)年1月には論文を発表しています。「A Short Narrative of Foreign Travels of Modern Japanese Adventurers」と題されたこの論文は、儒学者の斎藤節堂が約30年前に書いた著作の翻訳で、17世紀のシャム(現タイ国)と台湾における冒険家、山田長政と浜田雅誉の伝説的業績を初めて西洋に紹介するものでした。
さらに2ヵ月後の3月13日、今度は仏教についての論文を発表しました。この論文は、ゼームスの仏教に対する造詣の深さを示し、好評を博したとされています。そして、ゼームスは1880(明治13)年4月、正式に日蓮宗に入信しました。キリスト教徒から改宗したということです。
ゼームスは、1875(明治8)年に東京の品川区南馬場町の浅間(せんげん)坂下に土地を取得し、その後30年余りをここで、「生まれも育ちも良い日本の紳士」のスタイルで暮らしたとされています。しかし、船乗りであることを忘れることはなく、彼自身の居住空間は旅客船の船長のキャビンのように質素なものだったようです。
ゼームスが住んでいた近くにある浅間坂は、東京でも有数の急坂で、江戸時代そのままの凹凸で道も狭く、人力車や大八車が通る事ができず、大変不便な道でした。そこでゼームスは私財を投じて、道幅を広げ、坂の勾配が緩くなるように整備したのです。おかげで近隣の人たちにとっては大変便利になりました。そして、地元の人々は いつしか浅間坂とは呼ばずにここをゼームス坂と呼ぶようになりました。この名前は定着して、第二次世界大戦中に改名しようという試みもあったようですが、ゼームスの記憶が消し去られることはありませんでした。またゼームスは近くの小学校(城南小学校)の増改築に際して多額の金品を寄付し、近隣地域の生活に困った人々などに対しても援助の手を差し伸べています。
ゼームスの晩年
ゼームスは1889(明治22)年にそれまでの功績により、政府から終身年金が下賜されました。金額は年額1200円とあります。この額は、同じころに海軍中将まで務めて予備役となった人と同じくらいの金額ですので、かなりの功績を認められたということでしょう。さらに勲章(勲二等旭日章)を授与されました。旭日章は九等まであったので、かなり上の勲章のようです。この勲章をゼームスは大変喜び、正月には和服を着て、「勳二等ジョン・M・ジェームス」という名刺を持って年始挨拶にまわったそうです。
そして、晩年、腎臓病で衰弱していたゼームスは、急速に病状が悪化して入院となり、1908(明治41)年1月8日に息を引き取りました。明治天皇からのお見舞いのメッセージが枕元に届いていたのですが、すでに意識不明になっていました。生前のゼームスの遺志により、遺体は速やかに供養され、1月10日に山梨県身延山にある日蓮宗久遠寺の住職がゼームス邸を訪れ、遺骨を引き取り、その久遠寺に埋葬されました。ゼームスの墓は日蓮の霊廟に近い場所(といっても歩いて20分程度)にあり、墓碑の正面には「日本帝国勳二等英国人甲比丹ゼイムス墓」と刻まれています。甲比丹(カピタン)はcaptainつまり船長を表しています。
その墓碑の側面の碑文を現代文で次に紹介します。
英国人ゼームスは慶応2年7月に28歳で来日し、維新後に海軍お雇い教師、また逓信省顧問を務め、明治41年1月8日71歳で病没した。その病室には皇室から慰問の洋酒2本と1000円が賜われた
海軍でのゼームスの功績はまだまだ多く残されていますが、またの機会に紹介できればと思っています。完
参考文献:
澤鑑之丞『海軍七十年史談』
町田是正『身延山秘話外史』
廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』
大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』
国立大学法人東京海洋大学海洋工学部HP「重要文化財 明治丸」
(https://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/meiji/histoy.htm)
東京海洋大学HP「明治丸について」
(https://www.kaiyodai.ac.jp/overview/facilities/meijimaru_museum/meijimaru.html)
John Mathews James (1835–1908) in: Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. VIII
(https://brill.com/view/book/edcoll/9789004246461/B9789004246461-s053.xml?language=en&msclkid=1f61216dcf4e11ec8cdb77440475b30b)
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