Culture
2022.08.08

歯磨きのルーツはインドにあった? 知られざる「楊枝」の歴史と伝説

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「新しき足袋、草履、鬢撫でつけて咬(くわ)へ楊枝、誰にか見すべき采体(とりなり)をつくろひ……」そう書くのは、江戸時代の浮世草子作者で俳人の井原西鶴(いはらさいかく)。貞享5(1688)年に刊行された『日本永代蔵』の中の一文である。

若者の間では当時、楊枝(ようじ)を口に咥えて朝風呂や遊興へ出かけるのが“粋”だったらしい。とはいえ、若者たちが楊枝を咥えていたのは、なにも格好つけるためだけではなかったようだ。

いつの時代も、若者の流行ってよくわからないのが多いなぁ。

男たるもの清潔であるべし! 吉原流つまようじのマナー

“Forgetting Filial Piety”, Torii Kiyonaga(The Metropolitan Museum of Art)

吉原の遊郭で一夜を過ごした客は翌朝、洗面の用意をしてもらうのがならわしで、遊女との別れを惜しむこの一時は後朝(きぬぎぬ)の別れと呼ばれた。

吉原では、歯の汚れた口の臭い男性は遊女に嫌われた(吉原に限ったことではないが)。女性から口が臭いと言われるのは男性にとって最大の屈辱だったから、客たちは皆、歯みがき粉をつけて、せっせと楊枝で歯をみがいたのである。オーラルケアの大切さを強く感じ入るエピソードではないか。この後朝の別れについては、宮内好太郎の『吉原夜話』に詳しい。これは宮内が吉原で育った女性の話を聞き書いた書で、こんな一文がある。

「いきなり房楊枝を使わないことです。そんなことをすれば、惚れかかった華魁(おいらん)も寝返りを打ってしまいますよ。……含嗽(うがい)茶碗に三杯、湯なり水なりくんでくれますが、この三杯で口、顔、髪をキレイにしなければなりません。……まず最初の一杯目で口、次の一杯で顔、三杯目で髪をなでつけ終って、それで夜の乱れた気分をとどめないというところに廓(なか)馴れた、まあまあ通な方といわれる資格が出来上がるわけなのです」

きっかり三杯の水で身を整えてこそ、洒落た大人の男なのである。ニ杯では足りないし、四杯目を頼めば野暮な男と見られてしまう。一杯でさっと済ませるなんて、もってのほかである。そして、ここでも重要なのが口腔衛生だ。遊女のためにせっせと歯をみがく男性客のためなのか、吉原の楊枝は普通の房楊枝よりも長めだったという。

吉原では身支度にも粋が求められたのですね。

▼「後朝」についてはこちらの記事をどうぞ
性行為の「終わった後」に美を見出した後朝とは。枕草子にも書かれた理想のアフターナイト

楊枝は折って捨てること

画の女性が口にしているのが「房楊枝」。短く切った小枝の先端をすいて、柔らかいブラシ状にしたもの。『婦人風俗三十二相』月岡芳年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

さて、もしあなたが吉原で楊枝を頂戴したとして、使用済みの楊枝をそのままその辺りに放って帰ったとしたら、これもまた不作法で嫌われること間違いない。房楊枝は、使い終わったら二つに折って棄てるのが客の心得だった。

これにはきちんと理由がある。江戸後期の風俗を考証した『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(天保元1830年)には、「世のいひ伝へに、楊枝は折て捨べし。若(もし)もをらで打遺(や)る時は怪ありともいひ、又、楊枝がくれと、霊あるやうにいふこと、みな女童部の言こと也」とある。

「男は折って棄て、女は折らないで棄てる」との言い伝えもあったそうだが、どちらであれ、折らないで棄てると霊が現れるとの俗信が当時の人びとのあいだでは常識だったようだ。

江戸時代の歯ブラシ(房楊枝)は使い捨てだったのか。

つまようじを巡る伝説


楊枝に霊が宿るなんてとても信じられないが、日本には意外にも楊枝を巡る伝説が多く残されているのである。たとえば神奈川県三浦市には、頼朝がお茶会の後に挿した楊枝が大木に育ったとされる跡地がある。福島市の源義経の歯扶柳の伝説では、源義経が食後に柳の小枝で歯をみがいて地面に挿したところ、こちらも大木に成長したとの伝説がある。

楊枝が大木に成長したのは、おそらく楊枝の材料である柳の木が呪術性をおびた霊木と考えられていたことと無関係ではないだろう。あるいは、使い終わった楊枝を折って棄てるのは、再使用しないようにとの衛生面の理由もあったかもしれない。しかし私としては、楊枝の霊性を信じたい。というのも、もともと楊枝は仏教の儀式と深いつながりがあるからだ。

仏教!? 楊枝のルーツが意外と壮大!

歯みがきのルーツはインドにあった

左側に楊枝を売る店が見える。 『職人盡繪』鍬形蕙斎 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

日本の歯みがきはインドから中国、朝鮮半島そして日本へと、仏教の伝来と共に552年頃にやって来た。当時の歯みがきは今のものとは仕様が異なっていた。古代インドでは、ニーム(ニンバとも)という木の枝を噛んで繊維状にしたもので歯をきれいにしたという。これは、歯木(しぼく)と呼ばれた。歯みがきは僧侶が読経する前に身を清める仏教の儀式だったから、経典では、歯みがきの方法だけでなく使用する歯木の長さまで定められている。

ちなみに現代人にお馴染みの歯ブラシは、幕末から明治期に西洋からもたらされたものだ。明治初期にはまだ歯ブラシという訳語はなく「歯楊枝」と訳されていたそう。

ホストのローランドさんは、竹の歯ブラシを使用しているらしいです。

つまようじで疫病退散

楊枝の図。 『通常物図解問答』小林菊三郎編 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

楊枝が仏教と深い関わりがあることを示す文献は多い。入浴の功徳を説いた『仏説温室洗浴衆僧経(ぶっせつうんしつせんよくしゅそうきょう)』という長い名の経典は仏教伝来の折に日本にもたらされたものだが、ここにも楊枝(歯木)で口のなかを洗浄することの重要性が説かれている。

禅宗には「楊枝の偈」なるものがあり、楊枝(歯木)に関する儀式が今もなお修行の場に根付いていることがわかる。教理の根底にあるのは「心身ともに清浄になれば、この身を取り囲む世界すべてが清浄になる」との教えだ。

インド伝来で、日本では奈良時代に定着した疫病退散のお払いに「楊枝加持」なるものがある。これは阿闍梨と呼ばれる高僧が修行僧の頭に手に持った楊枝(柳の枝)で浄水を与えるというもの。この儀式は現在も各地で行われていて、この加持を受けると病苦を免れたり、悪い病気を除くご利益があるとされているそうだ。楊枝が身を清め、悪疫を除いてくれるとの信仰の表れである。

楊枝は日本の創意工夫の結晶


歯みがきは仏教の伝来とともに儀式として僧侶や武将のあいだで普及し、江戸中期には一般庶民まで広まった。
吉原で客たちも使っていた「房楊枝」は、京都の粟田口の猿屋の手によって作られたものだ。房楊枝はやがて江戸、大阪へと広がってゆく。お歯黒がはげないようにと配慮された既婚女性向けの柔らかいものや、男性向けに少し硬めのもの房楊枝もあった。歯木を改良したのは日本人だけだというから、房楊枝は良いものを作ろうと試行錯誤した職人の心意気の結晶とも言えそうだ。

【参考文献】『歯 (ものと人間の文化史)』 大野粛英、法政大学出版局、2016年

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書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。