源義経と聞いて、どんな人物を想像しますか? 戦場を縦横無尽に駆け回り大活躍するも、兄に疎まれて転落してしまう悲劇のヒーロー。そんなイメージを持っている人も多いでしょう。
近年の歴史研究では、必ずしも清く正しいだけの人物ではないことが明らかになっていますが、未だに悲劇のヒーローとしての人気は根強いです。その人気の発端となったのが、『平家物語』での描写だと言われています。
では実際に『平家物語』での義経はどんな感じなのか、読んでみましょう!
巻之九
義経の登場は意外と遅く、後半の中盤である9巻からです。鞍馬山での修行や弁慶との出逢い、奥州への旅や兄頼朝との感動的な再会などは、実は『平家物語』では描かれていません。さらに後世の作品である『義経記(ぎけいき)』で描かれています。
宇治川先陣
『平家物語』での義経は、木曽義仲(きそ よしなか)との決戦『宇治川先陣』で登場します。大将として鎌倉軍の指揮を任されていた義経は、流れの早い宇治川のほとりに立ち、兵たちを試すようにこんなことを言います。
「どうしようか、他の道へ回ろうか、それともここで流れが弱まるのを待とうか」
そこで畠山重忠(はたけやま しげただ)が「私が浅瀬を探します」と名乗り出ました。
その後の様子は、過去記事を参考にしてください。
鎌倉時代の名馬デッドヒート!『平家物語』の宇治川の先陣争いを3分で解説!
河原合戦
宇治川を突破し、待ち構えていた木曽軍を蹴散らし、義経は都の後白河法皇の元へと行きます。木曽軍におびえていた朝廷の人々は、義経を大喜びで迎え入れました。
三草勢揃
木曽義仲を討ち取った9日後、寿永3年1月29日。義経は異母兄・範頼(のりより)と共に後白河法皇の元へ行き、平家を追討しに西へ向かうことを告げました。
すると後白河法皇は「神代から伝わった3つの宝(三種の神器)を取り戻してくれ」と頼みました。
一方、平家一門は清盛の法要を行うため、福原(兵庫県神戸市)にいます。そこで源氏と平家は話し合い、まず2月4日に法要を行って3日後の2月7日に戦を始めることにしました。
しかし、源氏方は2月4日が吉日だからといって出発します。
三草合戦
平家一門もこの動きに気づき、平資盛(たいらの すけもり)を大将として三草(みくさ)山の西麓に陣を張りました。
義経は夜に土肥実平(どい さねひら)を呼んで相談します。
「今日、夜襲をするべきか、明日にするべきか」
すると田代信綱(たしろ のぶつな)という武士がやって来て、「明日になれば平家の兵力が増えるでしょうから、夜襲にしましょう!」と進言しました。
義経はこの案に乗っかり、暗闇の中出発します。真っ暗で何も見えない中、義経はこんなことを言い出しました。
「例の大きな松明を使おう」
すると土肥実平が「そうそう! あれを使いましょう!」と賛同して、周辺の民家に火を放ちました。……って! ひどい!!
炎は民家だけでなく野にも山にも草木にも燃え広がり、まるで昼間のような明るさです。一方、平家方は夜襲されるとは思っていなかったので、逃げ帰って行きました。
こうして義経が率いる搦め手軍は三草山から一ノ谷へと向かいます。
老馬
2月6日の明け方、義経は1万余騎を2つに分けて、7千騎を土肥実平に預けて一ノ谷の西へ向かわせます。そして自分は3千騎を率いて一ノ谷の後方にある「鵯越(ひよどりごえ)」を馬で駆け下りようとしました。しかし兵たちは初めて入る山の、足場の悪い道を進むのを渋っています。
そこに平山季重という御家人がこの山の事をよく知っていると申し出ました。義経は「お前は武蔵国の出身で、この山は今日初めて見るはずだろう?」と疑いましたが、平山は「歌人は見た事もない吉野の桜を詠むものです。すぐれた武人も、敵の籠るような場所の山を知っているんですよ」と答えました。
義経が「傍若無人なやつだなぁ」と思っていると、別府小太郎という若い武者が進み出て言いました。
「私の父に教えてもらったのですが、山奥で道に迷ったような時には、老馬に手綱をかけて追い立てて行けば必ず道に出るそうです」
それに対して義経は「立派に申したな!」と誉めて、提案を採用し、老馬を追い立てながら山奥に入っていきました。
日が暮れて、野営をすることになり、陣を構えると、武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)がお爺さんを連れてやって来ました。彼はこの山の猟師で、この山を知り尽くしていました。
義経は平家が陣を張る一ノ谷へ降りられる道はあるのかと尋ねると、鹿が通るような道があると答えました。「鹿が通れるのだから、馬だって通れるだろう」と、猟師の息子・鷲尾義久(わしお よしひさ)の案内でそこに向かいます。
坂落
一ノ谷では源範頼が率いる鎌倉大手軍と平家軍の激しい戦いが繰り広げられていました。義経が鵯越についたのは、2月7日の明け方。いよいよ馬で駆け下りようとしています。
義経はまず何頭かの馬を降りさせました。足を折って転がり落ちてしまった馬もいれば、無事に降りた馬もいます。これを見て「乗り手が気を付けていれば馬も怪我をすまい。オレが手本になるぞ!」と、馬で駆け下りました。しかし更に急な場所に来て、さすがに義経も足を止めました。
すると、佐原義連(さはら よしつら)という武士が進み出ました。ちなみに義連は三浦義澄(みうら よしずみ)の末弟です。
「三浦では、朝夕このような所を駆け回っている。こんな所は三浦の馬場だ!」
そう言って先頭きって駆け下りました。それに他の武士たちも続き、義経の奇襲作戦は成功したのでした。
巻之十
一ノ谷の戦いで敗れた平家は多くの犠牲を出して、更に四国へと逃げました。
藤戸
京都では新しく後鳥羽(ごとば)天皇が即位しました。それにより、除目(じもく)が行われ、源範頼は三河守となり、義経は判官(ほうがん)となって「九郎判官(くろう ほうがん)」と名乗るようになりました。
大嘗会之沙汰
そして範頼は平家追討のため西へと出発しました。義経も平家の本拠地である屋島(やしま)へ向かおうとしますが、海が荒れて行く事ができません。そうこうしているうちに京都では大嘗会(だいじょうえ)という後鳥羽天皇の初めての祭事が行われました。
義経は後鳥羽天皇のお供として参列しました。その姿は平家よりは劣るけれども木曽義仲よりはるかに都慣れしていました。
巻之十一
義経が大嘗会に参列している間、範頼率いる源氏軍は平家を攻められずに足止めしていました。『平家物語』では範頼が遊女を呼んで遊び惚けていたからだと書かれていますが、『吾妻鏡』の足止めの理由は兵糧が尽きたからなので、もうちょっと『平家物語』は範頼さんにも優しくしてほしいですね。
逆櫓
元暦2(1185)年1月10日、義経は後白河法皇の元へ行き「平家を討伐してきます」と宣言し、出発しました。そして平家がいる屋島へいよいよ攻めようとした時、強い北風により、海が荒れ、船も破壊されて出航できません。そこで会議が開かれました
梶原景時(かじわら かげとき)が、船の小回りが利くように逆櫓(さかろ)をつけようと提案します。しかし義経は「初めから逃げる支度をするのか」といって聞きません。
「梶原殿の船には百でも千でも櫓をつければいい。私は1つの櫓で十分」
これに、梶原景時も言い返します。
「良い大将は身の安全を第一に考えるものですよ。あなたみたいな人を猪武者(いのしし むしゃ)というのです」
「猪か鹿か知らないが、戦はひたすら攻めて攻めて攻めまくって勝つのが気持ちいいのだ!!」
と、つかみ合い寸前に思えるまで言い合っていました。
夜になって義経は精鋭を引き連れて船を出そうとしました。しかし船を操縦する水夫はこんな荒れた海に出るなんてと拒否します。そこで義経は部下に命じて水夫に向けて矢を向けます。
水夫たちは「射殺されるのも、船を出して死ぬのも同じだ」と5隻の船を出しました。夜通し休む間もなく船を走らせていたので、普通なら3日かかるところ6時間ほどで到着しました。
勝浦付大坂越
明け方、阿波に到着した義経は、浜を守っていた平家の兵を蹴散らして、捕虜に道案内をさせました。1日中歩かせて山を越え、民家に火をつけて進みました。
嗣信最期
一方平家は、鎌倉軍がすぐそこまで迫っていることに気づき、海上へと逃げます。
義経は派手な鎧で名乗りを上げたので、平家たちは弓で義経を狙いました。激しい矢の雨の中、奥州からついてきた義経の家来・佐藤嗣信(さとう つぐのぶ)が、平家の猛将・平教経(たいらの のりつね)に射られて倒れてしまいました。
義経が「何か言い残すことはないか?」と尋ねると、嗣信は「言い残す事はなにもありませんが、主の出世を見る事なく死ぬことが無念です」と答え、息を引き取りました。
那須与一
やがて日が暮れて、一旦休戦になりました。その時に起こったことが、以前紹介した「那須与一(なすの よいち)」です。那須与一は扇の的を見事射抜きます。
源義経が激怒!?屋島の戦いを描いた『那須与一』をわかりやすく紹介【平家物語】
弓流し
那須与一の見事な技には平家も感嘆しました。思わず踊り出した男を、義経は「あいつも射抜いてみせろ」と与一に命じます。
そしてその男を射殺したことで、また戦闘が再開しました。乱戦状態の中、義経は弓を海に落としてしまいました。それを慌てて拾おうとしたところ、部下たちは「そんなの捨てておきなさい」と言いましたが、義経はなんとか拾って笑って持ち帰りました。
それを見て老武者たちは「大金に代えられる弓であっても、命には代えられない。大将が討ち取られたら士気に関わるのに」と難色をしめしましたが、義経は「弓が惜しかったのではない。私の弓は弱弓なので、これを敵に盗られたら『義経のこんな弓を使うほどにひ弱だぞ!』と笑われるではないか。それこそ士気に関わる」と言い、人々は感心しました。
そして夜が来ても義経は寝ずに、家来と見張りをして敵の夜襲を警戒しました。夜襲は起こらず、夜が明けます。
志度合戦
夜が明けると、平家は讃岐国の志度浦(しどのうら)へ逃げて行きました。義経もそれを追いますが、平家たちはそのままどこかへ逃げて行きました。
義経は志度浦に降り立ち、討ち取った敵兵の首実検をします。しかし、平家の一部がまた攻めてくる気配を察知し、家来に命じて兵を集めました。
鶏合 壇浦合戦
そして義経は周防国(山口県)に渡り、兄の範頼と合流します。そこに熊野大社の別当(べっとう=トップ)、湛増(たんぞう)がやってきました。紅白の鶏で闘鶏したところ、白い鶏が勝ち、白い旗の源氏に味方することにしたそうです。
源氏の軍勢は増えていきますが、平家の軍勢は減っていきます。そして両軍は壇ノ浦を決戦の地と定め、寿永4(1185)年3月24日、卯の刻(日の出)に開戦することにしました。
この時、梶原景時が「壇ノ浦の先陣は私にしてください」と申し出ました。しかし義経は「私に決まってるだろ」と反対します。言い争いになり、お互い刀を抜きかけたところ、三浦義澄と土肥実平によって止められ、事なきを得ました。
そしていよいよ決戦。壇ノ浦では義経が真っ先に進んで戦いましたが、平家も最後の力を振り絞って、寄せ付けません。
遠矢
お互い命を惜しまず戦い、平家が優勢でした。しかし白い旗がどこからか飛んできて、義経が乗る船の舳先に触れるほど近づいてきました。義経は「これは八幡大菩薩の思し召しだ」といい、拝みました。するとイルカの大群が、平家の船へと向かって行きます。
このイルカの大群に驚いた平家が占うと「イルカが源氏の方へ戻ったら、源氏が滅びる。このままこっちへ来たら平家が滅びる」と出てしまいました。イルカはすぐに平家の船の下をくぐって行きました。
能登殿最期
平家は負けが確定してしまい、ついに安徳天皇と三種の神器が海に消えてしまい、平家の人たちは次々に身を投げました。安徳天皇の母・徳子(とくし/とくこ/のりこ)も海へと入りましたが、鎌倉軍によって引き上げられ、義経の船に乗せられました。
内侍所都入
4月3日、都に帰って来た義経は、後白河法皇に壇ノ浦の様子を報告します。さらに14日に生け捕りにした平家の人々を連れてきました。
副将被斬
5月7日、生け捕りにした平家の捕虜たちを義経が鎌倉へ連れて行くことになりました。
しかし、平宗盛の最愛の息子・副将(ふくしょう)は、「鎌倉へ連れて行くまでもない」と義経の命令で斬られてしまいました。
腰越
そして義経は平宗盛を連れて、鎌倉に向かいました。しかし先回りした梶原景時が讒言(ざんげん=嘘の報告)をして、頼朝は義経に不信感を抱きます。そして義経に鎌倉の手前の腰越(こしごえ)で待つよう命じて、宗盛だけを鎌倉に呼び寄せました。
義経は兄の信頼を取り戻そうと、泣きながら手紙を書きました。
大臣殿被斬
しかし、頼朝からの返事はないどころか「急いで京へ行け」と言われたので、宗盛を連れて京都へと帰ります。そして京都まであと3日というところで、義経は宗盛を斬首し、首を持って都に入りました。
巻之十二
兄弟の中は悪化する一方。頼朝はとうとう義経を討ち取れという命令を、土佐房昌俊(とさのぼう しょうしゅん)に下しました。
土佐房被斬
京都にやってきた土佐房に義経は気づき話をしましたが、土佐房はのらりくらりとかわして、京都にやってきた理由を語りません。
しかしその夜、静御前が外の武者たちに気づき、義経に伝えました。土佐房VS義経の対決です。準備万端整っていた義経は、土佐房に攻撃する隙を与えません。
土佐房はさんざんやられて逃げましたが、鞍馬山で捕まり、義経は六条河原で土佐房を斬りました。
義経都落
土佐房がやられた事を知った頼朝は、義経討伐軍を都へ出発させました。これを伝え聞いた義経は、「都を戦場にするわけにはいかない」と、九州へ逃げます。
しかし暴風雨に遭って船が難破し、今度は奈良県の吉野山へ逃げました。しかしそこでも奈良の僧兵たちに追われ、最終的には第2の故郷・奥州に辿り着きました。
京都では後白河法皇が義経追討の命令を出しました。あんなに評価していた義経が、罪人として追われる立場になるなんて、と『平家物語』は義経の運命を「悲しくあはれだ」と書いています。
義経に同情的な『平家物語』
義経に関しては、平家の敵方にも関わらず描写が細かく書かれていて、ある意味主人公とも言える扱いです。それは『平家物語』のテーマである「栄枯盛衰」と「あはれ」に、義経の人生がピッタリだからでしょう。
しかし意外にも、『平家物語』には、義経の最期までは書かれていません。そこはあくまで「平家視点」なのもあるかもしれませんが、何よりも「都視点」なのかもしれません。
義経の最期は、奥州 VS 鎌倉であって都は関係ないというスタンスで、都で出世の道が閉ざされた義経が「悲しくあわれ」だと言っているように感じます。
戦場で大活躍して、都で人気が高かったにも関わらず、都とは遠いところでいつの間にか死んでしまった悲劇のヒーロー。この人物像に惹かれた人が過去にもいて、現代まで語り継いでいったのですね。
関連人物
主君:源頼朝
父:源義朝 母:常盤御前 養父:一条長成
同母兄弟:阿野全成、義円、
異母兄弟:義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、坊門姫
異父兄弟:廊御方?、一条能成、一条長成の娘
正室:河越重頼の娘(郷御前) 妾:静御前、平時忠の娘(蕨姫)、ほか
子:女児、男児
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