ゆとり坊主〜「忙しさ」に悩む
こんにちは! 僧侶の光澤裕顕と申します。
1989年生まれの33歳・ゆとり世代のゆる〜いお坊さんです。ストイックであるべきお坊さんが「ゆとり世代」とは(!)なんだかそれだけでミスマッチ感がありますね。さて、私は僧侶とは言うものの、お寺だけで身を立てているわけではありません。みなさんも、ネット記事等で見かけておられるかもしれませんが、昨今、寺社を取り巻く環境は非常に厳しく、お寺の収入だけでは生活費を捻出することができません。多くの僧侶は様々な仕事をしながらなんとかお寺を持続している「兼業坊主」なのが現状です。私自身も、お坊さんでありつつも仏教界のお役所みたいなところに勤めるサラリーマン的な側面があり、マンガや文書を紡ぐ作家的な生き方しており、自分でも本当のところがよくわからない人間になっております。
さてシャバの世界でそんな生活をしていますと、つくづく現代人は「忙しい」と感じます。あまりの多忙ぶりに大抵の悩みはこの「忙しさ」から生まれているのではないかとすら思うのです。
私たちの毎日はとにかく忙しい。朝起きてから夜寝るまで常に「やるべきこと」が迫ってきます。もはや日常の中に「忙しさ」があるのではなく、「忙しさ」の中に日常があるのではないかと、錯覚してしまいそうな勢いです。こうした刹那的なマストに忙殺されますと、ふとした瞬間「頑張っているはずなのになんとなく虚しい」感覚に襲われます。ああ、私はこの「忙しさ」の果てに一体何処へたどり着くのでしょうか……。
しかし、「忙しいのが当たり前!」と自分に言い聞かせ、再び動き出す。そして、気がつけば、ただ時間だけが過ぎ去ってしまいます。やがて、じわじわと「自分らしさ」を喪失し、焦燥感と無力感だけが日々増していきます。「心(こころ)」が「亡(な)い」と書いて「忙しい」とは、言い得て妙であるとしみじみと感じます。「忙しさ」はある種の現代病のような側面があるでしょう。しかし、この「忙しさ」は様々な面で深刻な問題を引き起こす原因になってしまっています。果たして我々はこのような「忙しさ」に対してどのように向き合えば良いのでしょうか。
ここは、お坊さんらしく2000年以上昔から、悩める人間に寄り添ってきた仏教の考え方や祖師・ブッダの言葉を借りて考えてみたいと思います。
忙しさのウラに潜む「毒」の正体とは!?
みなさんはブッダに対して「仏教の開祖で、何となく凄いことをした人なんだろうな」などの漠然としたイメージをお持ちかと思います。細かい説明はここでは省力いたしますが、非常にザックリと言えブッダは「革命的な凄いものの見方」を発見した人物です。これは、現代人にも通じる考えで、その一つが私たちの悩みの原因を突き止めたことです。
先ほど、私は現代人の悩みの多くは「忙しさ」に起因するのでないかと述べましたが、仏教では私たちの心に煩いをもたらすのは、三つの原因である「三毒(さんどく)」によるものだと説いています。三毒はそれぞれ次のとおりです。
1.貪欲(とんよく)
・・・自分の好むものを求め続け満足することができない「モットモット」の心
2.瞋恚(しんに)
・・・自分の思い通りにならないことに腹をたてる「イライラムカムカ」の心
3.愚痴(ぐち)
・・・自分の思い込みや間違ったことを信じ真理が解らない「コッチカナ?」の心
どうでしょうか、振り返ってみるとシチュエーションの違いはあれど、心身の不調の原因は、際限ない欲求や周囲への苛立ち、分別のない行動など、この「三毒」によるものがほとんどだと思いませんか? 現代的に言えばストレスの親玉ですね。私はこれらを「三毒」を引き起こす現代人の最たる原因こそ過剰な「忙しさ」であると思うのです。
精神のバリヤを破壊する「忙しさ」の恐怖
「忙しさ」それ自体は悪いものではありませんが、極端な「忙しさ」は心の免疫を低下させ、「三毒」の侵入をやすやすと許してしまいます。さらに「忙しさ」が疲れを引き起こし、結果として短期的・短絡的な思考に縛り付け欲望の沼に陥れてしまう。これが「忙しさ」の根っこにある問題です。
私たちはロボットではありません。頑張れば頑張るほどその反動(疲れ)があります。ベッド上でダラダラとYouTubeを見る、惰性で続けているスマホゲームにログインする、ついつい必要ない買い物をしてしまう……。思わずスマホに手が伸びてしまう気持ちは痛いほどわかります。しかし、どうでしょうか、その時は楽しいのですが、気がつくと時間やお金を際限なく費やしてしまい後悔する…何だか余計に疲れる気がしませんか。忙しいと感情のまま欲望を満たす行為に走りがちですが、これは根本的な解決方法にはなり得ていないでしょう。
ブッダのことばに次のようなものがあります。
愚人は享楽のために害される。
(岩波文庫『ブッダの感興のことば』中村元訳)
実は私たちの手の取りやすい場所には欲望をかり立たせ快楽に導く誘惑であふれています。一度手にしてしまうと欲望の追及に終わりはありませんから、どんどん沼にはまってしまうのです。そう、これらの誘惑は一口食べると止まらない「禁断の果実」なのです。
では、どうすれば良いのでしょうか。ブッダのことばは続きます。
しかしこの世で自己を求める人々は害されない。
(岩波文庫『ブッダの感興のことば』中村元訳)
どうやら、乱れた心をととのえるもっとも有効的な手段は「自己を求めること」にあるようです。
厳しすぎても優しすぎてもダメ 「中道」の道
とは言うものの、「忙しい」毎日の中で「自己を求めること」なんて至難の業、そんなの無理じゃないかと……。確かに、現実的な問題として、現代社会に生きる私たちの生活から「忙しさ」を完全に取り除くことはできません。しかし、適切な「忙しさ」は必要不可欠ですし、やりがいと人間的な成長を促し充実した日々をもたらします。薬も必要以上に摂取すれば「毒」となるように、過度に心身を追い込んだとしても、得られるものはあまり多くはないでしょう。このことはブッダも次のように伝えていた様子があります。
これは「中道(ちゅうどう)」と呼ばれている仏教の教えのひとつです。極端に厳しくても、極端に緩くてもいけない。何事もバランスの取れた「ほどほど」が肝心だという考え方です。個人的に思わずウンウンと頷く教えです。
同じように私たちにとっての問題は過度の「忙しさ」です。「忙しさ」には自分の力でなくすことのできない「忙しさ」と意識すれば減らせる「忙しさ」があります。仕事の忙しさはなかなか自分でコントロールすることは難しいですよね。しかし、「忙しさ」は働くこと(仕事)だけだとは限りません。欲望を掻き立て心をザワつかせるものに時間を奪われることも心の疲労を蓄積させる「忙しさ」であるのです。それが「忙しく」している原因の一つだということには、あまり気がつきません。
実のところ、私たちは「忙しくさせられている」部分があります。一つは、仕事や人間関係など外部からの影響によって起こること。これは正直自分の力だけでは解決することが難しい。もう一つは、自分の欲望のままに行動する内からの影響によって起こること。これは自分自身の行動を改めることで、減らすことができそうです。
ですから、「忙しさ」全てをコントロールしようとするのではなく、必要以上に忙しくしているものは何かを考えて少しでも心の負担を軽くしてみましょう。自分の心を騒つかせる原因を突き止め遠ざけることも「自己を求めること」に当てはまります。難しい本を読んだり自己啓発を「自己を求めること」だと考えがちですが、過剰なものを整理することが大切なのです。だからと言って、極端に誘惑を排除しようとしてもやっぱり上手くいきません。
「中道」のお話にあったように何事も「ほどほど」が大切なのです。この「中道」の教えはブッダ自身の体験が元になっています。ブッダは悟りを得るために一時は大変な苦行に励んでいました。しかし、それでは心身を疲弊させるだけで悟りを開くことはできませんでした。疲れた身体を癒し心身ともに充実していた瞬間に目覚めるものがあったのです。
それは、私たちも同じです。緩すぎず厳しすぎない「そこそこの忙しさ」を目指しましょう。すぐにできなくてもいい、たまにはちょっと誘惑に負けてしまうこともあるかもしれません。誘惑に負けたからとて、過剰に自分を責めることなく、なが〜い時間軸で頑張りましょう。そうすれば慌しさの中でも、「忙しさ」は長い視野で自分自身の未来を探求するものとなり、日常は地に足がついた「志(こころざし)」となるでしょう。
本当の「癒し」は意外なところ
さて、最後に私の「忙しさ」から離れることのできる「癒し」スポットをご紹介いたします。
それは…お墓です!
お寺には毎年の盆彼岸には非常にたくさんの方々がお墓参りに訪れます。コロナ禍の影響もあって、一時は減っていましたが、ここ最近は以前の賑わいが戻りつつあります。この「お墓参り」の風習は日本独特のもので、なかなか世界でも珍しいようです。同時期に大勢の人がお墓参りに訪れる姿は日本の文化とも言えるのではないでしょうか。
現在のように、それぞれの家が先祖代々の墓を建てるようになったのは江戸時代のころだと言われています。もともと墓は一部の上流階級のものでしたので、庶民は自分の家の墓を建てることに憧れがあったのかもしれません。もっとも、今日ではそれも「墓じまい」ブームにより減少の一途を辿っています。これには、家族形態の変化など様々な事情はあるのですが、コスパやタイパを重視する「忙しい」現代的な流行だなと少し寂しく感じます。お墓の維持には確かにお金や労力が必要ですし、「お墓参り」も面倒なことかもしれません。
けれども、これだけは声を大にして言いたい……! 境内で「お墓参り」の様子を拝見していると、お参りを終えたほとんどの方がどこか清々しい表情されていて、実は「お墓参り」の満足度は極めて高いのです。こんな時代だからこそご先祖さまを通して娑婆世界から極楽浄土にアクセスすることが、何よりの「癒し」となっているのかもしれませんね。
これは僧侶の身内びいきかもしれませんが、「忙しさ」に悩む現代人にこそオンラインではなく、時間をつくってわざわざその場に足を運ぶ「お墓参り」は癒しになると、皆様にオススメさせていただきたいと思います。