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大トリを飾るのは光り輝くあの御方!
我が日の本はボッチの国と喝破し、日本神話に残るボッチ神たちの活躍を見てきた本連載だが、今回が最後になる。
オーラスにはやはり主神にご登場いただくべきだろう。
天照大神だ。
太陽の女神にして、高天原を統べる至高神、そして皇祖神。もっとも輝かしい神である。
だが、この神もまた生涯独身であった。少なくとも配偶神についてはまったく記述されていないので、公式には独神だ。
けれども、子孫はいる。いなければ「皇祖神」になれるはずがない。
配偶者がおらずに子孫だけいるとはこれいかに。
背景になにやらスキャンダラスな神話が……と期待させたかもしれないが、残念ながらそうではない。天照大神の子たちはみんな、呪術的行為によって生まれているのだ。
天照大神は、浄きを好む神々の中でも特にその傾向著しい。お住まいである伊勢神宮の、空気まで磨き上げたかの如きあの緊張感は、ちょっと他に類を見ない。とにかくキリキリピカピカなのだ。
それほどまでに清澄を求める御方である。醜聞などあるはずがない。ま、お騒がせは数々あるんですけどね。
そんなわけで、今回は偉大なるシングルマザー・天照大神の足跡を見ていきたい。
独身のまま五人の子の親になったわけ
さて、イザナギ/イザナミ神話の回で見たように、天照大神は三貴子の長子として、国生み神話のクライマックスで生まれている。
古事記では離婚後のイザナギ単独の子、日本書紀では夫婦相和の末生まれた子として。どちらかが正しいのかは不問に付すとして、三貴子が本当に血を分けた姉弟なのかもわからない。もしかしたら、大人の事情でトリオにされただけかもしれないのだ。つまり、叶姉妹的な「ユニットとしての姉弟」の可能性があるわけだ。さらに、各部族が奉じていた太陽神は必ずしも現アマテラスと同じ神ではなく、あまつさえ女神とは限らない、らしい。
統合の過程でなぜ女神アマテラスだけが残っていったのか、このあたりの事情に深入りすると文字数が足らなくなるのでひとまず先に進むことにするが、神話はかくも人工的な「物語」である、というのは再度強調しておきたい。
しかしながら、少なくとも日本書紀や古事記が成立した8世紀までには、天照大神は「太陽の女神の皇祖神」設定で落ち着いていたのは間違いない。
きっと、太陽の性別は女性であるほうが古代日本人にはしっくりきたのだろう。元始、太陽は実に女性であったのだ。
話を戻そう。
国生み神話で高天原の主宰を任されたアマテラスは、清き国で神々にかしずかれ平和な日々を送っていたが、それをかき乱す存在が現れた。
弟神・素戔嗚命である。
スサノオは素行が悪く、親の言うことも聞かないため、神々の世界からの追放が決まった。そこで、永の旅に出る前にお姉ちゃんに暇乞いしようとノーアポで高天原に現れたのである。スサノオにしてみれば、本当にお別れを言いたかっただけだった。でも、神力があまりに強すぎて、歩くだけで地震が発生してしまった。
驚いたのはアマテラスである。地を揺るがせながら天に上ってくる弟を見て「こいつ、高天原を侵略するつもりでは?」と疑った。そこで先手を打った。
男装して戦装束を身に着け、弟の前に立ちはだかったのだ。
この場面、ちょっとかっこいいので原文を引用したい。
すなわち御髪を解きて、御角髪(みづら)に纏きて、すなわち左右の御角髪にも、また御鬘にも、また左右の御手にも、おのおの八尺の勾玉の五百箇の御統(みすまる)の珠をまき持ちて、背には千入の靫(ゆぎ)を負い、ひらには五百入の靫をつけ、また稜威(いつ)の高鞆(たかとも)を取り佩ばして、弓腹振り立てて、堅原は向股に蹈みなづみ、沫雪なす蹶散らかして、稜威の男建(おたけび)蹈みたけびて待ち問いたまいしく。
「何故上り来つる」
(訳 そこで結った髪を解いて、男性の髪型である角髪に結い直し、頭にも左右の手にも大きな勾玉を何個も繋げたもので飾り立て、背中には千本の矢が入った矢筒、他の場所には五百本入った矢筒をつけ、大きな音が鳴る弓を手にして、堅い地面にめり込もうかという力強さで立ちはだかり、淡雪を蹴り飛ばすような大きな声で雄叫びをあげて問うた。
「なにしに来た!」)
ものすごい威嚇である。弟もさぞびっくりしたことだろう。目が点だったかも。
でもとにかく質問に答えなきゃいけない。そこで「何もクソも邪心はありません。ただお別れを言いに来たんです」と正直に返答した。しかし、アマテラスは信じず「そういうなら証明してみせなさいよ」と無理難題をふっかけてくる。
そこでスサノオはこう提案したのだ。
「じゃあお互いに誓いをした上で子を生みましょう?」
は? 子を生む?
解決策としてはなかなか謎ではあるが、この先の行為はもっと謎だ。
まずアマテラスがスサノオの刀を三つに折って水とともに刀身を噛み砕き、それをプッと吹き出した。するとその水しぶきから三人の女神が生まれた。これが今の宗像三女神である。
一方、スサノオはアマテラスが身につけていた珠を水とともに噛んで、同じようにプッと吹き出したところ、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、活津日子根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)の五人の男神が生まれた。
この結果に喜んだのはスサノオだった。
「私の心が清いから、お姉ちゃんからは手弱女が生まれたのです!」
この理屈もいまいちわからない。国を奪おうなんていう猛々しい心がないから、穏やかな女神が生まれたって解釈なのかもしれない。
なんにせよ、アマテラスもこれに納得した。そう、納得したのだ。
そして、三女神は彼女の口から発生したとはいえ、種はスサノオの刀だからスサノオの子、対して五男神はアマテラスの珠が種なのでアマテラスの子とすると一方的に決めてしまった。
……神様の考えることはつくづくわからない。しかも、「二心なし」と決定したことで増長したスサノオが、結局は高天原で乱暴狼藉を働くようになり、かの有名な天岩戸隠れ神話に繋がるのだから彼はやっぱり困った神だった。
まあ、それはさておき。
いきなり五人の男の子の親となったアマテラスだったが、それでも立派に育て上げた。いや、神に養育の必要があるかどうかは不明なのだが。
やがて天之忍穂耳命は結婚して瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)という子をもうけ、この子が天下りして地上で子孫を造った。その曾孫である狭野尊(さののみこと)こそ、初代天皇である神武なのである。
こういう経緯があったのでアマテラスは皇祖神、ということになったのだ。
珠と刀を交換して子を成すなんて、性行為のちょっとした隠喩のようにも感じられるが、さすがに実の姉弟設定がある上はイザナギ/イザナミのような“普通の神婚”にするわけにはいかなかったのだろう。古代日本は異母であれば兄弟姉妹の結婚が認められたが、同母の場合は今と同じく大きな禁忌だった。謎の呪術行為による子生みは、別系統の神だったアマテラスとスサノオを姉弟設定にしてしまったせいで仕方なく設定した後付けなのではと私なんかは思わなくもないが、それはあくまで妄想。
ともかく、アマテラスはシングルマザーになったのである。
皇祖神がシングルマザー。なかなか強い話だ。
極論すれば、日本とはボッチの神がトップにまします国なのである。
どうだろう。これまで22回にわたり、日本神話で活躍するボッチ神の系譜を追ってきたが、古代日本の倫理観は今とずいぶん違うことにお気づきになったかと思う。
結婚するしないは自由だし、結婚したって嫌になったら離婚するし、シングルで子供を持つのも禁忌ではない。
神々は心の赴くまま、独りで、自由に生きた。
もし取り戻すべき日本があるのであれば、それはボッチでも生きやすかった古代日本なのである!
みなさんも、ぜひ古事記や日本書紀を読んで、古代人の自由な気風に触れてほしい。
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