2023年大河ドラマ『どうする家康』が、話題を呼んでいます。ドラマの中でも描かれていますが、徳川家康は「徳川四天王」以外にも、多くの個性的で魅力的な家臣たちに支えられていました。『どうする家康』がより楽しめるように、そんな粒ぞろいの家臣を紹介する本シリーズ、第2回目は平岩親吉(ひらいわちかよし)です。
即刻、この首をはねてくだされ
「織田殿を、うらみはすまい……」
遠江(静岡県西部)浜松城の一室で酒井忠次(さかいただつぐ)からの報告を受けた徳川家康は、顔をゆがめながらそうつぶやきました。酒井が家康に伝えたのは、家康の嫡男(ちゃくなん)三郎信康(のぶやす)を切腹させよ、という織田信長の指示だったのです。
「やむをえぬ……」
苦渋の決断を下そうとする家康に「殿、お待ちくだされ」と声を上げる者がいました。平岩七之助(しちのすけ)親吉です。
事の発端は、一通の手紙でした。三河(愛知県東部)岡崎城主である信康の正室は、信長の娘徳姫(五徳、岡崎殿)です。徳姫は嫁いでから娘を2人出産しますが、跡継ぎとなる男子に恵まれませんでした。仕方なく、岡崎城でともに暮らす信康の母築山殿(つきやまどの)が、信康に側室を迎えさせた頃から、夫婦仲がぎくしゃくするようになります。
そして天正7年(1579)、徳姫は実父の信長に、夫信康と姑(しゅうとめ)築山殿の不行跡を伝える12ヵ条の訴状を送りました。その中には、敵の武田(たけだ)氏に内通していることをうかがわせる内容もあったのです。徳姫にすれば、日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすための愚痴めいたものだったのかもしれません。しかし、信長は事態を重く見ました。訴状を持参した酒井忠次に「これは事実なのか?」と訴えを一つひとつ尋ね、酒井が認めると、「三郎に腹を切らせるよう、徳川殿に伝えよ」と冷たく言い放ったのです。
家康の前に進み出た平岩七之助は、思いつめた様子でこう続けた、と『三河物語』は記します。
「三郎君(ぎみ)に腹を切らせれば、後々まで悔やむことになりましょう。若君の傅役(もりやく)は、このわたくしでござる。万事、それがしの不行き届きのゆえなれば、わが首を切って織田様に差し出してくだされ。織田様もそれがしの首が来たと聞けば、疑いを解かれましょう。ともかく即刻、この首をはねてくだされ」
命を捨てる覚悟の七之助に、家康は感じ入った表情を浮かべつつも、苦しげに答えます。
「七、よう言うてくれた。わしも跡を継がせようと考えていたせがれを、このようなことで失うのは恥であり、無念この上もない。しかし、われらの前には武田勝頼(かつより)という大敵がいる。織田の後ろ盾なくしては、とうてい対抗できぬ。いま織田殿と手を切るわけにはいかんのだ。お前の首で三郎の命がまことに助かるのであれば、首をもらいもしよう。しかし、すでに左衛門督(さえもんのかみ、酒井忠次)が三郎の不行状を認めた以上、織田殿が納得するはずもない。そこへお前まで失っては、わしは恥の上塗りとなろう。もはや致し方ない。三郎を岡崎城より出せ」
七之助はただ、声を上げて泣くよりほかありませんでした。
同年8月に岡崎城を出た三郎信康は居所を転々としたのち、9月15日、二俣(ふたまた)城(浜松市)で切腹。まだ21歳でした。信康の母親で家康正妻の築山殿も、8月29日に二俣城に移る途中、命を落としたのです。この騒動の真相については今も諸説ありますが、家康にとって痛恨の出来事であったのは間違いなく、傅役の七之助には、生涯忘れることのできない負い目となりました。
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二俣城跡(浜松市)
家康に救われた命
徳川十六神将の一人に数えられる平岩主計頭(かずえのかみ)親吉は、安城(あんじょう)松平氏(のちの徳川宗家)に仕える平岩左京進親重(さきょうのじょうちかしげ)の二男(長男とも)に生まれました。通称は七之助。天文11年(1542)の生まれで、家康とは同い年です。
家康が竹千代と名乗っていた6歳のとき、駿河(静岡県東部)の今川家に人質に出されますが、これに従う28人の松平家臣の中に、七之助も入っていました。ところが移動途中、戸田(とだ)氏の裏切りにより竹千代は今川ではなく、尾張(愛知県西部)の織田信秀(おだのぶひで、信長の父)のもとに送られてしまいます。従う松平家臣も2人に絞られることになり、竹千代より1歳年上の阿部徳千代(あべとくちよ、のちの正勝)と、七之助が選ばれました。同い年で仲がよかったためでしょう。
その後、七之助は今川家の人質時代も常に竹千代の側にいて、竹千代にとって七之助と、3歳年上の鳥居彦右衛門(とりいひこえもん)は、気の置けない友人のような存在だったようです。
竹千代は、元服して名を元康(もとやす)と改めてから3年後、三河寺部(てらべ)城攻めで初陣を飾ります。これが七之助にとっても初陣となりました。ともに17歳のときです。さらにその2年後、桶狭間の戦いの折、今川義元(よしもと)の命で元康は、尾張大高(おおだか)城への兵糧入れと、丸根砦(まるねとりで)を攻略しますが、七之助は旗本として元康の身辺護衛にあたりました。
桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、元康は本来の居城である岡崎城に入り、今川家からの独立を決断。尾張の信長と同盟し、名を家康と改め、三河統一を目指すことになります。
そんな家康にとって大きな試練となったのが、永禄7年(1564)の三河一向一揆でした。三河の反家康勢力が結集し、さらには少なからぬ家臣も一揆側につくという大ピンチでしたが、七之助や鳥居彦右衛門ら、人質時代から苦労をともにしてきた者たちは、迷わず家康を支えて戦っています。
しかしこのとき、家康も七之助もあわや討死か、という危険な場面がありました。一揆勢が家康らの守る上和田(かみわだ)に攻めかかり激戦となる中、家康が鉄砲で撃たれたのです。幸い弾丸は鎧(よろい)の鉄板部分に当たったので怪我はなく、事なきを得ました。また七之助は、一揆方の筧正重(かけいまさしげ)が放った矢が耳に当たり、昏倒してしまいます。筧は七之助の首を取ろうと駆け寄りますが、これに気づいた家康が猛然と馬を進めて大喝すると、筧は恐れをなして逃げ出しました。七之助は、主君の家康に一命を救われたのです。
その後も家康は自ら先頭に立って一揆勢と戦い、ようやくこれを鎮めると、永禄9年(1566)にはほぼ三河を統一しました。そして名字を徳川に改め、東の遠江への進攻を図るのです。
本證寺城御城印と三河一向一揆合戦印(安城市本證寺)
信頼されるからこそ、つらい役回りに
七之助には2人、ないし3人の弟がいました。『名将言行録』は、こんな話を記します。
七之助の弟平右衛門(へいえもん、末弟の康長か)があるとき、榊原小平太康政(さかきばらこへいたやすまさ)と喧嘩になりました。平右衛門が少し怪我をしたので、周囲の者たちが止めに入ります。当時、七之助は徳川家の重臣であり、榊原はまだ若く、低い身分でしたが、喧嘩のことを聞いた七之助は「小平太は若輩とはいえ、才智もあり勇敢で、今後御家の役に立つ傑物である。片やわが弟は、人に斬られる程度の者なのでお役に立てず、無為に禄を食(は)むだけであろう」と、平右衛門を謹慎させ、榊原の昇進を後押ししました。果たしてその後、榊原は諸合戦で活躍し、「徳川四天王」の一人に数えられることになります。家中の人々は七之助の「私心」のなさと、人を見る目の確かさに感じ入りました。
一方、戦場での七之助には、こんな話が伝わっています。
七之助が主将となって、武田方の遠江天方(あまがた)城(静岡県周智郡森町)を攻めたときのこと。七之助は城を囲んで糧道を断ち、頃合いを見て攻撃をかけると、敵は持ちこたえられず、夜陰にまぎれて逃亡。城は落ちました。配下の諸将は敵を追い討ちしようと勇み立ちますが、七之助は「窮鼠(きゅうそ)猫を噛むのたとえもある。地理不案内の我らが無理な深追いをすれば、土地に詳しい敵方から手痛い返り討ちに遭うだろう」と制止しました。冷静な判断というべきでしょう。
戦場経験が豊富で、かつ私心がなく、冷静に物事をとらえる七之助の人柄を買った家康は、永禄10年(1567)に元服した嫡男三郎信康の傅役に、七之助を選びます。以後、七之助は浜松城にいる家康から離れ、信康が預かる岡崎城に詰めて家政を執り行い、信康が出陣する際には、介添えを務めました。乗馬や鷹狩を好み、猛々しい性格だったとされる信康ですが、若年にして「徳川にその人あり」と武名が知られるようになるのは、七之助の陰の功績だったといわれます。
そんな家康から信頼される七之助だからこそ、つらい役目を負わされることもありました。
尾張と三河の国境付近、知多半島を含む尾張東部から三河西部を支配したのが水野信元(みずののぶもと)です。家康の母・お大(だい)の方の兄で、家康の伯父でした。信元は家康が織田信長と同盟を結ぶ際に、仲介の労をとっています。また三河一向一揆や三方ヶ原の戦いでは、ピンチの家康に援軍を出してくれるなど、徳川からすれば友軍的な存在でした。
ところが天正3年(1575)、信元が武田家に内通したという情報を、織田家重臣の佐久間信盛(さくまのぶもり)が信長に報告。信長は信元を討つよう、家康に伝えました。家康は伯父をかくまおうとしますが、信長に抗することはできず、三河大樹寺(だいじゅじ)において斬殺します。その討手が、石川数正(いしかわかずまさ)と七之助でした。もちろん両人とも信元に何の恨みもなく、七之助は息絶えた信元を抱き上げて「君命により、やむを得ずお命を頂戴しました」と泣きながら詫びたといいます。のちにこの一件は佐久間信盛の讒言(ざんげん)で、信元は無実であったことが判明し、激怒した信長は佐久間を追放しました。
そして信元の死の4年後、やはり信長からの指示で、記事冒頭の三郎信康の切腹事件が起こります。自分の命と引き換えに信康を救おうとした七之助でしたが、それも叶わず。七之助は傅役としての責任をとって職を辞し、謹慎しました。家康に信頼されるからこそ、七之助はつらい役回りを負うことが多かったのかもしれません。
平岩氏の家紋「対(むか)い弓」
最期まで傅役として
しかし家康は七之助を放っておかず、やがて信康の旧臣14人を付けて復帰させます。
天正10年(1582)3月に宿敵武田家が滅び、その3か月後に本能寺の変で信長が横死すると、家康は関東の北条(ほうじょう)氏と争った末に、武田旧領の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を勝ち取りました。そして甲斐郡代に任じた七之助を甲府に置き、また北条領と接する郡内地方(山梨県東部)に鳥居彦右衛門を置いたのです。北条氏の甲斐侵攻に備え、信頼する2人に防波堤役を期待したのでしょう。
その後、家康は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に臣従。秀吉は天下統一の仕上げとして関東の北条氏を攻め(小田原征伐)、家康も従軍しました。このとき、七之助は本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)、鳥居彦右衛門らとともに武蔵岩付(いわつき)城(埼玉県岩槻市)攻めで活躍しています。
秀吉が伏見城(京都市伏見区)を築いた折のこと。参上した徳川の家臣4人に祝儀として黄金100枚を与えたことがありました。本多忠勝、井伊直政(いいなおまさ)、榊原康政は受け取りましたが、七之助のみは、使者に突き返したといいます。
「それがしは徳川の禄を食み、衣食は足りており申す。太閤殿下(たいこうでんか)より、金品をむさぼって受け取るいわれはございませぬ」
関ヶ原合戦後、家康は9男の義直(よしなお)を甲斐府中藩25万石に封(ほう)じ、七之助を後見役に任じました。家康の息子の傅役を、再び任されたのです。やがて義直は尾張清須53万9500石に転じ、七之助も尾張犬山12万3000石を与えられますが、七之助は犬山城に入らず、常に清須城にいて義直の政務を補佐しました。信康を補佐したときとまさに同じで、今度こそは立派な領主になってほしいという思いからだったでしょう。
慶長15年(1610)、義直が新たに築いた名古屋城に移ると、七之助は名古屋城二の丸に詰めました。翌慶長16年(1611)、病で危篤となった七之助は、私邸に戻って死去したとも、名古屋城二の丸で没したともいいます。享年70。
一説に、名古屋城内で逝去した七之助に対し、家康が「犬山に帰ればよいものを」と苦言を呈したともいいます。が、もし苦言が事実であれば、それはむしろ死ぬ間際まで後見役の務めを果たそうとした七之助に対し、「最期ぐらい犬山でゆっくりすればよかったものを」という、長年苦労をともにした家臣へのねぎらいが込められていたようにも感じられます。
名古屋城天守と本丸御殿(名古屋市)
参考文献:大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)、新井白石『新編 藩翰譜 第五巻』(新人物往来社)、岡谷繁実『名将言行録』(牧野書房)、煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版)、菊地浩之『徳川十六将』(角川新書) 他