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永遠のふたり 白洲次郎と正子

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2023.05.19

三方ヶ原の戦いで敗れたことがきっかけ? 徳川家康が心酔した「能」の魅力

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NHK大河ドラマ「どうする家康」で、徳川軍が武田信玄率いる武田軍に討ちくだかれた元亀3(1572)年の「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」が放映されました。命からがら逃げかえったあの時に、浜松城で徳川家康は、観世宗節(かんぜそうせつ)に舞を舞わせたと伝えられています。天下人をそこまで心酔させた能の魅力とは何だったのか。能は徳川家康にどんな影響を与えたのか。浜松城公園内にある浜松市松韻亭で、市民向けの能楽教室を開催している二十六世観世宗家の実弟・山階彌右衛門さんにお話を伺いました。

能が徳川家を救った? 代々まで能を崇めた徳川家の伝承とは

―勝つか負けるかという戦の最中に、浜松城で舞を舞わせたというのは、家康にとってどういう状況だったのでしょうか。

山階:家康が浜松城に逃げ帰ってきた時、ひどい状態の家康の身の回りのお世話をしたのが私たちの祖先である観世宗節でした。家康としては、「今宵が最後、明日は落城だ」と覚悟を決めたんでしょう。そこで「舞ってくれ」と頼んだという説があります。ただもう一つ、兵も城に戻れるように門を開け放っていたのですが、これを何かの罠ではないかと思った武田軍が、攻め入らずに撤退してしまうんですよね。それをめでたいとして舞わせたという説もあります。どちらにしても、徳川家にとっては、その舞によって救われた、まさに神風が吹いたということで、それ以後、年頭に謡(うたい)初(ぞめ)として、「弓矢立合(ゆみやたちあい)」という戦勝の曲が舞われるようになりました。

―家康だけでなく、織田信長も豊臣秀吉も能に傾倒していましたが、戦国武将がなぜ、戦とは相反する世界に心惹かれたのでしょうか。

山階:能というのは、話の中に幽霊がたくさん出てきます。源義経だったり、平家の侍だったり。平家の侍の場合は、戦いに負けて地獄に落ちるという話なんですが、この世に姿を現して、僧侶に自分を弔ってくれと頼んで、成仏するというパターンが多い。ですから、戦いでいつ死ぬかわからない信長や秀吉たちも、過去の武人たちの姿に自分を重ね合わせていたのではないかと思います。

―現在では死後の世界は遠くなってしまいましたが、当時は身近なものだったということですよね。

山階:そうです。生死という言葉のように、死というものが常に隣り合わせでした。明日死ぬかもしれないという時代を生き抜いていたからこそ、能を見ながら、自分は地獄に行くのか、極楽浄土に行けるのか、そんなことを考えていたのではと思います。

徳川家康像

能は弱者の芸。家康の心に染みた能が描く日本人の心

―家康が能に惹かれた理由はどんなところだったのだと思われますか。

山階:能は弱者の芸だと思うんです。根底に弱者に対する思いやりがある。能の謡(うたい)には、勝利するとか相手を打ち負かすといった話があまり出てこないんですよね。鬼となって出てくる人も生前に何かあって、例えば盗みを働いて処刑されたとか。弱者であることが多い。何か苦しい事や辛いことがあって、出てきた亡霊を成仏させて終わる。家康が能を習っていたのも今川家での人質時代です。家康は能によって、寂しさを慰めたり、娯楽として楽しんだりしていたんだと思います。

―幼い頃から、家康にとって心のよりどころでもあったんですね。家康の人格形成にも影響を与えているんでしょうか。

山階:日本人は優しい民族だと思います。戦国時代も、敵同士であっても和睦をしたり、敗者を自分の味方に引き入れたり。信長や秀吉はちょっと違っていましたが、家康は一党すべて滅ぼすということはしなかった。徳川政権でも、取り潰された大名は多かったのですが、当主は切腹させられても、残った家族には「1万石で食べていきなさい」というように取り計らったといいます。徹底的に潰すということはしなかったんですよね。家康がどのくらい能に影響を受けていたかわからないんですが、能をずっとやっていたということを考えると、人を赦す心という部分は、影響を受けたんじゃないかと思います。

―今回の大河では、弱々しい家康も描かれています。そういうお話を聞くと、能に傾倒したというのも納得できますね。

山階:豊臣秀吉の牙城である大坂城の西の丸や聚楽第で、家康が舞ったという能が言い伝えられています。それが「松風(まつかぜ)」や「野守(のもり)」といった比較的地味な能なんです。「安宅(あたか)」や「道成寺(どうじょうじ)」といった派手な能を舞ったという記録は残されていないんですね。

松風
須磨の浦(今の神戸市須磨区付近)を訪れた僧侶が、磯辺にある松を見つけた。地元の人に聞くとそれは松風、村雨という名をもつふたりの若い姉妹の墓標だという。経を上げ二人を弔った後、一泊する宿で、その宿にいた二人の娘にその話をすると、その二人こそが、松風と村雨の亡霊だった。恋人であった在原行平との恋の思い出に浸るうちに、姉の松風は半狂乱になってしまい、その松に縋りつく。妹の村雨の頼みで、供養を上げると、二人は夢の中へと姿を消し、夜明けには松に風が吹く音だけが聞こえたという話

山階:これは私の考えですが、派手なものは秀吉に譲ったのではないかと。秀吉の時代、自分は目立たないようにしていたというのが、能の選曲にも出ている気がします。さらに、秀吉は「明智討」とか「柴田」とか、敵をやっつけた自分を主役にした新作能を作らせているんですが、家康は自分をシテにした能を作っていないんです。それも家康らしいなと思います。家康がよく演じたという「松風」は、舞台の中心に松の作り物が置かれているんですが、「松」を「松平」にかけていたのではと思います。それと「松」は通常、男女にとっての「待つ」なんですが、家康にとっては「時世を待つ」だったのではと思います。こういうところにも、家康の性格が表れているなという気がしました。

能を式楽とし、大名たちにも学ばせて、治世に利用した

―あれだけの時間をかけて天下を取った家康らしいお話ですね。信長・秀吉・家康の三英傑を例えるホトトギス話も、家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」でした。ある意味、能は家康にとって、要所要所ターニングポイントにもなっていたのかもしれないですね。その後、将軍となり、江戸時代は、家康が能を式楽(公式の場での芸能)にしましたが、それはどのような理由があったのでしょうか。

山階:先ほどの三方ヶ原での出来事があって、徳川家では、代々、新年に能楽師を呼んで舞を舞わせるんですね。その時に、褒美として自分の持服(じふく)を与えているんです。その儀式が徳川家では、江戸城で明治維新まで続くんです。大坂夏の陣でも、徳川秀忠がやはり大坂城を落城させる時に、観世太夫を呼んで舞を舞わせて、自分の陣羽織を渡しているんです。家康公と同じ神君であることを示した。徳川家にとって能は、三方ヶ原で負けなかったという神風的なものとして、「徳川家の威厳」を伝えるために崇めたのでしょう。特別な行事として後世に伝えられ、年頭に能を見た各大名たちも、家康と同じように自分の着ていた裃(かみしも)を投げていたという記録も残っています。

―現代だとスポーツ選手が優勝した時に、着ていたユニフォームを投げるのに似ていますね。そういう話を聞くと、なんだか戦国大名たちも身近な感じになってきます(笑)。

山階:もう一つ、式楽にした理由に、各大名家に礼儀作法として能を習うようお達ししているんです。これも武力よりも文の方に行けと、思考を変えさせるために利用したのではないかと思います。刀剣が好きだとか、弓が好きだという人たちより、能が好きという殿様になってもらった方が、幕府としては安泰ですよね。

―いつ翻るかわからない時世の中で、能を中心に据えたというのも一つの策だったんですね。能からも家康像が見えてきますね。

そもそも能はどんな変遷で伝えられてきた?

―現代では、能は身近なものというより、格式の高い、高尚なものとなり、私たちの日常からは離れたものになってしまいました。能が誕生して現代までにどのような変遷があったのでしょうか。

山階:もともと私たち観世流の祖先である観阿弥(かんあみ)は、芝居調のものが多く、娯楽的な見ていてわかりやすいものが多かったんです。それを息子の世阿弥(ぜあみ)が、きっちりとスタイルを作り、複式夢幻能(ふくしきむげんのう)といって二部構成にして、シテ(主役)が中入後、扮装を変えて現れるという現代のような能のパターンにしました。世阿弥という人は、子どもの頃から、公家を家庭教師につけて、非常に高度な勉学を受けていたといわれています。そのため、世阿弥の作った謡は、難しいものが多い。世阿弥自身も自分の作ったものがお客様にも、後世の人たちもわからないだろうと言っている曲もあるぐらいです。ある意味、自分の知識の豊富さをひけらかしているようなところもありました。世阿弥の作ったものだけをやっていたら、現在まで続かなかったと思います。その後に「これじゃダメだ」と世阿弥の甥で、観世信光が「紅葉狩」や「土蜘蛛」「船弁慶」といった、歌舞伎でもよく取り上げられる派手なパフォーマンスのものをたくさん作ったことで、今に続いております。

能「融(とおる)」

年齢を重ねて能を見ると、死後の世界が身近になる

―少しずつ形を変えながら、これだけ長い時代にわたって、日本人に受け入れられてきたのですね。山階先生は、能のどこに一番魅力を感じられますか。

山階:芝居としての面白さ、謡という言葉の美しさ、舞の動きの美しさですね。今の日本に欠けてきているものだと思います。言葉も崩れてしまい、テレビなどでも、口の中に食べ物が入ったまま話すなど、作法もなくなってしまいました。そういうのは相手に対しての最低限のマナーだと思うのですが、日本人の中に美学のようなものがなくなってきているなと思います。

―「あわれ」や「おかしみ」という表現も違うものになってきていますよね。山階さんはシテを演じられることが多いと思いますが、能で演じているからこそ、感じることはありますか。

山階:能の世界を通して、死者と語るというか。能楽師は、幽霊や鬼を演じますよね。鬼も実態のないものです。そうした人たちを演じていると、どこか客観的に見てしまうんですが、亡くなった自分の父親が得意としていた謡を稽古したり、演じた時にジワっと面影が蘇ってくる。そう感じることがあります。

―能舞台の「橋掛かり(はしがかり)」がまさにそうですね。霊界と現世を大きく隔てていないというか。向こうの世界と繋がっているような感じがいたします。

山階:50代、60代を過ぎて、死後の世界を近くに感じるようになると、だんだんと能がわかってくると思うんです。だから若い人たちが、難しくてわからないのは当たり前。向こうの世界にどっぷりつかってしまう方が不自然ですしね。

―では、最後に初心者はどのように能を見たらよいでしょうか。

山階:初めてお能を見る時は、ある程度、あらすじを理解しておく。シテが何で、ワキは何なのかや構成を事前知識として入れておくといいと思います。そして言葉を全部わかろうとせず、その場の雰囲気を味わう。そして家に帰って、もう一度、本か何かで今日はどんな話だったのかなと思って読むと、ジワーッと感じるものがあるというぐらいでいいのだと思います。

山階彌右衛門(やましな・やえもん)
能楽師 シテ方観世流
重要無形文化財総合指定保持者
1961年、二十五世観世宗家 観世左近の次男として生まれる。
2007年、十二世山階彌右衛門を襲名。
国内各地での能楽公演をはじめ、学校・企業などで能の面白さを分かりやすく学べる「能のワークショップ」を継続的に行うなど普及活動と後進の育成に力を注いでいる。海外公演にも数多く参加。
2020年 「第40回 伝統文化ポーラ賞」優秀賞受賞。
一般社団法人観世会 副理事長。一般財団法人観世文庫 常務理事。国立能楽堂 能楽養成 副主任講師。公式ホームページ