Culture
2023.05.17

ファンから命の恩人へ。夏目漱石を生還させた医師・森成麟造【漱石山房記念館】

この記事を書いた人

夏目漱石。日本人なら誰もがその名を知る大文豪だ。
彼は幕末の江戸、まさに大政奉還が行われた慶応3年(1867)に生まれ、激動の明治を経て大正5年(1916)に49歳で亡くなった。
たった50年にも満たない人生だったが、黎明期の日本近代文学を牽引し、今も愛される小説を残した大文学者であった一方、教育者として文学を志す明治生まれの若者たちのロールモデルやメンターになった功績も大きい。

英語教師として各地の学校や東京帝国大学で教鞭をとっていた時期だけでなく、専業作家になった後も多くの若者を導いた。その中には芥川龍之介や内田百閒などのビッグネームも一人ならずいて、その多士済々ぶりから後に「漱石山脈」と称されるまでになったのだ。

ほとんどは教師時代の教え子や私淑の末に自宅まで訪ねていって弟子入りした者たちだった。だが、中には偶然の成り行きで山脈に連なることになった人物もいた。
森成麟造(もりなり りんぞう)はその一人だ。

芥川や百閒と違い、誰もが知る名前ではない。それもそのはず、森成氏は文学者ではなく医者で、人生の大半を故郷で過ごした人物なのだ。名士として地元では顕彰される存在だが、広く知られるわけではない。
けれども、彼は明治時代のある一面を象徴するような人物だった。今と違い、情報や文化の伝達速度が緩やかだった時代、地方都市の近代化に森成氏のような人物が果たした役割について、漱石との関係性を通して見ていきたい。

修善寺の大患

漱石の死因が胃潰瘍だったのは比較的よく知られている事実だ。
幼い頃から人間関係に揉まれて十分な愛情を受けることができず、悩み多き青年期を過ごした漱石には若干被害妄想の気があった。また家族や親族との関係に苦労し、さらに3年に及ぶ英国留学では神経症に悩まされた。帰国後もこの状態は続き、ストレスフルな日々を過ごしていたのが胃弱の原因になったと思われる。

専業作家になってから精神状態は少しずつ落ち着いていったものの胃弱は進み、明治43年6月に「胃潰瘍」の診断がおりたころにはすぐ入院しなければいけないほど病状が亢進していたのだ。

漱石山房記念館展示室内

ひと月半ほどの入院生活を経て、7月末に退院した漱石は転地療養を勧められ伊豆の修善寺温泉で湯治することにした。
修善寺温泉は起源を平安時代に遡れるとされる伊豆最古の温泉地だ。江戸時代中頃にはすでに宿泊施設があったが、明治時代になって交通網が整備されると首都圏から多くの客を集めるようになった。

山中にありながら古い歴史を感じさせる閑静な佇まいは文人にはもってこいの療養地だ。また、単純アルカリ泉の泉質は慢性消化器病に適しているというから、漱石には願ったり叶ったりの場所、のはずだった。
ところが、8月6日に菊屋という宿に到着するとその夜から病状は悪化、一進一退を繰り返したあげく24日には大量吐血し、人事不省に陥った。帰京後の漱石が書いた闘病記「思い出す事など」によると「実に三十分の長い間死んでいた」のである。まさに生死の縁をさ迷う羽目になったのだ。

そして、後に「修善寺の大患」と呼ばれるようになるクライシスをギリギリのところで防ぎ、漱石を生還させた医者こそが森成麟造なのである。

命の恩人・森成麟造

森成麟造は明治17年(1884)に上越の真荻平(現上越市安塚区)で生まれた。父は村長まで務めた地元の名士だ。そんな家の子なら当然将来を嘱望されていただろう。中学を卒業すると医者を目指すために仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学、卒業後は東京・内幸町にあった長与胃腸病院で勤務するようになった。
そこに患者としてやってきたのが漱石だったのだ。

漱石肖像 大正元年9月(小川一眞撮影・漱石山房記念館提供)

さて、ここからは新宿区立漱石山房記念館の学芸員・鈴木希帆さんに伺った話を元に「修善寺の大患」前後の流れを見ていきたい。

当時の漱石は朝日新聞社の専属作家だった。漱石の病状が思わしくないとの報を受けた朝日新聞の担当者は長与胃腸病院に連絡、院長は森成氏を主治医として漱石の元に送った。
しかし、なぜ森成氏だったのだろうか。

「どうやら森成さんは文学青年でもあったようです。長与胃腸病院院長の長与称吉は没後に爵位を贈られるような人物だったのですが、文学に理解があり、漱石の『草枕』などもすでに読んでいたようです。また、病院では「春風」と題する院内誌を発行していて、森成さんはそこで『お草履日記』なる文章を寄稿していました。これは院内で内履きとして使われる草履視点で病院でのあれこれを描写する趣向の小説だったそうですが、きっと『吾輩は猫である』から着想を得たのでしょう。つまり、森成さんは、実際に出会う前からすでに漱石ファンだったのですね。当時は病室主任となり、時間的な余裕があったと言います。そんなこともあって、まだ若いとはいえ、森成さんが主治医にふさわしいと考えたのではないかと推測します」
漱石は当時の知識階級の青年たちにとってアイドル的存在だった。森成氏もさぞ心に期するものがあったに違いない。

「森成さんは主治医として24日夜の危機を救っただけでなく、その後も約2ヶ月間同宿し、ほとんどつきっきりで漱石の回復を支えました。この献身には漱石も大いに感謝し、『思い出すことなど』でもたびたび名前を出しています。ただ、療養中は病人にありがちなワガママぶりを発揮したようで、特に回復期に入るとあれが食べたいこれが食べたいと無茶をいう漱石に対し、時には嫌われ役をせざるを得ませんでした。胃病なんだから食べ物の制限があるのは当然なのに、漱石はやれしみったれてるだとかなんとか、悪口を周りに言っていたそうなんですよ。医師としてはやりきれませんよね(笑)。そこで、森成さんはストレスがたまると修善寺付近の山でハイキングをして気晴らしをしていたとか。時には漱石の妻・鏡子さんも一緒に出かけたようです」。

いくら医師とはいえ、若い人が何十日も山中の小さな町で始終気の抜けない状態に置かれるのは大変だったはずだ。同情しかない。
結局、漱石が東京に戻れたのは10月になってからのことだった。しかも全快とはいえない状態で担架に寝たまま運ばれ、そのまま家に戻らず病院に直行して入院、という有様だった。
その時の様子は「思い出すことなど」に詳しいのだが、ここで森成氏の優しい人柄を偲ばせる記述があるので、少し引用しておこう。

帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった。扶けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らなかった。(中略)耳には桐油*1を撲つ雨の音と、釣台*2に付添うて来るらしい人の声が微かながらとぎれとぎれに聞こえた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成さんが枕元の信玄袋の口に挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。

*1 桐油-油紙のこと。ビニールなどなかった時代、桐油などを塗った紙を耐水性包装材として使った。
*2 釣台-担架のような人や物を運ぶ台

病人の枕元に野菊を挿す。菊は宿の庭か道すがらにでも手折ったのだろうか。美しい秋花で病人の気をまぎらわせようとする心遣いが、なんともゆかしい。

「病に生き還ると共に、心に生き還った」

修善寺での体験は、漱石にとって自らの人生に関わっている人々について思いを深くするきっかけになった。
東京での再入院の翌朝、漱石は鏡子夫人から長与院長が8月末に亡くなっていたことを聞かされる。さらにその翌日、新聞で米国の哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズの訃報を見た。漱石はジェームスの著作『多元的宇宙』を修善寺に持参していたのだ。

余の病気について治療上色々好意を評してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を投げ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
(「思い出すことなど」より)

「命がある」ということそのものの不思議、そして悦び。
それは改めて自分を取り囲む人々への感謝につながっていく。

自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合のように喜んでいる。そうして自分の癒りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かして置きたいとのみ冀っている。自分の介抱を受けた妻や医者や看護婦や若い人たちをありがたく思っている。世話をしてくれた朋友やら、見舞に来てくれた誰彼やらには篤い感謝の念を抱いている。そうして此処に人間らしいあるものが潜んでいると信じている。(「思い出すことなど」より)

もともと狷介不羈(けんかいふき)気味の漱石だったが、素朴な親切や厚意に触れたことでこれまでとは違う人間観を得た。それが晩年の諸作品に表れた深い心理的洞察に結びついたのは間違いのないところだろう。
修善寺の大患から死去まではわずか6年しかなく、その間も最後まで快癒することのなかった胃潰瘍のほか、糖尿病やリューマチも発病、さらには末娘の急死などプライベートでの不幸は続いた。

安らかとは言いがたかった晩年、漱石がたどり着いたのが有名な<則天去私>の境地だった。天に則り私を去るとは、我を捨てて天の道理に従って生きる、というほどの意味だ。生病老死、人生のあらゆる事柄を思い通りに操れる者など誰一人としていない。稀代の文豪は一度は逃れ得た死がまた忍び足で近づいてきているのをどんな思いで眺めていたのだろうか。

漱石山房記念館《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造

さて、話題を森成麟造に戻そう。
森成氏は修善寺の大患の翌年、故郷に戻って結婚し、新たに医院を開業することになった。だが、帰郷後も夏目家との交流が続き、漱石没後は鏡子夫人と長らく親交を結んだ。

現在、新宿区にある漱石山房記念館では、夏目家と森成氏の関係に焦点を合わせるテーマ展示が行われている。記念館の所蔵品だけでなく、遺族が所蔵されている資料なども展示されているのが見ものだ。

「修善寺の大患を中心に見てみると、森成さんの献身だけでなく、鏡子夫人がいかに漱石を支えていたかがよくわかります。時には悪妻よばわりされることもある夫人ですが、本当はよく気のつく人で、実務面で漱石を助け、補っていました。森成さんの送別会も鏡子夫人が中心になって動いています。夫人は漱石の仕事をよく理解し、同じ方向を向いていたのでしょうね。今回展示した書簡などからも夫人の内助の功の大きさを見ていただけると思います」(鈴木さん談)

漱石が森成氏に送った銀製のシガレットケース。感謝の言葉と俳句が刻まれている(個人所蔵)

また、森成氏が東京で得た人脈をフルに活かし、故郷の文化活動に注力した様子も知ることができる。日本の近代化は、森成氏のように故郷の学問/文化的発展に尽くした人々がいたからこそ成し遂げられたのだ。

漱石山房記念館外観(画像・漱石山房記念館所蔵)

展示は2023年7月9日まで。*詳細は公式サイトでご確認ください。
漱石山房記念館
https://soseki-museum.jp/